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第31話 王都へ行く

雪解けにはまだ遠い、厳しい寒さが続く辺境伯邸の朝。

応接室には、王都から到着したばかりの監査院の使者が立っていた。


使者は分厚い外套に付いた雪を払い、恭しく一礼してから、手に持っていた革張りの筒を開いた。


「王都監査院、法務院、および神殿福祉局の三機関より、正式な通達でございます」


よく通る事務的な声が、冷たい空気の張った応接室に響く。

長椅子に腰を下ろすヴィルヘルムと、その斜め後ろに控えるアリシアは、静かに使者の言葉に耳を傾けていた。


「過日提出された各種証拠、および上奏の準備が整い、合同審問の開廷が決定いたしました。つきましては、告発の主要参考人として、アリシア・ヴェルディーニ殿の王都への出頭を要請いたします」


ついに、この時が来た。

アリシアは背筋を伸ばし、インクの染みが残る自らの指先を膝の上で静かに握りしめた。


暗号物流を通じて王都のアルベルトへ送り続けた、調達委員会の不正を暴く裏帳簿の断片。そして、この辺境の地で着実に積み上げてきた、自らの無実を証明するための確固たる記録。

それらすべての紙の刃を、王都の大人たちの前に叩きつける時が来たのだ。


「承知いたしました。王都への出頭要請、確かにお受けいたします」


アリシアが冷静に、だが力強く答えた直後だった。

それまで無言で使者を見据えていたヴィルヘルムが、ゆっくりと立ち上がった。


「私も行く」


低く、有無を言わせぬ響きを持った声だった。


使者が驚いたように瞬きをする。

「グランベル卿も、でございますか? 卿には証拠提出のご助力をいただきましたが、審問の場での必須の喚問対象とはなっておりませんが……」


「王への上奏の連名者として、その顛末を見届ける義務がある。辺境伯の名で保証した証拠が、正しく裁かれるかをこの目で確かめねばならないからな」


ヴィルヘルムはそう言い切り、視線をアリシアへと移した。


「それに、君を一人で王都へ送るつもりはない」


アリシアの胸が、小さく跳ねた。

かつて、横領の濡れ衣を着せられ、ただ一人で雪の街道に放り出された夜。誰一人として味方はいなかった。誰も、彼女の言葉を信じようとはしなかった。


だが今は違う。

この嘘を憎む厳格な辺境伯は、自らの権力と地位を盾にして、彼女の隣に立とうとしてくれている。『家政婦頭』という肩書きの枠を超えた、対等な共闘者としての強い決意が、彼の灰色がかった青い瞳に宿っていた。


