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第18話 実家から届かなかった手紙

王都に向けて辺境伯家の赤い封蝋を押した拒絶状を放ってから、十日が過ぎていた。


その日、本邸の家政管理室で冬を越すための小麦の在庫表を整理していたアリシアのもとに、ハインツが足早にやってきた。

その顔には、珍しく微かな驚きの色が浮かんでいる。


「アリシア様。王都から、あなた宛てに使者が参りました。辺境伯家の関所を通る際、ヴェルディーニ子爵家の名代であると名乗ったそうです」


アリシアの手から、羽根ペンが滑り落ちそうになった。

ヴェルディーニ家。彼女の生まれ育った実家だ。


「……応接間へ、通していただけますか」


アリシアは動揺を押し隠し、エプロンを外して身なりを整えた。


応接間に通されていたのは、実家で長く兄エドガーの補佐を務めている中年の文官だった。

彼はアリシアの姿を見るなり、安堵に顔を歪め、深く頭を下げた。


「アリシアお嬢様。ご無事で……本当に、ご無事で何よりです」

「ウォルター。遠いところをよく来てくれました。でも、どうして私の居場所が?」


アリシアが席を勧めると、ウォルターは首を横に振った。


「王都の貴族たちの間で、奇妙な噂が流れたのです。グレイフェルト伯爵家宛てに、十五年間沈黙していたグランベル辺境伯から、公式な書状が届いたと。しかもその内容は、元伯爵夫人であるあなたを、辺境伯家の庇護下に置くという通告だと」


