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第24話 アルベルト・カイル来訪

猛烈な吹雪が、石造りのグランベル辺境伯邸を白く閉ざしていた夜。


厚い雲に月明かりすら遮られた暗闇の中を、一台の地味な馬車が、音を殺すようにして屋敷の裏門へと滑り込んだ。


家政管理室で翌日の配給計画を練っていたアリシアは、廊下から近づいてくる足音に顔を上げた。

深夜の訪問者。それは数日前、王都から届いた『密書』の主が、ついにこの辺境へ足を踏み入れたことを意味していた。


「アリシア様。ご当主様が執務室でお呼びです」


執事のハインツが、いつになく緊張を孕んだ声で告げる。


「分かりました。すぐに向かいます」


アリシアはペンを置き、エプロンを外して身なりを整えた。

王都の闇を暴き、自らと子どもたちの未来を勝ち取るための、本格的な反撃がいよいよ始まるのだ。



   *   *   *



重厚な執務室の扉を開けると、そこにはヴィルヘルムと、もう一人、雪で濡れた分厚い外套を脱いだばかりの男が立っていた。


三十代半ばほどの、痩せて神経質そうな顔立ちをした男。

だが、その双眸は猛禽類のように鋭く、知的で、どこか深い疲労と執念を同時に宿している。


「アリシア、よく来てくれた」


ヴィルヘルムが静かな声で促した。


「紹介しよう。彼が、王都監査院の上級監査官、アルベルト・カイルだ」


アルベルトは深く頭を下げ、官僚的でありながらも、確かな誠実さを感じさせる所作で一礼した。


「お初にお目にかかります、アリシア殿。アルベルト・カイルと申します。王都でのあなたの家政手腕の噂は、かねがね伺っておりました。この度はお力添えをいただきたく、極秘裏に参った次第です」


「アリシア・ヴェルディーニと申します。……猛吹雪の中、よくぞご無事で」


アリシアも深く礼を返した。


彼が、十五年前、ヴィルヘルムの侍従であったルカの無実を証明できず、後悔を抱え続けてきた男。

休暇を偽り、己の地位と命を懸けて、王都の腐敗の証拠をこの辺境まで運んできたのだ。


「積もる話はあるが、今は時間が惜しい。すぐに本題に入ろう」


ヴィルヘルムの言葉に、アルベルトは重々しく頷いた。

彼は持参した革鞄から、厳重に封をされた分厚い書類の束を取り出し、机の上に広げた。


「これが、王都調達委員会の最新の報告書と、帳簿の写しです。監査院の同僚たちの目を盗み、どうにか持ち出してきました」


アルベルトの指先が、緻密に数字が書き込まれた羊皮紙を叩く。


「一見すると計算に狂いはなく、物資は規定通りに配分されているように見えます。しかし、王都周辺の村々では深刻な物資不足が起きており、現場の状況とこの数字には決定的な乖離があるのです」


ヴィルヘルムが書類に目を通し、小さく息を吐いた。


「私が見ても、数字上の矛盾は見当たらない。だが、お前ならどうだ」


ヴィルヘルムの視線がアリシアに向けられる。

アリシアは机に近づき、書類の束に視線を落とした。


項目、配列、予備費の計上方法、減耗率の計算式。

それは間違いなく、彼女自身がグレイフェルト家で構築し、残してきた形式だった。


「……私のやり方です。私の書式をそのまま使い、表向きの数字だけを完璧に合わせているのですね」


アリシアの目は、瞬時に冷徹な実務者のそれに切り替わった。

彼女はインクの染みが抜けきらない指先で、帳簿の特定の項目をツーッと撫でた。


「数字は合っていますが、現場を知る者からすれば、不自然な点がいくつもあります。まず、この『輸送時の自然減耗率』です」


アリシアは一つの数字を指差した。


「小麦や薪を輸送する際、どうしても多少の損失は出ます。ですが、この帳簿ではその減耗率が一律で五割増しに設定されています。真冬のこの時期、馬車での輸送路は雪で固められており、秋口のような泥濘による荷崩れは起きにくいはずです。それなのに減耗率が跳ね上がっているのは、最初からその分を『存在しなかったもの』として抜き取っている証拠です」


アルベルトが目を見開いた。


「なるほど……。気候と道の実態に合わない、数字の操作か」


「さらに、ここです」


アリシアはページを捲り、別の項目を示した。


「『緊急予備費』からの支出。これが特定の三つの商会にのみ、偏って支払われています。しかも、その商会が納品したとされる品目は『防寒用の上質毛布』や『薬種』など、単価が高く、かつ現物確認が難しいものばかりです。おそらく、実際には納品されていない架空発注でしょう。この三つの商会を通じて、裏金が還流しているはずです」


