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第20話 偽りの懐妊に揺れる帳簿

辺境の大地を白く染め上げた雪は、日を追うごとにその厚みを増していた。


夜も更けた本邸の家政管理室。

暖炉の火がパチパチとはぜる音だけが、静寂に包まれた部屋に響いている。


アリシアは机の上のランプの灯りを頼りに、王都から届いた一通の私信と、そこに同封されていた数枚の書き付けに目を通していた。


差出人は、王都で薬種問屋を営む商人だった。

彼もまた、アリシアがグレイフェルト家で家政を握っていた五年間、その誠実な取引を評価して懇意にしていた相手の一人である。


『アリシア様。突然の書状、無礼をお許しください。

あなたが辺境伯家でご息災であるという噂は、王都の商人たちの間でも密かに広まっております。

実は、グレイフェルト伯爵家からの支払いがここ数ヶ月、深刻なほど滞っておりまして。屋敷の内情はかなり混乱しているようです。

今後の取引を停止するにあたり、未払いの請求書を整理していたのですが……どうしても腑に落ちない不自然な点があり、帳簿の管理に長けたあなた様に、念のため写しをお送りした次第です』


アリシアは、商人の気遣いに小さく息を吐き、同封されていた請求書の写しに視線を落とした。


それは、グレイフェルト家が契約している医師の往診費用と、薬の処方代に関する請求記録だった。


(……確かに、おかしいわ)


アリシアの指先が、請求書の日付と項目の上を滑っていく。


セレスティアが「レオハルト様の子を身ごもった」と宣言し、アリシアが屋敷を追放されたのは秋口のことだった。

ならば現在は、初期の不安定な時期を抜けようかという頃合いのはずだ。定期的な往診と、母体のための栄養剤が処方されていなければならない。


だが、記録されている医師の名は「ギデオン」。

王都の貴族夫人の間で、高額な金貨と引き換えに、都合の良い診断書を書くことで有名な評判の悪い男だ。


そして、往診の日付。

十日に一度、あるいは二十日に一度。間隔があまりにも不規則すぎる。妊婦の体調を管理するための計画的な診察記録ではない。


さらに決定的なのは、処方されている薬の明細だった。


『白百合の抽出液』『月見草の粉末』『安眠のための香油』。


これらはすべて、肌の艶を良くするための美容薬や、軽い睡眠導入剤だ。

本来、身重の女性に処方されるべき栄養補給の薬や、つわりを抑えるための生薬の類が、ただの一つも記載されていない。

にもかかわらず、その総額は信じられないほど高額に膨れ上がり、しかも屋敷の生活費を管理する口座から直接引き出されていた。


(……妊娠は、嘘だったのね)


アリシアの頭の中で、すべての矛盾がカチリと音を立てて繋がった。


あの日、セレスティアが下腹部を撫でていた、あの芝居じみた仕草。

「少し休ませて」と自室に籠もっていた日々は、つわりなどではなく、ただ単に家政の義務から逃れ、レオハルトの気を引くための口実に過ぎなかったのだ。


妊娠という、貴族の当主にとって最も逆らえない絶対的な武器。

それを偽装することで、彼女は本妻であるアリシアを完全に排除し、グレイフェルト家という安全な寄る辺と財産を手に入れた。


(あそこまで計算尽くで、私からすべてを奪い、あの子たちを路傍に捨てた……!)


ペンを握るアリシアの手に、ギリッと強い力がこもった。

インクが紙に小さく飛び散る。


胸の奥底から、ドロドロとした黒い怒りが込み上げてくるのを感じた。

愛していた夫を奪われた悲しみではない。


自分の保身と欲望のためだけに、新しい命の存在を騙り、本当に守られるべき幼い命たちを冬の空の下に放り出した、その底知れぬ身勝手さに対する激怒だった。


今すぐ王都へ取って返し、この請求書をレオハルトの顔に叩きつけてやりたい衝動に駆られる。


だが、アリシアは深く、ゆっくりと冷たい夜気を吸い込んだ。


(駄目よ。怒りで走っては駄目)


