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第25話 持参金返還請求

石造りの家政管理室に、羽根ペンが羊皮紙を擦る硬質な音だけが響いていた。


アリシア・ヴェルディーニは、机の上に広げられた数枚の公的な書類と向き合っていた。

グランベル辺境伯家の「家政婦頭」という正式な肩書きを得た彼女の指先には、もはや迷いは一切ない。

インクの染みが抜けきらないその指は、かつて自分を不当に追放した者たちへの反撃を、極めて冷徹な「数字」と「法的手続き」として組み上げていた。


机の向かい側には、静かに腕を組んでその様子を見守るヴィルヘルムの姿があった。


「計算が終わりました、ご当主様」


アリシアは書き上げたばかりの書類を裏返し、ヴィルヘルムへと差し出した。


「王都の法務院へ提出する、グレイフェルト伯爵家に対する正式な請求書です。先日連絡があった実家のヴェルディーニ家と、私の共同名義での提出となります」


ヴィルヘルムは書類を受け取り、そこに並んだ項目の数々を無言で目で追った。


一つ目は、五年前の婚姻時にヴェルディーニ家から支払われた持参金の全額返還。


二つ目は、アリシアが五年間で立て直した領地経営および事業利益に対する、正当な寄与分の請求。


三つ目は、追放時に突きつけられた「清算証書」が偽造であるという正式な異議申し立て。


そして四つ目は、横領という無実の罪を着せられ、信用を著しく毀損されたことに対する慰謝料の請求である。


それらすべてを合算した数字は、王都の中堅貴族が一生かかっても使いきれないほどの莫大な額に膨れ上がっていた。


「……グレイフェルト家の年間予算の、三倍は優に超える額だな」


ヴィルヘルムの抑揚のない声に、アリシアは静かに頷いた。


「はい。現在のあちらの財政状況では、逆立ちしても一括で支払える額ではありません。法務院がこの請求を正当と受理すれば、支払い能力なしと見なされ、即座にグレイフェルト家の資産の一部が『仮差し押さえ』となるはずです」


仮差し押さえ。

それは、貴族の家にとって社会的な死に直結する。

屋敷の物品、預金、そして領地からの税収の一部が法的に凍結され、自由な移動が禁じられるのだ。

商人たちは即座に取引を停止し、使用人への給金すら支払えなくなるだろう。


「泣き叫ぶことも、直接罵倒することもしない。ただ、相手の首を最も確実に絞め上げる法的な手順だけを淡々と整えるか」


ヴィルヘルムは、手元の請求書からアリシアへと視線を移した。

その灰色がかった青い瞳の奥に、同じ実務者としての深い共感と、頼もしい共闘者に対する微かな熱が宿っている。


「完璧だ。ここに、グランベル辺境伯家としての保証の証として、私の封蝋も添えよう。これで法務院の動きはさらに加速するはずだ」


ヴィルヘルムは自らの指輪を外し、溶かした赤い蝋の上に力強く辺境伯家の紋章を刻み込んだ。


実家のヴェルディーニ家、そして王太后の実家筋であるグランベル辺境伯家。

二つの強大な後ろ盾を得たその書類は、もはや一介の伯爵家が到底抗えるような代物ではなくなっていた。


「この書類は、先日取り決めた通り、グリュンベルク商会の物資輸送の荷に紛れ込ませ、王都のアルベルト様のもとへ直接届けます。彼の手から法務院へ提出されれば、途中で握り潰される心配もありません」


「ああ、抜かりはないな」


アリシアが深く頭を下げたその時、扉が少しだけ開き、小さな顔が二つ覗いた。


「先生、お茶をお持ちしました」


エミルが、両手でお盆を慎重に持ちながら入ってくる。

その後ろから、リリィがとてとてと歩いてきて、アリシアのスカートの裾をぎゅっと掴んだ。


「おしごと、おわった?」


「ええ、今終わったところよ。ありがとう、エミル。リリィもいい子で待てたわね」


アリシアは冷徹な実務者の顔から一転、柔らかい微笑みを浮かべて二人を撫でた。

その光景を、ヴィルヘルムは静かに、だが決して目を逸らすことなく見つめていた。



*   *   *



数日後の王都。

グレイフェルト伯爵邸の玄関に、法務院の厳格な紋章を掲げた馬車が横付けされた。


「な、なんだと……? 資産の、仮差し押さえ……?」


書斎で法務院の執行官から直接書類を手渡されたレオハルトは、血の気を失った顔でへたり込むように椅子に座り込んだ。


「はい。ヴェルディーニ子爵家、およびアリシア・ヴェルディーニ殿からの正式な請求に基づく措置です。グランベル辺境伯家からの保証も付与されており、当院の事前審査において、清算証書の署名に偽造の疑いが極めて強いと判断されました」