あの書状が、王都の閉鎖的な社交界で大きな波紋を呼んでいたのだ。


「エドガー様は、その噂を聞いてすぐさま私に早馬を手配させました。『アリシアは生きていた。すぐに迎えに行け』と」

「お兄様が……?」


アリシアは困惑した。

追放されたあの日、彼女は屋敷を出る直前に老執事に手紙を託した。無実の罪を着せられ、家を追い出されるという事実を伝えるために。

だが、待てど暮らせど実家からの助けは来なかった。横領の罪に問われた娘など、家名の泥を避けるために見捨てられたのだと、彼女はずっとそう思い込んでいた。


「見捨てる? とんでもないことです!」


アリシアの言葉に、ウォルターは憤然として鞄からいくつかの書状を取り出した。


「お嬢様がグレイフェルト家を去られた直後、ヴェルディーニ家にはこのような手紙が届いたのです」


机の上に並べられた三通の手紙。

アリシアはそれに目を落とし、息を呑んだ。


『夫の不貞にはもう耐えられません。自ら離縁を望み、王都を離れます』

『一人で生きていきたいのです。実家とはもう縁を切ります』

『私を探さないでください。一切の援助は不要です』


紙質は、王都の貴族の夫人が好んで使う香水が焚き染められた高級紙。

そして、そこに書かれた文字は、アリシアの筆跡をぞっとするほど巧妙に模倣していた。


「私は、こんな手紙を書いていません」


アリシアの声は、氷のように冷たかった。


「手紙を書いたのは、あの夜、老執事に託した一通だけです」


「やはり……エドガー様も、あの真面目なあなたが『一人で生きていきたい』などと投げやりな言葉を使うはずがないと、ずっと疑っておられました」


アリシアの胸の奥で、散らばっていた事実のピースが冷酷に繋がり合っていく。

あの女だ。セレスティア・モルフォード。

彼女は、アリシアから夫と財産を奪うだけでは飽き足らず、彼女が実家に逃げ込む道すらも周到に断ち切っていたのだ。

偽の手紙を送りつけ、完全に孤立させ、王都の片隅で野垂れ死ぬのを待っていたのだろう。


「お嬢様」


ウォルターは深く頭を下げた。


「エドガー様からの伝言です。『お前は一人ではない。辺境で戦う覚悟があるのなら、ヴェルディーニ家は全力でお前の後ろ盾になる』と」


その言葉が耳に届いた瞬間。

半年間、たった一人で張り詰めていた心の防波堤に、微かな亀裂が入るのを感じた。


見捨てられてはいなかった。

自分の帰る場所は、最初から奪われてなどいなかったのだ。


だが、アリシアは決してその場で泣き崩れるような真似はしなかった。

両手を膝の上で固く握りしめ、小さく、しかし力強く頷いた。


「お兄様に伝えてください。私はもう逃げません。ここで、記録と証拠を集め、必ずあの者たちの罪を暴きます、と」



* * *



使者を見送った後も、アリシアは普段と全く変わらない様子で実務をこなした。


子どもたちの前でも、彼女は決して揺らぐことはなかった。

エミルの文字の練習に付き合い、算術の基礎を教える。

「先生、ここはこうですか?」と尋ねるエミルの頭を撫で、リリィのとりとめのないおしゃべりに相槌を打つ。


彼女は彼らの「先生」であり、保護者なのだ。子どもの前で、大人の事情で涙を見せるわけにはいかない。


やがて夜が更け、子どもたちが寝静まった後。

アリシアは一人、本邸の家政管理室へと戻った。


暖炉の火はすでに落ちかけ、部屋はしんとしずまり返っている。

机の上には、ウォルターが置いていった「兄からの手紙」があった。

封を切り、兄エドガーの無骨だが力強い文字を目で追う。


『アリシア、生きていてくれてありがとう。つらい思いをさせてすまなかった』


その一行を読んだ瞬間。

アリシアの視界が、不意にぐにゃりと歪んだ。


ずっと、孤独だった。

身に覚えのない横領の濡れ衣を着せられ、無一文で雨の夜に放り出され、血の繋がらない子どもたちの命を背負って、必死に前だけを見て歩いてきた。

誰も助けてくれない。誰にも甘えられない。自分が立ち止まれば、子どもたちもろとも終わってしまう。


その極限の緊張感が、実家の家族からの温かい言葉によって、一気に融解していく。


「あぁ……っ」


声にならない嗚咽が、喉の奥から漏れた。

アリシアは机に突っ伏し、両手で顔を覆った。


追放された日にも、飢えと寒さに震えた野宿の夜にも、決して流さなかった涙。

それが今、せきを切ったように溢れ出し、止まらなくなった。


悲しいのではない。悔しいのでもない。

ただ、自分が「一人ではなかった」という事実が、これほどまでに胸を締め付けるのだと、初めて知った。


誰もいない暗い部屋で、彼女はただ一人、声を押し殺して泣き続けた。



* * *



同じ頃。

深夜の屋敷を巡回していたヴィルヘルムは、家政管理室の前で不意に足を止めた。


分厚い扉の向こうから、微かに、本当に微かに、抑え殺したような嗚咽が漏れ聞こえてきたからだ。


ヴィルヘルムの灰色がかった青い瞳が、扉の取っ手に向けられる。

王都からの使者が彼女の元を訪れたことは報告を受けていた。

実家との間に何があったのかは知らない。だが、あの常に冷静で、事実と数字だけで完璧に武装している女が、声を上げて泣いている。


ヴィルヘルムは、ゆっくりと扉へ手を伸ばしかけた。

泣いているのなら、声をかけるべきなのかもしれない。事情を聞き、辺境伯としての力で解決できることなら手を貸してやるのが、主としての務めだろう。


だが。

彼の手は、取っ手に触れる数寸手前で、ピタリと止まった。


『なら、証拠で戦いましょう。私も、彼女に奪われた者です』


先日、彼自身の暗い過去を明かした際、彼女は同情などしなかった。

ただ同じ地平に立ち、同じ武器で戦うことを誓ってくれた。

彼女は、安易な慰めや同情を欲するような人間ではない。


今、彼女が流している涙は、人に縋るためのものではない。

彼女が彼女自身の足で再び立ち上がるために、一人で消化しなければならない時間なのだ。


ヴィルヘルムは伸ばしかけた手を静かに下ろした。

そして、足音すら立てずに、その場から立ち去った。



* * *



翌朝。

いつものように夜明け前に目を覚ましたアリシアは、冷たい水で顔を洗い、赤く腫れた目元を念入りに冷やした。


少しだけ重い瞼を瞬かせながら家政管理室の扉を開けると、彼女はふと足を止めた。


机の上に、見慣れないものが置かれていた。

保温効果の高い厚手の銀の茶器。その横には、小さなメモが添えられている。


『王都の茶葉だ。頭が冴える』


短い、無骨な筆致の文字。

茶器の蓋を開けると、まだ温かい湯気と共に、王都の貴族が好む爽やかで上品な香りがふわりと立ち上った。


アリシアは、その茶器とメモをじっと見つめた。

誰がこれを置いたのか、考えるまでもない。


彼は、自分が昨夜ここで泣いていたことを知っていたのだろう。

知っていて、あえて部屋には入らず、何も聞かず、ただこの温かい茶だけを置いていったのだ。


アリシアは椅子に座り、温かいお茶をカップに注いで一口飲んだ。

胸の奥の、昨日まで張り詰めていた冷たい痛みが、じんわりと溶けていくような気がした。


優しさとは、無理に踏み込んで言葉をかけることだけではない。

あえて踏み込まないことで、守られる尊厳もある。


「……ありがとうございます」


誰もいない部屋で、アリシアは小さく呟いた。

彼女の目はもう泣いてはいなかった。その瞳には、実家という強固な後ろ盾を得て、王都の闇と戦うための新たな決意が、静かに、しかし鮮烈に燃え上がっていた。

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