指先一つで、帳簿に隠された虚飾が次々と剥がれ落ちていく。


机上の空論ではなく、自らが泥臭く家政を回し、商人と交渉し、馬車の轍の深さまで見てきたからこそ分かる現場の真実。

アリシアの分析は、冷酷なまでに正確だった。


アルベルトは、信じられないものを見るような目でアリシアを見つめた。


「……驚きました。監査院の熟練の調査官たちが何日もかけて見抜けなかったカラクリを、一瞬で暴いてみせるとは」


アルベルトは感嘆の息を漏らした。


「アリシア殿。あなたは、監査院の誰よりも現場を知っている。この記録の矛盾を法廷で証明できるのは、あなたしかいません」


十五年前、権力者の娘が流した「嘘の涙」に騙され、真実を見失った王都の大人たち。

だが今、目の前にいるこの女性は、どんな権力や感情にも流されず、揺るぎない「事実」だけを提示してくる。


「感謝します、アリシア殿。これで、調達委員会の不正を立証する糸口が完全に掴めました」


アルベルトの言葉に、ヴィルヘルムが静かに頷いた。


「これで、三つの刃が揃ったな」


ヴィルヘルムの灰色がかった青い瞳が、アルベルト、そしてアリシアを順番に見据える。


「王への直接の上奏権を持ち、この件を公の場に引きずり出す、告発者としての私」


「王都監査院を動かし、法的根拠と裏付け捜査を固める、監査実行者としてのアルベルト」


「そして、膨大な数字の嘘を見抜き、決定的な証拠を抽出する、証拠分析者としてのアリシア」


誰一人欠けても成し遂げられない。

権力、法手続き、そして実務能力。


王都の巨大な腐敗を根底から叩き潰すための、完璧な三者会談がここに成立した。



   *   *   *



「ですが、私はただの辺境伯家の家政婦です」


アリシアは、自分に向けられた二人の過分な評価に対し、冷静に言葉を返した。


「王都の法務院や監査院が関わる公的な場において、私のような一介の使用人の分析が、どれほどの効力を持つかは分かりません」


どれほど正しい証拠であっても、身分や立場が弱ければ握り潰される。

それは彼女自身が、グレイフェルト家を追放された夜に痛いほど思い知った現実だった。


すると、ヴィルヘルムは机の上の書類から顔を上げ、アリシアを真っ直ぐに見つめた。


「ならば、立場を変えよう」


低く、有無を言わさない声だった。


「ただの家政婦では、今後の王都との折衝において発言権が弱すぎる。アリシア・ヴェルディーニ、お前を本日付で、グランベル辺境伯邸の『家政婦頭』に命じる」


アリシアは小さく息を呑んだ。


家政婦頭。

それは屋敷のすべての使用人を統括し、執事と並んで当主の右腕となる重要な役職だ。

王都の貴族邸であれば、何十年も忠誠を誓ったベテランか、あるいは特別な縁故のある者しか就けない地位である。


「肩書きと給金を、直ちに改める。ハインツには私から伝えておく」


ヴィルヘルムの言葉には、一切の迷いがなかった。


それは決して、彼女を特別扱いする甘い感情からの決定ではない。

王都との戦いを勝ち抜くために、彼女の能力にふさわしい「正当な権限」を与えるという、極めて合理的で公正な判断だった。


「ヴィルヘルム様……」


「君の能力は、すでにその地位に十分に値する。これは情けではない、正当な評価だ」


アルベルトもまた、深く頷いて同意を示した。


「グランベル辺境伯家の家政婦頭の署名が入った分析書となれば、監査院も法務院も決して無下にはできません。大きな力になります」


アリシアは、静かに自分の両手を見つめた。


五年間、グレイフェルト家でどれほど身を粉にして働いても、誰もその労苦を認めようとはしなかった。

『伯爵夫人』という飾られた肩書きの下で、ただ便利な道具として使い潰され、最後には濡れ衣を着せられて放り出された。


だが今、この辺境の地で。

彼女の泥臭い労働と、数字に向き合い続けた誠実な実務が、確かな形となって評価されたのだ。


血筋でもなく、誰かの妻だからでもない。

「アリシア・ヴェルディーニ」という一個人の働きが、初めて正当な肩書きとして認められた。


胸の奥から込み上げてくる熱いものを、アリシアはゆっくりとした深呼吸で静かに飲み込んだ。


「……謹んでお受けいたします、ご当主様」


アリシアは背筋を伸ばし、深く、美しい一礼をした。


「グランベル辺境伯家家政婦頭として、この身に代えても、敵の不正を暴くための完璧な記録を揃えてみせます」


ヴィルヘルムは満足げに短く頷き、アルベルトは心強い味方を得た喜びに顔をほころばせた。


窓の外では、依然として激しい吹雪が夜の闇を舞っている。

だが、この温かい執務室の中で結ばれた三つの刃は、春の雪解けを待つことなく、王都の分厚い氷を砕くための静かなる胎動を始めていた。


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