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第22話 辺境に流れる噂


数日続いた吹雪が嘘のように晴れ渡り、突き抜けるような青空が広がった日の午後。


グランベル辺境伯邸の正門に、雪をかぶった重厚な荷馬車が到着した。

王都から定期的に物資と情報をもたらす行商人、マルクスの一行だった。冬の街道は危険だが、雪が固く踏み固められた晴れ間を縫って、決死の覚悟で山を越えてきたのだという。


「やあ、ハインツ様。それにアリシア様。今回も無事にお届けに上がりましたよ」


荷下ろしを部下に任せ、本邸の家政管理室へと通されたマルクスは、出された温かい茶を飲み干して人懐っこい笑みを浮かべた。


「ご苦労様です、マルクスさん。この時期に王都からの物資が届くのは、本当に助かります」


アリシアが労いの言葉をかけると、マルクスはふうと息を吐き、少しだけ顔を曇らせた。


「いやぁ、王都から荷を出すのも一苦労でしてね。今年の冬は、どうにもきなくさい」


マルクスは声を潜め、王都の現状を語り始めた。


「王都の『調達委員会』が、まるで機能していないんですよ。冬を越すための薪や小麦が、本来なら各地区に平等に配分されるはずなのに、なぜか特定の商会の倉庫にばかり積まれている。袖の下を使った者だけが利益を独占し、平民の住む街区では凍死者が出始めている始末です」


その言葉に、アリシアはインクの染みが抜けきらない指先を、膝の上でそっと握りしめた。


先日、救貧食堂に辿り着いた流民の初老の男が語っていた内容が蘇る。

『書類の上では配られたことになっているのに、現物は届かない』


やはり、王都では大規模で組織的な数字の不正操作が行われている。アリシアはそう結論づけた。


「ひどい話ですね」


アリシアは表情を崩さずに相槌を打った。

実務者としての怒りは静かに燃え上がっているが、今ここで一介の行商人にそれをぶつけても意味はない。


「ええ、本当に。……ですが、今日お耳に入れたいのは、そのことではないんです」


マルクスは周囲を警戒するように家政管理室の扉をちらりと見てから、さらに声を一段低くした。


「実は、王都の社交界や商人の間で、最近奇妙な噂が流れ始めているんです。……御グランベル辺境伯家に関する、良くない噂が」


ハインツの片眉がピクリと跳ね上がった。


「当家に関する噂だと? ご当主様は王都の政治には一切関わっておられないはずだが」


「ええ、だからこそ奇妙なのです。……なんでも、あの厳格で嘘を憎むはずの辺境伯様が、『王都から逃げ出した大罪人の悪女』を、この屋敷に匿っていると」


アリシアの心臓が、冷たい手で掴まれたようにドクリと脈打った。


マルクスは、目の前に座るアリシアがその『悪女』本人であるとは微塵も思っていない様子で、言葉を続けた。


「その女は、夫の家から莫大な財産を横領した挙句、見つかって追放されたそうです。しかも、それだけじゃない。復讐のために、前夫と後妻の間にいた幼い子どもたちを誘拐し、洗脳して道具にしようとしている、なんて尾鰭までついていましてね」


「……何という、下劣な」


ハインツが低い声で怒りを露わにした。

彼はアリシアの働きぶりも、子どもたちへの深い愛情も知っている。それが、王都ではそのような醜悪な形に歪められて語られているのだ。


だが、当のアリシアは、顔色一つ変えずにマルクスの話を聞いていた。

冷静な理性が、その噂の出所と目的を、瞬時に弾き出していたからだ。


(……セレスティアの仕業ね)


先日、商業ギルドから亡きジェラルドの『信託財産』に関する通知があった。

あの財産を引き出すためには、子どもたちの正当な監護者であることが絶対条件となる。


セレスティアは、自分が子どもたちを雨の宿場に遺棄したという致命的な事実を隠蔽するために、先手を打って「アリシアが横領して逃げた悪女であり、子どもたちを誘拐した」という嘘の噂を王都に流し始めたのだ。


そうして自分を被害者に仕立て上げ、正当な理由で子どもたちを取り戻し、信託金を手に入れるつもりなのだろう。


「そんな馬鹿げた噂を、王都の人間は信じているのですか」


ハインツが不快げに問う。


「まあ、ほとんどの者は半信半疑ですよ。あの辺境伯様が罪人を匿うはずがない、と。ですが、何度も繰り返し語られれば、人は『火のないところに煙は立たぬ』と思い始めるものです。……ハインツ様、どうかご当主様にもお気をつけいただくよう、お伝えください」

「情報感謝する、マルクス殿」


マルクスが退出した後、家政管理室には重い沈黙が降りた。


「アリシア様……」

ハインツが気遣わしげに声をかける。


「大丈夫です、ハインツ様」

アリシアは静かに首を横に振った。


「噂というのは、形がありません。今ここで私たちが否定して回ったところで、かえって怪しまれるだけです。相手は、それを狙っているのでしょう」


姿なき悪意の流布。

それは、正面から剣を交えるよりも遥かに厄介で、陰湿な攻撃だった。

物理的な距離の壁を越え、王都からの毒が、この辺境の雪深い屋敷にまで確かに届き始めている。


「ですが、このまま放置すれば、いずれご当主様やこの屋敷の名誉にまで傷がつくことになります」


「ええ。ですから、証拠を集めるのです」


アリシアは、手元にあるインク壺と白紙の羊皮紙を見つめた。


「どれほど巧妙な嘘の噂を流そうとも、事実は変わりません。横領が事実無根である証明、そして子どもたちが自分の意思でここにいるという記録。それらを法的に確固たるものにしなければなりません」



   *   *   *



午後。

アリシアは中庭の片隅で、エミルがヨアヒムから出された文字の書き取りをしているのを見守っていた。


「先生、これで合ってますか?」

「ええ、とても綺麗よ。もう難しい綴りも書けるようになったのね」


エミルは嬉しそうに笑い、再び羽根ペンを動かす。

その少し離れた場所では、リリィがベルナルトの作った雪だるまに木の枝を刺して「て!」とはしゃいでいた。


この穏やかな日常。

血の繋がりはなくても、確かに育ち始めている温かい絆。


それを『誘拐』や『洗脳』などというおぞましい言葉で汚そうとする悪意が、王都で蠢いている。

アリシアの胸の奥底で、決して表には出さない冷徹な怒りが、静かに、しかし確実に温度を上げていた。


(セレスティア。あなたは本当に、どこまでも自分の欲望に忠実な方ですね)


子どもを金としか見ていない女が、自分の欲を満たすためだけに、この平穏を壊しにこようとしている。


夕暮れが近づき、再び雪が舞い始めた。

アリシアは子どもたちに声をかけ、暖かい屋敷の中へと促す。


扉を閉める直前、彼女は一度だけ、遠く王都があるはずの鉛色の空を見つめた。

見えない悪意が、確実にこの辺境の門を叩き始めている。

だが、どれほど分厚い嘘で世界を覆い尽くそうとも、自分の手の中にある『記録』という刃だけは、決して錆びつかせることはない。


アリシアは静かに扉を閉ざし、戦いに備えるべく、自らの戦場である帳簿の山へと向かっていった。


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