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第21話 冬の救貧食堂



辺境の冬は、王都の人間が想像する「寒さ」という概念を容易に凌駕する。


雪はただ静かに降るだけでなく、吹き荒れる風によって無数の氷の刃となり、大地を容赦なく削り取っていく。

街道は雪に閉ざされ、行き場を失った貧しい流民や、冬を越す食料が尽きかけた近隣の村人たちが、寒さを凌ぐ場所を求めて屋敷の周辺に姿を見せ始めていた。


そんな厳冬の朝。

アリシアは執事のハインツと共に、ヴィルヘルムの執務室を訪れていた。


机の上に広げられたのは、屋敷の備蓄目録と、新たに見直された冬季の消費予測表だ。


「ご当主様。冬季限定の救貧食堂の開設を提案いたします」


アリシアの言葉に、ヴィルヘルムは書類から目を離し、静かに彼女を見据えた。


「余剰備蓄の活用と、廃棄予定だった食材の再計算を行いました」

アリシアは手元の羊皮紙を指し示す。


「例えば、兵士用の保存食を作る際に出る肉の端材や、形が悪く売り物にならない根菜類。これらを煮込めば、十分に栄養価の高いスープが作れます。屋敷の正規の家計を圧迫することなく、日に五十人程度の食事を継続して提供することが可能です」


