第19話 亡き商人の信託
実家の兄エドガーからの本物の手紙を受け取り、自分が決して見捨てられてはいなかったと知ってから数日後。
アリシアの心には、王都を追放されて以来ずっと張り詰めていた見えない糸が、ようやく程よい緊張へと変わったような穏やかさがあった。
自分が一人ではないという事実は、これほどまでに人を強くするのか。
日々の実務をこなすアリシアのペンの運びはさらに迷いがなくなり、使用人たちへ的確な指示を出す声にも、以前より確かな張りが生まれていた。
その日の午後、アリシアはハインツに呼ばれ、ヴィルヘルムの執務室を訪れた。
「失礼いたします、ご当主様」
執務室に入ると、ヴィルヘルムはいつものように机に向かっていたが、その前には雪にまみれた厚手の外套を持った見知らぬ男が立っていた。
王都の商業ギルドの紋章が入った外套だ。
男は一礼して退室し、ヴィルヘルムの机の上には、見慣れない分厚い羊皮紙の封書が残された。
「アリシア。王都の商業ギルド本部から、直通の使者がやってきた」
ヴィルヘルムが差し出した封書には、商業ギルドの厳格な天秤の印が押されている。
宛名には、『エミル・モルフォード、およびリリィ・モルフォードの現保護者、アリシア・ヴェルディーニ殿』と記されていた。
「商業ギルドの使者が、わざわざこの雪深い辺境まで……?」
「お前の実家の、ヴェルディーニ子爵の働きかけだろう」
ヴィルヘルムは淡々とした声で言った。
「お前が神殿で緊急保護の申請をした記録は、すでに王都の各機関に回り始めている。子爵がそれに目ざとく気づき、商業ギルドに圧力をかけて情報の開示と書類の送付を急がせたのだ」
アリシアは封を受け取り、丁寧に中身を引き出した。
そこに記されていたのは、エミルとリリィの亡き父、豪商ジェラルド・モルフォードが遺した財産の取り扱いに関する、極めて詳細な『信託契約書』の写しだった。
書面を読み進めるうち、アリシアの目が驚きに見開かれていく。
「これは……」
「そうだ。ジェラルド・モルフォードは、自身の莫大な遺産を、妻であるセレスティアには一切自由に相続させていない。すべての財産は、子どもたちの名義で商業ギルドの厳格な信託下に置かれている」
信託財産。
持ち主が幼いなどの理由で財産を管理できない場合、信頼できる機関にその管理と運用を委ねる仕組みだ。
アリシアは、契約書に記された厳格な条項の数々を声に出して読んだ。
『本財産の引き出しは、子どもたちの正当な監護者が、彼らの養育および教育目的に使用する場合のみ許可される。いかなる理由があろうとも、監護者個人の遊興費、服飾費、負債の返済などに流用することは認めない』
『引き出しに際しては、商業ギルドの厳格な使途審査を必須とする』
『万が一、監護者が子どもを遺棄、あるいは不当に扱った事実が確認された場合、その者の財産管理権は即座に停止対象となる』
すべてを読み終え、アリシアは息を呑んだ。
あの豪商は、死の淵にあっても、自分の妻の本性を完全に理解していたのだ。
セレスティアの際限のない浪費癖と、子どもたちへの致命的な無関心。
もし莫大な財産をそのまま遺せば、彼女はそれを自分の着飾るためだけに使い潰し、子どもたちには一銭も残らないだろう。
だからジェラルドは、子どもたちの未来を守るため、決して破ることのできない法と契約という名の防波堤を築き上げたのだ。
「……これですべてが繋がりました」
アリシアは静かに、しかし冷たい怒りを孕んだ声で呟いた。
「セレスティア様が、なぜあの子たちを一度手元に置こうとしたのに、あっさりと捨てたのか」
ヴィルヘルムも同意するように短く頷く。
「ああ。あの女は、子どもたちを引き取りさえすれば、莫大な信託財産を自由に引き出して使えると思っていたのだろう。だが、いざ王都のギルドへ出向いてみれば、審査の壁に阻まれた」
「ドレスや宝石を買うための資金としては、一銅貨たりとも引き出せなかった……。だから、あの子たちは彼女にとって、ただの『金にならない面倒な荷物』になったのですね」
なんて浅ましく、残酷な理由だろうか。
自分の血を分けた子どもを、金づるとしか見ていなかった。そして、金が引き出せないと分かった途端、冷たい雨の降る宿場町に、まるでゴミでも捨てるように置き去りにしたのだ。
(許さない)
アリシアの胸の奥で、冷え切った怒りの炎がごうごうと音を立てて燃え上がった。
セレスティアの罪は、不貞や横領の濡れ衣を着せたことだけではない。人の命と尊厳を、自らの欲のために弄んだのだ。
「アリシア」
ヴィルヘルムの静かな声が、彼女の思考を引き戻した。
「この信託契約の存在は、お前の戦いにおいて極めて重要な意味を持つ。あの女が子どもたちを遺棄した明確な動機となるからだ。……だが、今すぐにお前がこの財産を使えるわけではない」
「分かっております」
アリシアは冷静に頷いた。
「私はまだ緊急保護の申請をした仮の身。正当な監護者として王都の法務院や神殿に認定されるまでは、この資金には一切触れられません。ですが、今はそれで十分です。この記録があるという事実だけで」
アリシアは契約書の写しを丁寧に折りたたみ、胸元に抱いた。
今はまだ、この金に頼る必要はない。辺境伯邸での自分の労働で、子どもたちを十分に養っていける。
「下がります。貴重な情報をありがとうございました、ご当主様」
