第30話 気づいた感情と、家族のかたち
執務室の机の上に置かれた数枚の羊皮紙を前に、ヴィルヘルムは静かに息を吐いた。
家政婦頭であるアリシアから提出された、辺境伯邸の月次報告書。
それは、芸術品のように美しく、完璧な書類だった。
備蓄の増減、救貧食堂での消費量、新たに見直された商会との取引価格。
すべての数字が寸分の狂いもなく噛み合い、無駄な装飾の言葉は一切省かれている。それでいて、現場で働く使用人たちの労務状況への細やかな配慮が、数字の裏側から確かに読み取れた。
(……見事なものだ)
ヴィルヘルムは、手元の報告書に承認の署名を書き込みながら、内心で感嘆した。
彼女が来てから、すべてが変わった。
薪の配分一つ、塩の管理一つで、厳冬の屋敷の中に確かな温かさが巡るようになったのだ。
ふと、分厚い扉の向こうから、微かな足音が近づいてくるのが聞こえた。
コツ、コツ、という、控えめだが迷いのない足音。
ヴィルヘルムは、手にしたペンを止めた。
いつからだろうか。大勢の使用人が行き交うこの屋敷の中で、彼女の足音だけを、これほど正確に聞き分けられるようになったのは。
ノックの音が三回、静かに響く。
「入れ」
「失礼いたします、ご当主様」
扉を開けて入ってきたのは、予想通りアリシアだった。
午後の会議で使うための新たな資料の束を抱えている。
「先ほどの報告書、確認が終わったところだ。完璧だった」
「過分なお言葉です。ご当主様が市場改革をすぐに承認してくださったおかげで、無駄な支出を適正に戻すことができただけです」
アリシアは静かに頭を下げ、資料を机の上に置いた。
その所作には一切の無駄がなく、彼女の態度には、ヴィルヘルムが最も嫌悪する「感情による操作」が微塵も存在しなかった。
夫に裏切られ、濡れ衣を着せられ、真冬の雪道に放り出された。
普通であれば、泣き叫び、己の不幸を嘆き、誰かの同情を引こうとしてもおかしくない。
だが彼女は、涙の代わりにインクを使い、感情の代わりに帳簿を使って、己と子どもたちの尊厳を取り戻すための戦いを選んだのだ。
(……なんと誇り高いことか)
有能な家政婦だからではない。
彼女のその、嘘のない誠実な在り方に、ヴィルヘルムは確かな敬意を抱いていた。
「報告は以上か」
「はい。それから、王都のアルベルト様より、合同審問に向けた書類の提出期限について連絡がございました。期日までに、私がすべて揃えておきます」
「ああ、頼む」
アリシアが一礼し、踵を返して扉へと向かう。
その背中を見送っていたヴィルヘルムの脳裏に、ふと、ある現実的な予測がよぎった。
現在、王都では彼女と実家による莫大な持参金返還請求の手続きが進んでいる。
やがて来る合同審問で彼らを断罪すれば、彼女の濡れ衣は完全に晴れ、本来の莫大な財産が戻ってくるだろう。
そうなれば、彼女がわざわざこの厳しい冬の辺境に、ただの『家政婦頭』として留まり続ける法的な理由は、何一つなくなるのだ。
(……この足音が、この屋敷から消える日が来るのか)
その想像が脳裏を過った瞬間。
ヴィルヘルムの胸を、覚えのない、鈍い軋みが掠めた。
それが何なのか、彼にはすぐには名付けられなかった。
雇用主としての損得勘定であれば、こうも理屈の通らない痛みは生まれないはずだ。
「アリシア」
気づけば、彼は退室しようとする彼女の背中を、低く硬い声で呼び止めていた。
ドアノブに手をかけていたアリシアが、振り返る。
「……君は」
言いかけて、ヴィルヘルムは口をつぐんだ。
胸に生じたこの軋みを言葉にしようとして、その正体がまだ自分でも掴めていないことに気づいたからだ。だから、辛うじて口から出たのは、ひどく不器用な問いかけだった。