「……ありがとうございます、ご当主様」


アリシアは深く頭を下げた。彼が共に来てくれるのなら、王都のどんな権力者の前でも、決して怯むことはない。



* * *



王都へ出発する日の朝。

中庭には、分厚い雪避けの幌を張った堅牢な馬車が用意され、屈強な護衛の兵士たちが慌ただしく準備を進めていた。


アリシアは厚手の外套を羽織り、見送りに集まってくれた使用人たちに向き合った。


「ハインツ様。留守の間、屋敷の管理をよろしくお願いいたします」


「お任せください、アリシア様。防犯の態勢はすでに強化しております。この屋敷には、ネズミ一匹たりとも通しはいたしません」


執事のハインツが、いつもの冷静な顔に頼もしい笑みを浮かべて一礼する。


「ベルナルトさん、カトリーナ。救貧食堂の運営と……あの子たちのこと、お願いしますね」


「おう! ちびっ子たちの腹は、俺が温かくて旨いスープで満たしてやるから、心配すんな!」

「リリィお嬢様のお着替えも、私がちゃんとやりますから。アリシアさんは、お気をつけて行ってきてくださいね」


無精髭の料理長と、若いメイドが力強く頷く。

ここには、アリシアがこの数ヶ月間で築き上げてきた、確かな信頼と絆があった。彼らがいれば、屋敷のことは何も心配いらない。


そして、アリシアは最後に、少し離れた場所に立っている小さな二つの影へと向き直った。

エミルとリリィ。二人は、王都へ向かう馬車を不安げな瞳で見つめていた。


王都。彼らにとって、それは冷たい母親と、理不尽な大人たちがいる恐ろしい場所だ。

アリシアがそこへ行くということは、もう二度と帰ってこないのではないかという恐怖が、彼らの顔に影を落としていた。


「ママ、いくの……?」


リリィが、とてとてと歩み寄り、アリシアの外套の裾を小さな両手でぎゅっと握りしめた。その大きな瞳には、今にも零れ落ちそうな涙がいっぱいに溜まっている。


「ええ、リリィ。少しだけ遠くへ、お仕事に行ってくるの」


アリシアは雪の積もる地面に膝をつき、リリィの視線と同じ高さになった。そして、その小さな身体を冷たい風から守るように、しっかりと抱きしめた。


「でも、怖がらなくていいのよ。ママは、必ずあなたたちのところに帰ってくるから」


アリシアがリリィの背中を優しく撫でると、少し離れた場所で唇を噛み締めていたエミルが、一歩前に出た。

彼の手には、亡き父ジェラルドが遺した、あの小さな商売覚書の帳面がしっかりと握られていた。まるでお守りのように、その古い革表紙を両手で抱え込んでいる。


「……先生」


エミルは、震えそうになる声を必死に堪え、真っ直ぐにアリシアを見つめた。


「僕たちは、ここで待っています。ハインツさんや、ベルナルトさんの言うことを聞いて、いい子にしています。だから……」


八歳の少年の顔が、泣き出しそうな不安と、懸命な強がりで歪む。


「先生……必ず、帰ってきてください」


それは、かつて雨の宿場町で母親に捨てられた少年が、今度こそ信じたいと願う、切実な祈りの言葉だった。

アリシアの胸が、激しく締め付けられる。彼女はリリィを抱きしめたまま、もう片方の腕を伸ばし、エミルの小さな身体も一緒に抱き寄せた。


「ええ。帰ってくるわ」


アリシアは、二人の温かい体温を確かめるように、強く、強く抱きしめ返した。


「どんなことがあっても、必ず帰ってくる。……ここは、私の帰る場所だから」


血の繋がりはない。法的にも、まだ完全な家族と認められたわけではない。

だが、この腕の中にある確かな命の重みと、自分を慕い、信じて待っていてくれる小さな心。それこそが、アリシアにとって何よりも価値のある、絶対に奪われてはならない財産だった。


馬車に乗り込む前、少し離れた場所からヴィルヘルムが静かにその光景を見守っていた。

彼の眼差しは、冬の冷たい空気の中にあっても、ひどく穏やかで温かい色を帯びていた。



* * *



数日にわたる過酷な馬車旅を終え、アリシアとヴィルヘルムはついに王都へと足を踏み入れた。

休む間もなく、二人が向かったのは王都の中心部にある神殿福祉局だった。


子どもたちの保護や養育環境の監査を専門とするこの公的機関の奥深くで、アリシアは長机を挟んで、二人の上級福祉官と対峙していた。


「グランベル卿から提出された各種の記録、および神殿の保護記録の写しは、確かに確認いたしました」


白髪交じりの厳格そうな福祉官が、手元の書類を揃えながら重々しく口を開いた。


「事の経緯は理解しております。グレイフェルト家の現夫人であるセレスティア殿が、養育の義務を放棄し、意図的に子どもたちを宿場に遺棄したという疑いは極めて濃厚です。……ついては」


福祉官は、事務的な視線をアリシアへと向けた。


「近日中に開かれる合同審問に向け、当局としても最終的な事実確認を行わねばなりません。一番確実なのは、被害者である子どもたち本人の口から直接証言を取ることです。子どもたちを、至急この王都へ召喚したい」


大人の都合を最優先した、あまりにも当然という顔での提案。

王都の裁判や監査において、子どもはしばしば親の権利や財産を争うための「最も有効な証拠」として扱われる。今回も例に漏れず、彼らはエミルとリリィを法廷という戦場に引きずり出そうとしていた。


