第27話 沈む船の上で 元夫視点
王都の中心部に位置する、調達委員会の豪奢な会議室。
巨大な円卓を囲む上流貴族たちの前で、レオハルト・グレイフェルトは誇らしげに胸を張っていた。
「素晴らしい。完璧な計算だ、グレイフェルト卿」
委員長を務める白髪の侯爵が、手元の分厚い報告書を眺めながら感嘆の溜息を漏らした。
「冬季の救貧物資の配分配分、輸送時の自然損耗率、そして緊急予備費への繰り入れ。これほど複雑な数字が、一シリングの狂いもなく見事に噛み合っている。君の若さでこれほどの経理能力があるとは、当委員会にとっても得難い財産だよ」
「身に余る光栄です、閣下」
レオハルトは恭しく頭を下げながら、内心で暗い優越感に浸っていた。
彼が提出したこの完璧な報告書。
それは、彼自身がゼロから構築したものではない。かつて妻であったアリシアが、グレイフェルト家の家政を管理するために作り上げた『帳簿のフォーマット』を、そのまま調達委員会の書式に丸写ししただけのものだった。
セレスティアの入れ知恵で、委員会の物資を横流しして裏金を作る計画を立てた時、レオハルトは最初、監査院の目を誤魔化せるか不安だった。
だが、アリシアの残したシステムはあまりにも精緻で、完璧すぎた。
彼女の計算式に数値を当てはめ、ほんの少し出庫量と損耗率をいじるだけで、システム全体が自動的に連動して『完璧な辻褄』を合わせてくれるのだ。
素人であるレオハルトがいじっても、王都の熟練の役人たちが誰一人として矛盾に気づかない。
(なんだ。あの女がいなくても、この仕組みさえ使えば、私一人でいくらでも金を動かせるじゃないか)
同僚の貴族たちから称賛の眼差しを浴びながら、レオハルトは強烈な万能感に酔いしれていた。
自分は天才だ。優秀な当主代行だ。あの冷たくて可愛気のない妻など、最初から必要なかったのだ。
「今後も頼むぞ、グレイフェルト卿」
「ええ、お任せください。王都の民のために、誠心誠意尽くさせていただきます」
* * *
意気揚々と委員会を終え、グレイフェルト伯爵邸へと帰還したレオハルト。
だが、重厚な玄関の扉を開けた瞬間、彼を取り巻いていた華やかな万能感は、一瞬にして冷たい現実に引き戻された。
「どうしてこんなこともできないの! このドレスがいくらすると思っているのよ!」
ホールに響き渡ったのは、女主人気取りのセレスティアの甲高い怒鳴り声だった。
見れば、新しく雇われたばかりの若いメイドが、床に這いつくばって泣いて謝っている。
セレスティアの足元には、ほんの少し泥水が跳ねただけのドレスが広げられていた。
「使えない子ね! もういいわ、今すぐこの屋敷から出ていきなさい! 首よ!」
「も、申し訳ございません……っ!」
泣き崩れるメイドを冷たく見下ろし、セレスティアは苛立たしげに足音を荒立てて自室へと戻っていった。
レオハルトは、呆然とその光景を見つめていた。
そこへ、長年この屋敷に仕えてきた初老の執事が、ひどく疲労した足取りで歩み寄ってきた。
「……旦那様。これで今週、四人目です。屋敷の掃除も、満足に回りません」
「またか……。新しい者を雇えばいいだろう」
「もはや、当家で働きたがる者などおりません。それに……商会からのツケ払いも限界です。先ほど、長年取引のあった肉の卸問屋から、これ以上の納品はできないと断られました」
執事の言葉に、レオハルトは舌打ちをした。
帳簿上の数字は完璧に合わせられても、現実の屋敷の崩壊は止まらない。
アリシアのシステムは「数字」を管理することはできても、「人の心を繋ぎ止める」ことや「現物を生み出す」ことはできないのだ。
あの女なら、使用人を一人解雇する時でさえ、後の人員配置と残された者の精神的負担まで計算していた。
だが、今更そんなことを認めるわけにはいかない。
「屋敷の機能など、金さえあればどうにでもなる。下がれ」
執事を冷たく払い退け、レオハルトは逃げるように自身の書斎へと向かった。
* * *
暖炉の火もつけられていない、冷え切った書斎。
レオハルトは執務机の前に座り、ドサリと背もたれに寄りかかった。
その時、彼の視界の端に、机の中央に置かれた一通の分厚い封書が飛び込んできた。
王都法務院の、厳格な紋章が押された公文書である。
訝しげに封を切り、中の書類に目を通した瞬間。
レオハルトの心臓が、早鐘のように激しく打ち始めた。
『アリシア・ヴェルディーニ殿からの、婚姻時の持参金、および五年間における当家事業への寄与分に相当する正当な返還請求について』
そこに記載された最終的な請求額を見て、彼は自分の目を疑った。
莫大、という言葉すら生ぬるい。
現在のグレイフェルト家が持つすべての流動資産をかき集め、屋敷の美術品を売り払い、領地の税収を数年分前借りしたとしても、到底届かない額だった。
「……馬鹿な。ただの持参金の返還が、どうしてここまで膨れ上がっているんだ」
掠れた声で呟きながら、レオハルトは書類の明細に目を走らせた。
