第23話 十五年目の密書
吹き荒れる吹雪が石造りの外壁を絶え間なく打ち据え、辺境の冬はいよいよその牙を鋭くしていた。
本邸の家政管理室は、暖炉の火によって静かな温かさに包まれている。
アリシアは机に向かい、前日に救貧食堂へ配分した麦と塩の消費量を帳簿に書き込んでいた。
隣の小さな机では、エミルがヨアヒムから出された文字の書き取り課題に真剣に向き合っている。
「先生、ここの綴りはこれで合っていますか?」
「ええ、とても綺麗に書けているわ。筆の運びが良くなったわね」
アリシアがエミルの頭をそっと撫でた時、部屋の扉がノックの音もそこそこに開かれた。
「アリシア様。ご当主様が執務室でお呼びです。至急、とのことです」
現れた執事のハインツの顔には、いつもの冷静さの中に、隠しきれない緊迫感が張り付いていた。
「分かりました。エミル、キリの良いところまで進めておいてね」
アリシアはペンを置き、足早に執務室へと向かった。
* * *
重厚な扉を開けると、ヴィルヘルムは机の前に立ったまま、一つの小さな革袋を険しい目で見下ろしていた。
その革袋は泥と雪にまみれ、所々が鋭利な刃物で切り裂かれたように裂けている。激しい旅の過酷さだけでなく、何者かによる明確な悪意に晒された痕跡だった。
「ご当主様、失礼いたします」
アリシアが入室し、扉が閉じられると、ヴィルヘルムは机の上の革袋から一通の便箋を取り出した。
「王都からの急使が持参したものだ。関所を通る際、何者かに執拗に荷を探られ、奪われかけたらしい。表の街道を避け、裏の山道を使わなければ、この手紙はここには届かなかっただろう」
ヴィルヘルムの低く冷たい声に、アリシアは息を呑んだ。
王都の何者かが、辺境伯家と王都の連絡を物理的に遮断しようとしている。先日、行商人のマルクスが語っていた『悪女の噂』の流布といい、敵は確実に手荒な手段に出始めている。
手紙の蝋封は、無地の硬い蝋で偽装されていたが、それすらも半分削り取られかけていた。
「差出人は、アルベルト・カイル。王都監査院に籍を置く上級監査官だ。そして、十五年前、ルカの無実を晴らすために共に奔走してくれた男でもある」
ヴィルヘルムの言葉に、アリシアはハッとして顔を上げた。
かつて彼が語った、嘘の涙で殺された侍従の事件。その後悔を知る人物が、今、王都で動いている。
「読め」
手渡された便箋に目を落とす。
乱れた筆致からは、差出人が極秘裏に、そして急を要してこの手紙を書き上げたことが伝わってきた。
そこに記されていた『王都調達委員会の不正』と『グレイフェルト家』という文字に、アリシアの表情が僅かに引き締まった。
『グランベル卿。長きにわたる沈黙を破る無礼をどうかお許しいただきたい。
現在、王都では冬季物資を管理する調達委員会において、大規模な横流しと贈収賄の疑惑が持ち上がっている。
その中心にいるのは、グレイフェルト伯爵家当主代行、レオハルト・グレイフェルト。
そして、その背後で商人と結託して糸を引いているのが、彼の妻であるセレスティア・モルフォード……旧姓、ローヴェルだ』
アリシアの指先が、ピクリと動いた。
やはり、あの男だった。数日前、救貧食堂で流民の男が涙ながらに語っていた「書類の上では配られたことになっているのに、現物は届かない」という残酷な現実。
その首謀者は、かつての自分の夫だったのだ。
便箋の文字を、さらに目で追う。
『書類上の数字は完璧に辻褄が合わされているが、現場の状況と全く噛み合っていない。
その計算の書式は、極めて洗練されている。おそらく、かつてヴェルディーニ家から嫁いだ前妻が残した帳簿の仕組みを、そのまま悪用して隠蔽を図っているものと思われる』
その一文を読んだ瞬間。