「お断りいたします」


アリシアの凛とした声が、冷たい面会室の空気を切り裂いた。


「子どもたちを、王都へ呼ばないでください」


福祉官が、予想外の拒絶に目を丸くしてアリシアを見た。


「アリシア殿。これはあなたにとっても、決して悪い話ではないはずです。長男の口から『実の母に捨てられた』と審問の場で直接証言させれば、親権の剥奪は決定的なものになります。最も手っ取り早く、確実な手段ですよ?」


「手っ取り早いからといって、子どもたちの心を犠牲にして良い理由にはなりません」


アリシアは姿勢を崩さず、真っ直ぐに福祉官の目を見据え返した。


「あの子たちは、冷たい雨の降る宿場町で、迎えの来ない馬車を何時間も待ち続けました。大人に見捨てられたという絶望が、どれほど深く彼らの心を傷つけたか。そのトラウマを抱えた子どもたちを、自分を捨てた母親がいるこの王都へ呼び戻し、大勢の知らない大人たちに囲まれた法廷で、あの日の恐怖を何度も口にさせるおつもりですか」


「しかし、法的な手続きとしては……」


「あの子たちの言葉は、あの子たち自身のものです」


アリシアはインクの染みが抜けきらない両手を、膝の上で固く握りしめた。


「大人たちの醜い争いに決着をつけるための、便利な『証拠』や『道具』ではありません。私は、あの子たちを私の戦いの武器には絶対にいたしません」


感情論で怒鳴り散らしているのではない。彼女の眼差しには、どんな権力にも屈しない、実務者としての静かで強靭な覚悟が宿っていた。

福祉官は言葉に詰まり、隣に座るヴィルヘルムへと助けを求めるような視線を向けた。合理性を重んじる辺境伯であれば、この女の非効率さをたしなめるだろうと期待してのことだ。


だが、ヴィルヘルムは腕を組んだまま、氷のように冷たい声で福祉官の期待を完全に打ち砕いた。


「彼女の言う通りだ」


ヴィルヘルムは、分厚い革鞄から辺境伯家の封蝋が押された一通の書面を取り出し、机の上に滑らせた。第26話でアリシアが起草し、ヴィルヘルムが保証を与えたあの聴取条件書だ。


「神殿福祉局の本来の目的は、子どもたちの心身の安全と保護であるはず。法廷の勝敗のために子どもをすり減らすのは、貴局の理念にも反するのではないか」


「グ、グランベル卿……しかし、聴取を行わないわけには……」


「聴取を拒否しているわけではない。場所と条件を指定しているのだ」


ヴィルヘルムの低い声が、面会室を完全に制圧した。


「聴取は、現在の保護場所である私の辺境伯邸で行うこと。冬の街道は危険だ。私が直属の騎士団を護衛につけ、貴局の福祉官を辺境まで安全に送り届けることを保証しよう」


福祉官は、提示された書面を震える手で開き、そこに記された厳格な条件に目を通した。


『同席者は少人数の専門家のみとする』

『聴取はただ一度きりとし、その内容を意見書として合同審問で代読すること』

『現保護者であるアリシアは、同席しないこと』


最後の項目を見て、福祉官は信じられないという顔でアリシアを見た。

「……アリシア殿は、同席しない。これは、どういうことですか?」


「私が隣にいれば、貴局の皆様は『この女が子どもに嘘の証言を吹き込んでいるのではないか』と疑うでしょう。あの子たちが話す言葉は、誰に言わされたものでもない真実の言葉であることを、あなた方自身の目で確かめていただくために」


子どもを守るために王都への召喚を拒絶しながらも、決して子どもを自分の支配下に置こうとはしない。その実務的かつ倫理的な提案に、福祉官は言葉を失い、やがて深く、心からの敬意を込めて頭を下げた。


「……恐れ入りました。ご提示いただいた条件を、すべて受諾いたします」


福祉官が正式な受理の署名を刻み込み、子どもたちが王都へ召喚されないことが完全に確定した。


手続きを終え、神殿福祉局の重厚な建物を後にする。

冷たい王都の風が、アリシアの外套を揺らした。


彼女は、遠く北の空――エミルとリリィが待つ、温かい辺境の空を見つめた。

あの子たちを巻き込まず、過去のすべての因縁に決着をつける。


アリシアは、守るべき家に子どもたちを残し、決戦の地である戦場へとその足を踏み入れたのだった。

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