「君は、いつまでここにいてくれる」
アリシアは少しだけ目を丸くしたが、すぐにいつもの穏やかな実務者の顔に戻り、微かに微笑んだ。
「何を仰るのですか。ご当主様が望む限り、私はずっとこの屋敷に留まり、家政を支えるつもりです」
それは、雇用主に対する忠誠としては満点の回答だった。
自分がクビにしない限り、彼女はここにいてくれる。
「……そうか」
ヴィルヘルムは短く頷き、それ以上は何も言わなかった。
アリシアが一礼し、扉が閉まる。彼女の規則正しい足音が遠ざかっていった。
一人になった執務室で、ヴィルヘルムは閉ざされた扉をしばらく見つめていた。
『ご当主様が望む限り』
正しい答えだ。何一つ間違っていない。
それなのに、その言葉は彼の胸の軋みを少しも和らげてはくれなかった。
(……仕事の繋がりだけでは、足りないと思う私は、雇い主として欲が深すぎるのだろうな)
ヴィルヘルムは小さく自嘲し、その得体の知れない感情に蓋をするように、再び書類へと視線を落とした。
今は、考える時ではない。
彼女の戦いは、まだ何一つ終わっていないのだから。
* * *
その数日後。
風のない穏やかな冬の午後、辺境伯邸の敷地内にある凍った湖の上で、アリシアは温かいスープの入った鍋を火にかけながら、少し離れた場所を見守っていた。
連日の証拠集めと帳簿の精査で、子どもたちと過ごす時間がめっきり減っていた。それを見かねたヴィルヘルムが、「たまには休め」と半ば命令する形で、この氷上の釣りを設けてくれたのだ。
氷に開けられた丸い穴の周りに、三つの人影がある。
ヴィルヘルムと、エミル、そして分厚いコートに包まれたリリィだ。
「ヴィルさま、ふきっちょ!」
リリィの容赦のない幼児特有の声が、氷の上に響き渡った。
「人には得手不得手があるのだ。それに“不器用”と正確に言いなさい」
ヴィルヘルムが、眉間に深い皺を寄せながら、短い釣り竿の糸を必死に直そうとしている。
領地を治め、剣を振るう手は一流でも、繊細な釣り糸の絡まりを解くのはひどく苦手らしい。
「ふふっ……」
アリシアは思わず口元を押さえて吹き出した。
「閣下、僕がお手伝いします」
エミルが慌ててヴィルヘルムの手元を覗き込み、器用な手つきで絡まった糸を解いていく。
「……すまん」
「いえ。……あ、来ました!」
エミルの手の中にある釣り竿が、ピクッと大きくしなった。
少年は真剣な眼差しで氷の穴を見つめ、絶妙なタイミングで竿を引き上げる。
銀色の鱗を光らせた丸々とした魚が、氷の上に跳ねた。
「わあぁ! おにいちゃん、すごい!」
リリィがぴょんぴょんと飛び跳ねて喜ぶ。
ヴィルヘルムは、跳ねる魚と、照れくさそうに笑うエミルを交互に見つめ、深く頷いた。
「見事だ、エミル。お前は、氷の下のわずかな動きをよく見ている」
ただの慰めではない。相手を一人前の人間として認める、真摯な評価の声だった。
「お前には、物事の本質を見抜く観察眼がある。その集中力は、帳簿の管理や領地経営にも必ず向いているはずだ」
「……本当ですか?」
「ああ。私の見立ては間違いない」
エミルの顔が、パッと明るく輝いた。
王都の屋敷では、前当主の子として誰からも腫れ物のように扱われ、ただ部屋の隅で本を読んでいるしかなかった少年。
彼が今、辺境の主から、自分の能力そのものを真っ直ぐに認められたのだ。
「はいっ! ありがとうございます、ヴィルさま!」
これまで礼儀正しく「閣下」と呼んでいたエミルの口から、初めてその親しみを込めた呼称が飛び出した。