アリシアが深く頭を下げて退出する際、ヴィルヘルムはそれ以上何も言わず、ただ静かに彼女の背中を見送っていた。
* * *
夕方。
アリシアは自室にエミルを呼んだ。
リリィはまだ厨房でベルナルトのお手伝いをしている時間だ。
「先生、何か用ですか?」
部屋に入ってきたエミルは、どこか大人びた様子で小首を傾げた。
第14話の朝に彼が自ら選び取った「先生」という呼び方も、今ではすっかり板についている。
「ええ。エミルに、伝えておかなければならないことがあって」
アリシアは机の上に、先ほどの商業ギルドからの書状を広げた。
『母親が金にならないから捨てた』という残酷すぎる真実は、決して口にしてはいけない。それは八歳の少年の心を、無意味に切り裂くだけだ。
アリシアが伝えるべきは、ただ一つの美しい事実だけ。
「エミル。今日、王都の商業ギルドから手紙が届いたの。……あなたのお父様が、遺してくれたものよ」
「父さんが……?」
エミルの大きな瞳が、わずかに揺れた。
アリシアは、ジェラルドが子どもたちの未来のために、莫大な財産をギルドに預けていたことを、子どもにも分かる言葉で丁寧に説明した。
「お父様はね、あなたとリリィが大人になるまで、誰もそのお金を奪えないように、とても頑丈な宝箱に入れて鍵をかけてくれていたのよ。あなたたちが学校に行ったり、本を読んだり、将来何かになりたいと思った時のために、しっかりと守ってくれていたの」
エミルは、アリシアの言葉を静かに聞いていた。
机の上の、王都のギルドの印が押された羊皮紙を見つめる。
病気がちだった父の背中を、彼はいつも見ていた。
優しくて、暖かくて、咳き込みながらもいつもエミルの頭を撫でてくれた父。
『エミル、リリィを頼むよ。お前は賢い子だ。いつか必ず、自分の足で立てるようになる』
亡くなる直前に父が残した言葉の意味が、今、確かな形となってエミルの目の前にある。
父は、死んでからもずっと、自分たちを守ろうとしてくれていたのだ。
「先生……父さんは……」
エミルの声が、微かに震えた。
小さな両手が、ぎゅっと固く握りしめられる。
「父さんは、僕たちを、守ってくれてたんですね……」
ぽろり、と。
大きな瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
声を上げて泣くわけではない。ただ静かに、止めどなく溢れる涙が、少年の頬を伝って机の上に落ちていく。
それは、雨の宿場町で母親に捨てられた時に流した恐怖の涙とは違う。
父親の深く、静かな愛情に触れた、温かい涙だった。
「ええ。そうよ」
アリシアは椅子から立ち上がり、エミルの小さな身体をそっと抱き寄せた。
温かい腕の中で、エミルはアリシアの服の胸元をきつく握りしめ、静かに泣き続けた。
「お父様は、今もずっと、あなたたちを守ってくれているわ」
エミルの背中を優しく撫でながら、アリシアは窓の外の暮れゆく空を見つめた。
ジェラルド・モルフォード。
お会いしたことはありませんが、あなたは立派な父親でした。
あなたが築き上げた防波堤があったからこそ、あの子たちは最悪の運命から逃れることができました。
(どうか、安心して眠ってください)
アリシアは心の中で、亡き商人に静かに誓い、宣言した。
(あなたが遺したこの大切な命は、私が必ず守り抜いてみせます。私のすべてを懸けて)
* * *
同じ頃。
雪降る辺境から遠く離れた、王都の商業ギルド本部。
「どうして引き出せないのよ! 私はあの子たちの母親ですもの!」
ギルドの豪華な応接室で、セレスティアは美しい顔を歪め、窓口の責任者に向かって声を荒げていた。
「ですから、奥様」
責任者の男は、冷ややかな目でセレスティアを一瞥した。
「ジェラルド様が遺された信託財産は、厳格な審査を経なければお渡しできません。お子様方が遠方で病に伏せっており、高額な薬代が必要だという奥様のお話が事実だとしても、お子様ご本人をこの王都のギルドへお連れいただくか、現地の神殿からの正式な診断書がない限り、一銅貨たりともお渡しするわけにはまいりません」
「なっ……!」
セレスティアはギリッと奥歯を噛みしめた。
子どもを連れ出した直後、面倒な審査があると知ってすぐに宿場町に捨てたのは彼女自身だ。
本来なら二度と関わりたくない荷物だった。だが今、グレイフェルト家の資金繰りが悪化し、彼女が欲しいドレスや宝石を買うための金が足りなくなってしまったのだ。
背に腹は代えられないと、嘘をついて金を引き出そうとしたが、商業ギルドの分厚い壁に無惨に跳ね返された。
「……分かりましたわ。連れてくればいいのでしょう!」
セレスティアは捨て台詞を吐き、足早にギルドを後にした。
迎えの馬車に乗り込み、彼女は憎々しげに爪を噛んだ。
あの子どもたちを拾ったのは、自分からすべてを奪われて追放されたはずのアリシアだという噂を、レオハルトの耳から聞いている。
「私のお金になるはずだったのに……!」
手っ取り早くあの信託金を手に入れるためには、あの子たちをもう一度、手元に引き戻すしかない。
「あんな辺境にいる家政婦ごときに、いいようにされてたまるものですか」
王都の冷たい風の中で、セレスティアのどす黒い悪意が、再び辺境のアリシアへ向けて静かに鎌首をもたげ始めていた。




