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第28話 暗号は荷馬車に乗って

凍てつくような冬の風が吹きすさぶ中、グランベル辺境伯邸の広大な中庭に、雪除けの幌を被った数台の屈強な荷馬車が次々と滑り込んできた。


馬車の側面には、王都でも有数の規模を誇る『グリュンベルク商会』の紋章が誇らしげに描かれている。


「アリシア様! 王都より、ご指定の越冬物資を確かにお運びいたしました!」


商会の手代であるヴァルターが、白い息を吐きながら御者台から飛び降り、分厚い手袋を外して一枚の書類を差し出した。


「ご苦労様です、ヴァルターさん。雪深い街道を、よくぞご無事で」


アリシアは寒さを防ぐ厚手の外套の襟を合わせながら、彼から納品書の束を受け取った。


これまでグランベル辺境伯家の物資調達は、地元の仲介業者であるハーゲン商会が独占していた。

だが、アリシアが家政婦として入り、帳簿を精査した結果、彼らが長年にわたって品質の誤魔化しや価格の不当な水増しを行っていたことが発覚したのだ。


そこでアリシアは、王都のグリュンベルク商会に直接取引を持ちかけた。王都からの直通ルートを開拓することで、中間マージンを排除し、高品質な物資を適正価格で安定して仕入れる。

これが、アリシアが主導した『辺境市場改革』の第一歩だった。


荷下ろしを見届けた後、アリシアは足早に家政管理室へと戻った。


暖炉の火でかじかんだ指先を温めながら、先ほど受け取った納品書の束を机の上に広げる。

一見すると、小麦、塩、干し肉といった品目と数量が並んだ、ごく一般的な商会の書式だ。


だが、アリシアの視線は、各品目の右端に小さく記された『管理番号』に釘付けになっていた。


グリュンベルク商会の管理番号は、通常『品目の分類番号』と『三桁の通し番号』で構成されている。例えば小麦なら『14―001』といった具合だ。

しかし、今日届いた納品書の番号の末尾には、正規の様式ではあり得ない数字の羅列が長く継ぎ足されていた。


『14―001―0732―1107―00』

『25―045―1205―1109―00』


(……来たわね)


アリシアは誰にも見られないよう、密かに別の羊皮紙を引き寄せた。

そして、その不自然な数列だけを素早く書き写していく。


先日、王都から極秘裏にやってきた監査官、アルベルト・カイルとの三者会談。

あの夜、アリシアが提案した『暗号物流』のネットワークが、ついに本格稼働を始めたのだ。


関所での検閲リスクがある手紙に頼るのではなく、商会の正規の商取引書類の中に、数字に置き換えた情報を紛れ込ませる。

アルベルトが王都の調査の中で抜き出した『調達委員会の裏帳簿の断片』を暗号化して送るだけなら、誰にも怪しまれない。


そして、その暗号を解読できるのは、彼らが悪用しているその『帳簿の形式』を一から自らの手で設計したアリシアだけだ。


「最初の二桁が単価、次の二桁が数量、次が日付、最後が出庫先……」


アリシアはインクの染みが抜けきらない指先で、数列を一つずつ分解し、本来の帳簿の項目へと当てはめていく。長年、数字と格闘し続けてきた彼女の頭脳の中で、無意味な羅列が次々と恐ろしい事実へと変換されていった。


『0732―1107―00』


「小麦。単価は七。数量は三十二袋。日付は十一月七日。三十二番倉庫からの出庫。そして……届け先が、空欄ゼロ


アリシアの目が、スッと細められた。


書類上は出庫されたことになっているのに、届け先が存在しない。

それはつまり、本来なら貧しい平民や孤児院へ配られるはずだった三十二袋もの小麦が、闇市場へ横流しされたという明確な証拠だ。


次々と数列を復号していく。毛布、薪、塩。

王都の平民たちが喉から手が出るほど必要としている命の糧が、書類上の数字合わせだけで消え去り、横流しした利益がレオハルトたちの懐へと収まっている。


王都の深い闇の輪郭が、こうして一片ずつ、確実にアリシアの手元へと浮かび上がりつつあった。



   *   *   *



一方で。

光が強くなれば、必ずそこには濃い影が生まれる。


暗号の復号を終えたアリシアは、続けて各部門から提出された月末の備蓄管理表の精査に移った。

彼女の指先が、地下備蓄庫の責任者である倉番のゲオルグから提出された報告書の上でピタリと止まる。


(……これは、どういうこと?)


報告書の数字には、明らかな異常があった。

冬を越すための重要な備蓄である小麦と根菜類の在庫が、先週の確認時から大幅に減少しているのだ。


計算違いではない。

入出庫の記録を意図的に操作し、帳簿上に「原因不明の欠損」を作り出している。

しかもその欠損額は、家政管理の責任者であるアリシアが、予算を横領して私腹を肥やしたと疑うに十分な規模に設定されていた。


その意図に気づいた瞬間。

アリシアの視界がグラリと揺れ、冷たい汗が背筋を伝った。


『君が帳簿をごまかして、家の金を横領していたなんてな』


脳裏に、あの身を切るような寒さの夜がフラッシュバックする。

かつての夫レオハルトから軽蔑の眼差しを向けられ、偽造された横領の証拠を顔に投げつけられた、追放の夜。


「あ……」


ペンを握る手が、小刻みに震え始める。

まただ。また同じように、私を横領犯に仕立て上げて、この居場所から追い出そうとしている。


だが、アリシアはもう、何の後ろ盾もない無力な妻ではなかった。


(落ち着きなさい、アリシア・ヴェルディーニ。私はもう、あの夜の私じゃない)