ヴィルヘルムは少しだけ目を丸くしたが、すぐに目元を和らげ、エミルの頭を大きな手で無骨に撫でた。
少し離れた場所で、アリシアはその光景をじっと見つめていた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
ほんの数ヶ月前、あの子は雨の宿場町で妹を庇い、誰も信じられないという目で震えていた。
それが今、声を上げて笑い、大人に向かって自分から手を差し伸べ、褒められて誇らしげに胸を張っている。
(……ここまで、来られたのね)
血の繋がりなど、何一つない。
それでも、自分が必死に守り抜いてきた小さな命が、こうして安心して笑える場所に立っている。
その事実だけで、アリシアの胸は満たされた。
雇い主への感謝は、もちろんある。
だが、それはあくまで、子どもたちに穏やかな時間を与えてくれた主人への、純粋な礼の気持ちだった。
アリシアは深く頭を下げる代わりに、温まったスープを器によそい、子どもたちのもとへと運んでいった。
「さあ、温かいうちに召し上がれ。ヴィルさま、ありがとうございます。おかげで、いい気晴らしになったようです」
「……気にするな。お前も、少し休め」
ヴィルヘルムの短い言葉に、アリシアは「はい」と微笑み、子どもたちにスープを手渡した。
それ以上の意味を、彼女はそこに読み取ろうとはしなかった。
今は、目の前の温かい時間と、明日からの戦いの準備。それだけで、彼女の心は手一杯だったのだ。
* * *
日が暮れ始め、屋敷へと戻る揺れる馬車の中。
車内は、足元に置かれた湯たんぽと厚い毛布のおかげで、ぽかぽかと温かかった。
遊び疲れたリリィは、向かいの席に座るヴィルヘルムの隣で、丸くなって完全に眠りこけている。
そしてアリシアの隣では、エミルが彼女の肩に頭を預け、スースーと規則正しい寝息を立てていた。
アリシアは、そっとエミルの前髪を撫でた。
冷たい風に当たっていたせいか、少しだけ頬が赤い。
「……んん……」
ふと、エミルの唇が微かに動いた。
深い眠りの中、彼は無意識に、アリシアのコートの袖口を小さな手でぎゅっと握りしめた。
「……かあ……さん……」
静まり返った馬車の中に、その微かな寝言がはっきりと落ちた。
アリシアの心臓が、大きく跳ねた。
エミルは王都にいた頃、実の母親であるセレスティアのことを「お母さま」と呼んでいた。
だから、この「母さん」という響きが、過去の記憶の中のセレスティアに向けられたものなのか、それとも、自分のことを呼んでくれたのかは、分からない。
(私を、呼んでくれたの……?)
胸の奥から込み上げてくる甘い期待を、アリシアは静かに押し戻した。
大人の勝手な期待で、子どもを縛ってはいけない。
彼が自分の意思でその言葉を選ぶまで、決してこちらから求めてはならないのだ。
それに——と、アリシアは眠る少年の頬を見つめながら思う。
もし、あの子が夢の中で呼んだのが実の母であったとしても、それでいい。
捨てた女であろうと、エミルにとっては一人きりの母なのだ。その記憶ごと、この子を丸ごと守ればいい。
「大丈夫よ。私が、ずっとついているわ」
アリシアは、彼が誰を呼んだのかを問い詰めることはせず、ただ彼が安心するように何度も髪を撫でた。
向かいの席で、ヴィルヘルムは目を閉じたまま、静かにそのやり取りを聞いていた。
彼は何も言わず、ただ馬車の揺れに身を任せている。
寝言で呼ばれたその名前。
その言葉は、まだ少年の深い夢の中にある。
起きている彼の口から、誰に強要されるでもなく、その言葉が出る日を。
アリシアは、いつまででも待つことにした。