アリシアの頭の中で、すべての点と点が、恐ろしいほどの明確さを持って結びついた。
自分が五年間、グレイフェルト家を立て直すために心血を注いで作り上げた帳簿形式。
無駄を省き、屋敷の使用人たちを守るために構築したはずのその仕組みが、今、賄賂を受け取り、力のない平民たちから物資を搾取し、飢えさせるための「完璧な隠れ蓑」として使われている。
(あの男は……私の仕事を、そんな汚らわしいことに使っているの)
静かで、ひどく冷たい怒りがアリシアの胸の奥底で静かにとぐろを巻いた。
人を守るために作った道具が、人を殺すために使われている。
実務者として、これ以上の屈辱と冒涜はない。
だが、彼女は決して手紙を握り潰したり、声を荒げたりはしなかった。ただ、インクの染みがついた自らの指先をじっと見つめ、ゆっくりと冷たい空気を肺に吸い込んだ。
手紙の最後は、アルベルトの血を吐くような決意で締めくくられていた。
『十五年前、私はあの少女の涙の前に手も足も出ず、ルカを救えなかった己の無力を呪い続けてきた。
だが、今度は違う。彼らがどれほど巧妙に数字を操作しようとも、私は必ずその綻びを突く。
卿が先日、辺境伯の封蝋をもってあの家に拒絶状を叩きつけたという噂は、私の耳にも届いている。
もし、卿と、卿の庇護下にあるというアリシア殿が、あの家と戦う意志を持っているのなら、私の集める証拠が必ず役に立つはずだ』
* * *
ヴィルヘルムは、静かに燃えるようなアリシアの瞳をじっと見つめていた。
「アリシア」
ヴィルヘルムが、低く落ち着いた声で彼女の名を呼んだ。
「お前を不当に追放した憎むべき敵と、十五年前、私から大切な者を奪った敵。それらが今、王都の巨大な腐敗の中心で一つに重なった」
彼は、壁に掛けられた古い一振りの剣に視線を向け、再びアリシアへと向き直った。
「君の戦いと、私の戦いが、王都の本流に繋がった」
それは、ただの雇用主と家政婦という関係を完全に超えた、対等な盟友への言葉だった。
個人の復讐劇が、王都の闇を暴き、飢える人々を救うための大きな戦いへと昇華された瞬間でもあった。
アリシアは手紙を丁寧に折りたたみ、真っ直ぐにヴィルヘルムの灰色がかった青い瞳を見返した。
彼女の顔に、怒りの紅潮も、悲壮な涙もない。
あるのは、氷のように研ぎ澄まされた実務者としての知性だけだった。
「なら、記録を揃えましょう」
迷いのない、即答だった。
「私の構築した帳簿の形式なら、どこをどう操作すれば数字の辻褄を合わせながら物資を抜けるか、手に取るように分かります。アルベルト様から調達委員会の報告書の写しを入手できれば、私がその数字の裏に隠された不正の証拠を、すべて完璧に洗い出してみせます」
相手が不正に書類を使うのなら、こちらは正しい書類でその首を絞める。
それが、アリシアの戦い方だ。
ヴィルヘルムの険しい口元が、わずかに、本当にわずかに緩んだ。
彼女はやはり、彼が最も信頼を置くべき類の人間だった。泣き叫ぶことも、理不尽を嘆くこともしない。ただ目の前にある現実的な手段で、確実に敵の喉元を掻き切る方法を提示してくる。
「ああ。……ようやく、動けるか」
ヴィルヘルムは深く頷き、窓の外を見つめた。
十五年間、沈黙を保ち続けてきた辺境の地が、ついに王都へ向けて牙を剥く時が来たのだ。
窓の外では、依然として白い猛吹雪が吹き荒れている。
敵が放った刺客や悪意が、この屋敷のすぐ外まで迫っているのかもしれない。
だが、分厚い石壁に守られた執務室の中には、静かで、しかし決して消えることのない熱い炎が確かに灯っていた。
怒りではなく、紙を。
涙ではなく、証拠を。
感情に流されることなく、冷徹に事実を積み上げて敵を追い詰める。
その二人の戦い方は、恐ろしいほどに同じだった。




