第29話 偽りの流産、揺らぐ
王都グレイフェルト伯爵邸の、豪奢な天蓋付きベッドが置かれた女主人の寝室。
そこからは、朝から悲痛な女の泣き声が響き渡っていた。
「ああ、なんてこと……! 私の、私とあなたの可愛いあの子が……!」
シルクのシーツを固く握りしめ、セレスティアは声を上げて泣き崩れていた。
美しい金糸の髪を振り乱し、大粒の涙をこぼすその姿は、見る者の同情を誘う悲劇のヒロインそのものだった。
ベッドの傍らに立つレオハルトは、血の気を失った顔でその姿を見下ろしていた。
「流産、したというのか……」
「ええ……。昨夜からひどい腹痛があって、今朝、ギデオン先生に診ていただいたの。そうしたら……もう、心音が聞こえないって……!」
セレスティアは両手で顔を覆い、しゃくり上げた。
「ごめんなさい、レオハルト様……! 私が至らないばかりに、あなたの大切な跡継ぎを……っ! きっと、あの女のせいだわ。アリシア様からのひどい嫌がらせや、屋敷のお金が使えなくなったストレスで、あの子は耐えられなかったのよ……!」
すべてを自分たちを追い詰める元妻のせいにして、セレスティアは泣きじゃくる。
レオハルトは、震える手を伸ばして彼女の華奢な肩を抱き寄せた。
資産の仮差し押さえにより、屋敷の金庫は底をつきかけている。その上、彼らがアリシアを追放する最大の「大義名分」であった腹の子まで失ってしまったのだ。
「君を責めているわけじゃない。……君のせいではないんだ、セレスティア。すべては、あの忌まわしい手紙を送ってきたアリシアの呪いだ」
自分に言い聞かせるように呟きながら、レオハルトの視線は、ベッドの脇の小さな丸テーブルに向けられた。
そこには、先ほどまで往診に来ていたという医師ギデオンが残していった『診断書』と、それに伴う『請求書』が乱雑に置かれていた。
「少し、休むといい。私はギデオンの残した書類を確認してくる」
「レオハルト様……そばにいて……」
「すぐに戻るよ。君には絶対安静が必要だ」
レオハルトはセレスティアをなだめてベッドに寝かせると、テーブルの上の書類を掴み、逃げるように寝室を後にした。
* * *
冷え切った自身の書斎に戻り、レオハルトは分厚いマホガニーの机に書類を広げた。
跡継ぎを失った悲しみ。
それ以上に、今の彼を支配していたのは「これからどうやってこの家を維持すればいいのか」という切実な焦りだった。
王都調達委員会の権限を使って不正な横流しを始めたとはいえ、いつ発覚するか分からない綱渡りの状況で出された、ギデオンからの請求書。
「……なんだ、この額は」
請求書の合計金額を見た瞬間、レオハルトは息を呑んだ。
ただの流産の処置と薬代にしては、あまりにも法外すぎる。
しかも、備考欄には『特別処置料として、本日中の現金決済を要求する』と、殴り書きのような雑な署名と共に記されている。
まるで、何か弱みを握って脅迫しているかのような文面だった。
レオハルトは顔をしかめ、隣に置かれた診断書へと目を移した。
ここ数日、彼は嫌でも崩壊していく屋敷の財政状況や、調達委員会の狂った計算式と向き合わされてきた。
そのせいで、皮肉なことに彼の頭脳には「書類の矛盾を数字から読み解く」という、かつてアリシアが当たり前のようにやっていた視点が、嫌でも備わってしまっていたのだ。
「……おかしい」
レオハルトの指先が、診断書の記述の上で止まった。
セレスティアが妊娠を告げたあの夜から計算すれば、今の妊娠月数は明確に決まっている。だが、ギデオンの診断書に書かれた『胎児の成長具合』や『母体の状態』の記述は、その月数とは全く噛み合っていない。
まるで、適当な医学書の記述を丸写ししたかのような、ちぐはぐな内容だった。
さらに、彼の目を疑わせたのは『処方薬の明細』だった。
悲しみの中にある母体を回復させるための薬。
そう記された欄に並んでいたのは、精神を落ち着かせるための高価な香油と、肌の艶を良くするための『月見草の粉末』などの美容薬ばかりだったのだ。
流産という母体に多大な負担を強いる事態の直後に、なぜ美容のための薬が大量に処方されているのか。
(往診の頻度もおかしい。流産の兆候があったというなら、なぜもっと早く……)
思考が、恐るべき結論へと向かっていく。
適当すぎる診断書。
美容薬ばかりの処方。
そして、口止めのための賄賂としか思えない、法外な特別処置料。
『……本当に、妊娠などしていたのか?』