ヴィルヘルムは黙ってアリシアの試算表を手に取った。

そこには、ただ無計画に食事を配るというだけでなく、食べる者に合わせた緻密な計算が記されている。


子どもでも消化しやすいように麦を多めに入れた栄養粥。

歯の弱い老人のための柔らかい煮込み。

そして、汗をかく兵士用とは明確に分けた、塩分を抑えた味付けの指定。


ただの同情や施しではない。実務に基づき、確実に実行可能な計画だった。


「……期間は」


「雪解けが始まる春先までの、三ヶ月間を想定しております」


ヴィルヘルムは数秒だけ沈黙し、ペンを取って承認の署名を書き込んだ。


「許可する。必要な人員があればハインツに手配させろ」


「ありがとうございます」


アリシアが深く頭を下げると、ヴィルヘルムはふとペンの動きを止め、彼女を見た。


「アリシア」


「はい」


「倒れるなよ。お前が倒れれば、この計画も立ち消えになる」


ぶっきらぼうな口調だったが、その言葉には、どこか不器用な労りが混じっていた。


「……肝に銘じます」

アリシアは小さく微笑み、執務室を後にした。



   *   *   *



数日後、屋敷の敷地内にある使用人用の別棟の一部が開放され、救貧食堂の運用が始まった。


厨房は戦場のような忙しさだったが、ベルナルトの指揮のもと、大きな鍋がいくつも火にかけられ、温かい湯気と香ばしい匂いが立ち込めていた。


「アリシアさん! 麦の在庫、今日の分を差し引いた残りの計算、終わりました!」


厨房の隅に置かれた小さな机で、エミルが手元の紙を掲げて報告してくる。


「ありがとう、エミル。とても助かるわ」


アリシアが頭を撫でると、エミルは嬉しそうに目を細めた。

八歳の彼は、もう立派なアリシアの助手として、簡単な計算や在庫の確認を任されるようになっていた。


そして、もう一人。


「おばあちゃん、パン、どうぞ!」


リリィが、両手で抱えた籠の中から小さな白パンを取り出し、食堂の席についた人々に配って回っていた。


四歳の彼女にできる精一杯のお手伝いだ。

ベルナルトが特別に小さく焼いてくれたパンを、誇らしげな顔で配って歩く姿は、食堂の冷え切った空気をじんわりと温めていた。


「おお、ありがとうよ。可愛いお嬢ちゃん」


寒さと飢えで頬のこけた人々が、温かいスープと柔らかいパンを受け取り、何度も何度も頭を下げている。中には、安堵から涙を流しながらスープをすする者もいた。


アリシアは少し離れた厨房の影から、その光景を静かに見守っていた。

王都の華やかな夜会では決して見ることのない、泥臭く、しかし命に直結する切実な温かさがここにはあった。



   *   *   *



配膳のピークを過ぎた頃、リリィが一人の老婆の席の前に立ち止まった。


老婆はひどく痩せ細り、擦り切れた布を何重にも巻いて寒さを凌いでいた。

リリィがパンを差し出すと、老婆は震える手でそれを受け取り、深く皺の刻まれた顔を綻ばせた。


「ありがとうねえ、優しいお嬢ちゃん。……冷たい雪の日に、こんな温かいものをもらえるなんて、神様の恵みだよ」


老婆はリリィの頭を、節くれだった手でそっと撫でた。


「こんなにいい子に育って……。きっと、すごくいいお母さんがいるんだねえ」


その言葉が、少し離れた場所にいたアリシアの耳に届いた。


アリシアの足が、その場に縫い付けられたようにピタリと止まる。


自分は、彼女の母親ではない。

血の繋がりもない。書類上は、一時的な保護者に過ぎない。

「いいえ、違います」と訂正に出るべきだろうか。そう迷った瞬間だった。


「うん!」


リリィは一切の迷いなく、満面の笑みで大きく頷いたのだ。


「……アリシアは、すっごく、すっごく、いいママだよ!」


四歳児の、何の混じり気もない、心からの声だった。


彼女の中では、自分を温かく抱きしめ、ご飯を食べさせ、絵本を読んでくれるアリシアが、すでに「ママ」なのだ。

血の繋がりや大人たちの複雑な事情など、この小さな女の子には全く関係のないことだった。


老婆は「そうかい、そうかい」と目を細め、リリィにもう一度優しく笑いかけた。



   *   *   *



アリシアは、厨房の柱の陰に隠れるようにして、その場に立ち尽くしていた。


胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛い。

けれどそれは、決して不快な痛みではなかった。

今まで感じたことのない、甘く、切なく、そしてひどく温かい感覚だった。


(私は……)


自分は母親ではない。

子どもを産んだこともないし、彼女たちを産んだ女は、今も王都の豪邸でのうのうと暮らしている。

だから、自分が母親を名乗る資格などないのだと、ずっと理性の奥で線引きをしてきた。


だが、リリィのあの迷いのない「うん!」という声が、アリシアの耳の奥で何度も響く。


否定できなかった。

あの純粋な笑顔と信頼を、現実の理屈で打ち砕くことなど、到底できなかった。


いや、それだけではない。

アリシアは、自分の胸にそっと手を当てた。


(……否定、したくなかった)


そうだ。自分は、あの子たちの「いいお母さん」だと言われて、嬉しかったのだ。

あの子たちが、毎日笑顔で過ごせるように。お腹を空かせないように。温かい毛布で眠れるように。

そうやって必死に駆けずり回ってきた自分の日々が、あの一言で、すべて報われたような気がした。



   *   *   *



その温かい余韻に浸っていた、直後のことだった。


王都方面の街道から、命からがら辿り着いたと思われる数人の流民の家族が、屋敷の兵士に保護されて食堂へと運び込まれてきた。

大人も子どもも、ひどい凍傷と栄養失調で倒れる寸前の状態だった。


アリシアはすぐに思考を切り替え、自ら温かい栄養粥と毛布を手にして彼らのもとへ駆け寄った。


「ゆっくり、少しずつ口になさってください」


凍えた手を震わせながら、温かい粥を一口、二口と啜った初老の男が、不意にボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。


「……すまねえ、すまねえ。こんな温かい飯を食ったのは、いつぶりか……」


男は粥の器を抱きしめたまま、恨み言のように悲痛な声を絞り出した。


「王都じゃ、薪も麦も、貴族と商人が根こそぎ持っていっちまう。……冬を越すための配給なんて、ただの幻だ」


その言葉に、アリシアの手がピタリと止まった。


「役所の書類の上じゃ、俺たちの村にも物資が配られたことになってるんだ。村長が、確かにそう言ってた。だが、現物は一粒も届かねえ。途中で全部、どこかに消えちまうんだ。……隣の家の婆さんは、昨日、冷たい床の上で凍えて死んだよ」


書類の上では配られたことになっている。


その一言が、アリシアの背筋に冷たい悪寒となって駆け抜けた。


(書類では処理されているのに、現物がない……?)


それは単なる手違いや、現場の小悪党による横領ではない。

『数字を完璧に操作し、合法的に見えるようにして物資を抜き取っている』という、組織的で巧妙な不正が行われていることを意味していた。


王都の奥底で、巨大で冷酷な悪意が膨れ上がっているのを感じる。

温かいスープの湯気が立ち上る厨房の片隅で、アリシアの胸に、底知れぬ不穏な予感がずっしりと重く残った。

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