そこには、持参金の元本だけでなく、彼女がこの五年間で再建した『領地事業からの利益配分』が、極めて詳細かつ正確な計算式のもとに加算されていた。
東部街道の整備事業、廃坑寸前だった銀山への融資、絹織物市場の価格変動を利用した先物取引。
無味乾燥な数字の羅列だが、実務の知識が乏しいレオハルトの目から見ても、彼女が外から生み出していた富の凄まじさは一目瞭然だった。
彼女は、ただ日々の生活費を切り詰めていたのではない。
自らの持参金と信用を元手に莫大な利益を生み出し、それをすべて、崩壊寸前だったグレイフェルト家の延命のために注ぎ込んでいたのだ。
さらに彼を絶望の淵に追いやったのは、書類の末尾に連記された保証人の名だった。
王都の商業を裏から支える名門、ヴェルディーニ子爵家。
そして、王家の縁戚にして絶大な軍事力を持つ、グランベル辺境伯家。
逃げ道など、どこにもなかった。
すでに仮差し押さえの執行が始まり、グレイフェルト家の口座は凍結され、屋敷の資産は勝手に動かすことができなくなっている。
「……私は、彼女が家の金をくすねているのだと疑っていた。だが……」
レオハルトの口から、乾いた、ひどく惨めな声が漏れた。
「彼女は、これほどの富を生み出し、この家を支えてくれていたのか……」
あの地味で、可愛気がなく、跡継ぎも産めない欠陥品だと見下していた妻。
それが、どれほど途方もない価値を持った『黄金を生む心臓』であったか。
理解してしまった。
自分は、自らの矮小な劣等感を慰めるためだけに、この家を存続させていた唯一の命綱を、真冬の雪道へ叩き折って捨てたのだ。
「ああ……ああぁっ……!」
レオハルトは書類に顔を押し当て、激しい後悔に顔を歪めた。
あの夜、自分を真っ直ぐに見据え、一切の未練なく屋敷を出て行った彼女の横顔が脳裏に蘇る。
だが、彼がいくら後悔しようとも、目前の請求書が消えてなくなるわけではなかった。
* * *
「……あなた、どうしたの?」
甘ったるい香水の匂いと共に、背後の扉が開いた。
豪奢なドレスを身に纏ったセレスティアが、不思議そうな顔をして書斎に入ってくる。
「セレスティア……。これを見てくれ」
レオハルトは顔を上げ、すがるような目で彼女を見た。
「法務院から、アリシアの持参金と事業利益の返還請求が来た。払えない。口座も凍結され、屋敷にはもう金がないんだ」
セレスティアは机の上に置かれた公文書を手に取り、その金額を一瞥した。
その瞬間、彼女の美しい顔が微かに引き攣ったのを、レオハルトは見逃さなかった。
だが、彼女はすぐにいつもの弱々しく可憐な微笑みを貼り付け、レオハルトの肩にそっと手を回した。
「なんてひどい女なのかしら。家を追い出された腹いせに、こんな嫌がらせをしてくるなんて」
「嫌がらせじゃない。これは事実なんだ。アリシアは実際に、この家のためにこれほどの利益を……」
「今さら悔やんでも、もう遅いわ、あなた」
セレスティアの柔らかな指先が、レオハルトの震える唇を塞いだ。
「あの女はもう戻ってこない。私たちを恨んで、こうして潰しにかかってきているのよ。……お腹の子を守るためにも、私たちが負けるわけにはいかないでしょう?」
お腹の子。
その言葉を聞くたびに、レオハルトの胸には重い鉛のような責任感がのしかかる。
「でも、どうすればいい。金がないんだ」
「あるじゃない、あなた」
セレスティアは、レオハルトの耳元で悪魔のように甘く囁いた。
「あなたは今日、調達委員会で絶賛されたばかりなのでしょう? あなたの完璧な計算があれば、誰にもバレずに、もっとたくさんのお金を動かせるはずだわ」
その言葉に、レオハルトの頭の中で、先ほどの会議室で浴びた称賛の声が蘇った。
そうだ。自分には、監査院の目すら誤魔化せる完璧なシステムがあるではないか。
屋敷の些細な崩壊や、過去の女からの嫌がらせなど、もっと莫大な金と権力を手に入れれば、すべて力ずくで解決できるはずだ。
自分の愚かさを理解した。
アリシアという妻の本当の値段と、それを失った代償の大きさを。
だが、ここで自分の過ちを認めて頭を下げれば、当主代行としての立場も、すべてを失って破滅する。
ならば、不正という泥にまみれてでも、今の万能感と虚飾の生活にしがみつくしかない。
「……そうだな。君の言う通りだ」
レオハルトは、セレスティアの白い手を力強く握り返した。
「私には権力がある。王都の物資を動かす力がある。金なら、委員会からいくらでも引き出してやる」
「ええ、その意気よ。頼りになるわ、あなた」
セレスティアが満足そうに微笑み、レオハルトの首筋に口づけを落とす。
レオハルトは、その感触を受け入れながら、暗い窓の外を見つめた。
グレイフェルト家という巨大な船は、もうすでに沈み始めている。
だが船長は、己の愚かなプライドを守るためだけに、舵を直すのではなく、自らの意思でより巨大な嵐の中へと船を進めたのだった。