彼女は目を閉じ、深く冷たい空気を肺に吸い込んだ。

目を開けた時、その瞳から過去の恐怖は完全に消え去り、極めて冷徹な実務者としての光が宿っていた。


アリシアは震えの止まった手で別の書類を引き寄せ、ゲオルグの提出した管理表と照らし合わせ始めた。門番が記した馬車の出入り記録。そして、その日の天候の記録だ。


「……ずさんね」


アリシアの口から、氷のように冷たい声が漏れた。

数字だけを見れば巧妙に帳尻を合わせようとした形跡はあるが、現場の物理法則と照らし合わせれば、その嘘は一瞬で瓦解する。


「この五十袋もの小麦の欠損が出た日付。この日、東の街道は猛吹雪で二日間完全に封鎖されていた。門番の記録でも、屋敷から馬車は一台も動いていない。これだけの量の小麦を、吹雪の中、人の手だけで運び出せるはずがないわ」


さらに、アリシアの指先が根菜類の項目を叩く。


「真冬の、しかも厳重に温度管理された乾燥した地下倉で、根菜の腐敗率が一割五分? 水を撒いて意図的に腐らせでもしない限り、物理的にあり得ない数字よ」


倉番のゲオルグは、物資の扱いに慣れていても、数字の操作に関しては素人だ。帳簿の全体像を設計したアリシアの目から見れば、彼が作った欠損の記録はあまりにも矛盾だらけだった。


(ゲオルグ一人の考えで、こんなことをするはずがない)


アリシアは冷静に、この罠の背後にある『糸』を手繰り寄せた。


アリシアの市場改革によって屋敷の取引から締め出された、地元のハーゲン商会。ゲオルグは以前から彼らと結託し、裏金を受け取っていた男だ。

そして、そのハーゲン商会に接触し、彼らを動かすだけの莫大な資金を提供できる人物。

それは、王都でアリシアを横領犯に仕立て上げ、子どもたちを取り戻そうと目論んでいるセレスティア以外にあり得ない。


セレスティアの資金がハーゲン商会へ流れ、商会がゲオルグを買収した。

そして、かつて王都でアリシアを葬ったのと同じ『横領の濡れ衣』という手口で、今度こそ彼女を辺境伯家から確実に追放しようとしているのだ。


セレスティアから商会へ、そして倉番へ。

妨害のラインが、アリシアの頭の中で完全に一本の線として繋がった。



   *   *   *



執務室の机に置かれたゲオルグの管理表と、アリシアがまとめた矛盾の指摘書。

ヴィルヘルムはそれらに目を通すと、不快げに眉根を寄せた。


「……なるほど。天候と物理的な運搬量を無視した、お粗末な数字の改ざんだ。すぐにハインツを向かわせ、ゲオルグを拘束しよう。厳しく問い詰めれば、商会との繋がりも吐くだろう」


「お待ちください、ご当主様」


アリシアは真っ直ぐにヴィルヘルムを見据え、静かに首を横に振った。


「今ここで彼を捕らえてしまえば、ただの『倉番の虚偽報告』という小さな罪で終わってしまいます。ハーゲン商会はトカゲの尻尾切りをして逃げ、王都のセレスティア様まで罪を問うことはできなくなります」


「では、どうする気だ」


「あえて彼を泳がせます」


アリシアの声には、微塵の迷いもなかった。


「彼が提出したこの嘘の帳簿を、私は一度『承認』して通します。そうすれば、彼は私が欠損に気づかなかったと安心し、証拠となる物資の現物を完全に隠滅するために、必ず外の商会と物理的な接触を図るか、記録を破棄しようとするはずです。……そこを、一網打尽にします」


王都から繋がる資金のルートと、彼らが結託した決定的な証拠。それを完璧な形で押さえるために、あえて罠に掛かったふりをする。


ヴィルヘルムは、目の前の女性をじっと見つめた。

かつて同じ手口で家を追い出され、すべてを奪われた過去がある。本来なら、怒りや恐怖で我を忘れてもおかしくない場面だ。

だが彼女は、極めて理路整然と、敵の喉首をかき切るための罠を張り直している。


「……君は、怒っても手順を忘れないな」


感嘆にも似たヴィルヘルムの低い声に、アリシアは静かに微笑み返した。


「忘れたら、負けますから」


涙を流して感情的に訴えても、誰も助けてはくれない。それを誰よりも知っているからこそ、彼女は紙と記録という武器を研ぎ澄まし続けるのだ。


「分かった。ハインツには裏で警備の配置を変えさせ、ゲオルグの動向を監視させる。網を張る準備は私が整えよう」


「ありがとうございます、ご当主様」


深く一礼して執務室を後にするアリシアの背中を、ヴィルヘルムは頼もしげに見送った。



   *   *   *



自室へ戻る廊下を歩きながら、アリシアは自分の指先を見つめた。


先ほどまで感じていた、あの冷たい恐怖による震えは、もうどこにもない。


同じ手口で、二度は沈まない。

かつて彼女を奈落へ突き落とした罠は、今、彼女自身の手によって無惨にへし折られたのだ。


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