執行官の事務的な声が、レオハルトの耳には死刑宣告のように響いた。

記載された請求額を見た瞬間、彼の視界がぐらりと揺れた。


年間予算の三倍。

そんな金、今の金庫のどこをひっくり返しても出てくるはずがない。


「ま、待ってくれ! 彼女は横領を……それに、自ら持参金を放棄すると……!」


「その横領の証拠とやらも、現在王都監査院が別件と併せて再調査に入る準備を進めております。差し押さえの解除を望むのであれば、法廷にて正当性を証明していただくしかありません。本日から、貴家の口座および主要な財産の移動は法的に凍結されます」


執行官が冷淡に言い残して去った後、レオハルトは一人、広い書斎で震えながら頭を抱えた。


資産が凍結されれば、商人への支払いは完全に停止する。

今日明日の食事の調達すらままならなくなるかもしれない。


「どうして……どうしてこんなことに……」


彼はようやく、あの地味で面白みのないと思っていた妻が、どれほどの重みを持つ「財産」だったのかを、数字という最も残酷な形で突きつけられていた。



*   *   *



同じ頃、屋敷の奥にある女主人の豪奢な私室。

セレスティア・モルフォードは、御用商人から届けられたばかりの新しい冬用のドレスを鏡の前で身体に当てていた。


「やはり、この鮮やかな赤が王都の冬には映えるわね。……あら?」


背後の扉が乱暴に開き、血相を変えた専属のメイドが駆け込んできた。


「奥様! た、大変でございます! 先ほど宝石商と仕立て屋から、注文の品は届けられないと使いが来ました! グレイフェルト家の口座が凍結されたと……!」


「はぁ? 何を馬鹿なことを言っているの?」


セレスティアは苛立たしげに眉をひそめた。


「レオハルト様がそんな手違いをするはずがないわ。私が直接、あの商人たちに文句を言って……」


「法務院の決定だそうです! アリシア様からの、持参金と慰謝料の返還請求が通ったのだと……屋敷中の財産が、仮差し押さえになったと、執事長が青い顔をしておりました!」


パタン、と。

セレスティアの手から、最高級の絹のドレスが床に滑り落ちた。


「アリシアが……?」


メイドを部屋から追い出し、セレスティアはゆっくりと鏡の前に向き直った。

鏡に映る美しい自分の顔が、みるみると醜く歪んでいく。


あの、いつでも従順で、地味で、自分の引き立て役でしかなかった便利な女。

濡れ衣を着せて追い出せば、そのまま惨めに野垂れ死ぬと思っていた女。

それが、王都から遠く離れた辺境の地から、法務院という国家権力を動かし、自分の足元にある財産を根こそぎ奪い返しにきたのだ。


「私のお金になるはずだったのに……!」


先日、商業ギルドで信託財産が引き出せないと知ったばかりだ。

その上、頼みの綱であるグレイフェルト家の財産まで凍結されたとなれば、彼女が着飾るための資金は完全に絶たれてしまう。


ギリッ、と奥歯を噛みしめる音が静かな部屋に響いた。


子どもという面倒な荷物を捨ててまで、ようやく手に入れた伯爵夫人の座と豊かな財産。

それを、あの女が書類一枚で吹き飛ばそうとしている。


セレスティアの瞳から、いつも男たちを騙すために使っていた可憐な涙の膜が完全に消え失せた。

そこにあるのは、自らの欲望を脅かす存在に対する、剥き出しの憎悪と殺意だけだった。


「あの女を、潰さないと……」


鏡の中の自分に向かって、彼女は呪詛のように低く呟いた。


これまで、セレスティアにとってアリシアは単なる「邪魔な障害物」に過ぎなかった。

だがこの日、初めて。

彼女は辺境にいるアリシアを、自らのすべてを奪い返しにくる「明確な敵」として、本気で認識したのだった。

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