ぞわり、と。
背筋を氷の塊が滑り落ちるような悪寒が、レオハルトの全身を貫いた。
もし、妊娠そのものが嘘だったとしたら。
もし、自分が「跡継ぎができた」というセレスティアの言葉に踊らされ、まんまと騙されていたのだとしたら。
すべてが根底から覆る。
自分は、存在すらしない腹の子を守るという大義名分のもと、この家を完璧に支えていた実の妻を、極寒の雪の夜に放り出したことになる。
そして、身勝手な女の嘘のために家を傾かせ、資産を凍結され、挙句の果てには横流しという犯罪にまで手を染めてしまったのだ。
(そんな……馬鹿な)
レオハルトの呼吸が、ヒュー、ヒューと浅く荒くなった。
自分が、そこまで救いようのない、愚かで滑稽な道化だったというのか。
エリートとして育てられ、常に他者を見下してきた自分のプライドが、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
認められない。
そんな事実を認めてしまえば、自分の存在価値そのものが完全に崩壊してしまう。
「違う……。彼女は、確かに私の子を身ごもっていた」
レオハルトは虚ろな目で宙を睨み、震える手で診断書をぐしゃりと握り潰した。
「そうに決まっている。私が、騙されていたはずがない。セレスティアは私の子を失って、悲しんでいるんだ……!」
彼はよろめくように立ち上がると、書斎の弱々しい暖炉の火の中に、握り潰した診断書と請求書を乱暴に投げ入れた。
炎が羊皮紙を舐め、黒く焦がしていく。
矛盾に気づいた。事実の一端に触れてしまった。
だが、彼はそれに向き合うことを完全に放棄した。
自らの矮小なプライドを守るために、己の頭に浮かんだ真実を、強固な自己欺瞞の箱の中に押し込め、分厚い蓋をしたのだ。
「すべては、アリシアのせいだ……。あの女の呪いが、私から子を奪ったんだ」
燃え尽きる書類を見つめながら、レオハルトは暗い書斎の中で、壊れた操り人形のようにうわ言を繰り返し続けた。
* * *
同じ頃。
王都の喧騒から少し離れた、監査院の重厚な石造りの執務室。
上級監査官アルベルト・カイルは、部下から上がってきたばかりの分厚い報告書に目を通していた。アリシアから依頼されたセレスティアのかかりつけ医の調査報告だ。懇意の商人からアリシアが信じがたい情報を以前、手にしていた。
「ご苦労だった。医師ギデオンの周辺調査、確実な裏が取れたようだな」
「はい、アルベルト様」
有能な部下が一礼して答えた。
「ギデオンの診療所に出入りしている薬種問屋の裏帳簿を押さえました。グレイフェルト伯爵家からの注文は、この数ヶ月間、すべて高額な美容薬と睡眠導入剤のみ。妊婦に必要な栄養剤や生薬の納品記録は、ただの一度も存在しません」
アルベルトは冷たい目で報告書の数字を追った。
十五年前、一人の少女の『嘘の涙』を見抜けず、無実の男を死に追いやった。
その痛恨の記憶を抱えるアルベルトにとって、感情や涙ほど信用ならないものはない。彼が信じるのは、紙に刻まれた物理的な痕跡だけだ。
「さらに、ギデオンの個人口座には、グレイフェルト家から定期的に不自然な高額送金が行われています。名目は『特別医療顧問料』となっていますが、相場を遥かに逸脱しています」
「口止め料、というわけか」
アルベルトはペンを取り、報告書の束の表紙に『押収許可申請準備』と書き込んだ。
「十五年前と同じだ。嘘を隠すために、また稚拙な嘘を重ねている」
アルベルトの口から、軽蔑と怒りの入り混じった低い声が漏れた。
「グレイフェルト家の現夫人、セレスティア・モルフォード。彼女の妊娠も、そして今朝方社交界に流れた流産の噂も、すべては事実無根の作り話だ。記録がそれを証明している」
アルベルトは立ち上がり、椅子に掛けられていた深い青色の監査官の外套を羽織った。
「法務院への手配を急げ。対象は医師ギデオンの診療所だ。あの悪徳医師の裏帳簿そのものを押収し、偽造の全容を公の記録として確定させる」
「はっ!」
部下が敬礼して足早に退出していく。
アルベルトは窓の外、冷たい冬の王都の空を見上げた。
セレスティア・モルフォードが我が身を守るために被っていた『可哀想なヒロイン』という最強の鎧。
そして、アリシアを不当に追放するための最大の武器であった『腹の子』という盾。
それらが今、容赦のない事実と記録という名の鉄槌によって、完全に叩き割られようとしていた。