彼女はそっとペンを置き、自分の震える指先を見つめた。


この請求書の写しだけでは、法的に彼女の嘘を立証するには不十分だ。

「美容の薬は気分転換のために買った」「往診が不規則なのは体調が安定していたからだ」と、いくらでも言い逃れができてしまう。


確実な証拠とするためには、あの悪徳医師ギデオンの原本の帳簿を直接押さえ、偽造された診断書の記録を暴き出さなければならない。


怒るのは後です。今は、ただ事実だけを記録に残す。


アリシアは冷徹な理性を総動員して感情を封じ込めると、薬種問屋からの手紙を別の重要書類の束に丁寧に挟み込んだ。

いつか必ず、この一枚の紙が、あの女の最大の嘘を暴くための刃となる。


だが、極度の集中と怒りを強引に押さえ込んだ反動か。

アリシアは不意に強い目眩を覚え、机に手をついて小さく息をついた。


冬支度のための連日の業務に加え、夜遅くまでの帳簿整理。

自覚はしていなかったが、彼女の身体には確実に疲労が蓄積していたのだ。


こめかみを指で揉みほぐしていると、ふいに背後の扉が静かに開いた。


「……こんな時間まで、何をしている」


低く、落ち着いた声。

振り返ると、そこには薄手の外套を羽織ったヴィルヘルムが立っていた。

手には、屋敷の夜間見回り用の小さなカンテラが下げられている。


「ご当主様。申し訳ありません、明日の配給計画の確認を少し」


アリシアは慌てて立ち上がり、居住まいを正した。


ヴィルヘルムは部屋の中へ数歩だけ足を踏み入れると、机の上の書類の山と、アリシアの顔を交互に見た。

その灰色がかった青い瞳が、彼女の目の下にできた微かな隈を正確に捉える。


「眠れているか」


極めて短く、静かな問いかけだった。


アリシアは少しだけ戸惑った。

以前の彼であれば「倒れられると屋敷が回らなくなる」という、いかにも実務的な理由を付け加えていたはずだ。

だが今日の彼は、ただ静かに、彼女の顔を見つめているだけだった。


「……ご当主様」


アリシアは、手元の帳簿に視線を落としたまま、微かに反発するような声を出してしまった。

王都からの手紙で心を乱されていたせいかもしれない。


「それは、家政婦への業務指示として仰っているのですか」


労働力の低下を懸念しての言葉なら、自分はまだ働けると証明しなければならない。

そう思って顔を上げたアリシアに対し、ヴィルヘルムは一切の表情を変えずに、ただ真っ直ぐに彼女の瞳を射抜いた。


「人としてだ」


低い声が、静まり返った部屋に落ちた。


「お前がこれ以上、自分自身をすり減らすのを見ていたくない。だから、休めと言っている」


アリシアは息を呑んだ。


人として。

労働力でもなく、便利な道具でもなく。

ただ、目の前にいる一人の人間として、これ以上無理をするなと、彼は言ったのだ。


かつての夫は、彼女が夜遅くまで身を粉にして働いていても、気まずそうに目を逸らすだけだった。

誰も、彼女がどれほど疲弊しているかを「人間」として心配してくれたことなどなかった。


ヴィルヘルムはそれ以上何も言わず、カンテラを軽く持ち上げて足元を照らすと、静かに背を向けて扉の向こうへと歩き出した。

「火の始末は忘れるな」という短い言葉だけを残して。


一人残された家政管理室で、アリシアは呆然と立ち尽くしていた。

胸の奥で、先ほどまで燃え盛っていた黒い怒りとは全く違う、何か温かくて、ひどく柔らかなものが小さく揺れている。


(……ただの、雇用主としての気遣いよ)


アリシアは自分に言い聞かせるように、小さく首を振った。

だが、その言葉をただの業務上の気遣いとして片付けるには、彼の声はあまりにも真っ直ぐで、少しだけ温かすぎた。


アリシアはランプの火を吹き消した。

暗闇の中、彼女は自分の頬が、わずかに熱を持っていることに気づかないふりをして、子どもたちの待つ使用人棟へと静かに足を踏み出した。

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