第16話 ローヴェルの名に凍った理由
午後。アリシアが厨房で備蓄の精査を終えた頃、ハインツが静かに近づいてきた。
「アリシア様、ご当主様が執務室でお呼びです」
家政の定例報告の時間はとうに終わっている。
イレギュラーな呼び出しに、アリシアは巻いていたエプロンを外し、居住まいを正した。
執務室の重いオーク材の扉を開けると、ヴィルヘルムは珍しく机に向かっていなかった。
書類の山から離れ、窓辺に立って冬枯れの庭を見下ろしている。その後ろ姿からは、いつもの冷徹な実務者としての隙のなさに加え、どこか古い傷に触れるような静けさが漂っていた。
「失礼いたします」
アリシアの入室の気配に、彼はゆっくりと振り返った。
「以前、お前がここへ来たばかりの頃だ」
前置きもなく、ヴィルヘルムは静かな声で語り始めた。
「子どもたちの実母の旧姓を、ローヴェル子爵家だと言ったな」
アリシアの背筋がピンと伸びた。
あの面接の日、執務室の空気が一瞬にして凍りついた瞬間を、彼女ははっきりと覚えている。
「なぜ私がその名に反応したのか。いずれ、話しておくべきだと思っていた」
ヴィルヘルムは窓から離れ、壁に飾られた古い一振りの剣の前に視線を移した。
「十五年前。私はまだ十代で、王都の宮廷に出入りしていた。我がグランベル家は、王太后様の実家筋にあたるからだ」
淡々と事実を述べる声。だが、その底に沈む温度は限りなく低かった。
「私には、一人の若い侍従がいた。名を、ルカ・グレーゲンといった。年も近く、共に剣を振り、共に書物を読んだ。ただの使用人という枠を超え、王都という伏魔殿において、数少ない信頼できる男だった」
ヴィルヘルムの灰色がかった青い瞳が、わずかに細められる。
「ある日、宮廷の奥深くで、王太后様の所有する希少な宝石が紛失する事件が起きた。……犯人は、宮廷に出入りしていたローヴェル子爵家の大人たちだった。彼らは投資の失敗で借金で首が回らなくなっており、それに手を出したのだ」
だが、彼らは捕まらなかった。
「子爵家の大人たちは、自分たちの罪を隠すためにスケープゴートを必要とした。そして、たまたまその日、現場近くの廊下を歩いていた私の侍従、ルカに目をつけ、罪を擦りつけたのだ」
アリシアは息を呑むことなく、ただ静かに彼の言葉に耳を傾けた。
「もちろん、確たる証拠などなかった。そこで彼らは、自分たちの家の娘を証人に仕立て上げた。当時、十二歳だった少女だ」
セレスティア。
その名が、アリシアの脳裏に閃く。
「その少女は、宮廷の大人たちの前で、見事なまでに大粒の涙をこぼして泣きじゃくった」
ヴィルヘルムの声に、初めて微かな、だが明確な憎悪の色が混じった。
「『私、見たの。あの人が、お部屋から宝石を持って出てくるのを』と。ただ泣きながら、怯えたふりをして、震える指でルカを指差したのだ」
十二歳の、可憐でか弱い貴族の少女の涙。
それは、どんな物的な証拠よりも、王都の貴族たちの感情を揺さぶった。
「宮廷の人間たちは、その涙を信じた。ルカは無実を訴えたが、誰も聞き入れなかった。彼は罪人として宮廷を追放され、劣悪な環境の地下牢に入れられ……半年後、劣悪な環境が原因の病で死んだ」
重い沈黙が、執務室を満たした。
十五年前の出来事。だが、その時の無念と絶望は、目の前の強大な辺境伯の心を、今も縛り続けている。
「あの時、私は無力だった。ルカを救うための証拠を見つけることも、同情に流される周囲の空気を覆すこともできなかった」
ヴィルヘルムはゆっくりとアリシアに向き直った。
「以来、私は涙を信じない。感情で動く人間を軽蔑し、空気に流される裁きを憎む」
彼が常に無愛想で、数字と事実だけを重んじる理由。
それは生来の気質などではなく、大切な者を奪われた血の滲むような後悔から生まれたものだった。
「私が信じるのは、記録だ。証拠だ。決して揺るぐことのない事実だけだ」
悲しい過去を聞かされた時、人は同情の言葉を口にする。
「お辛かったですね」や「可哀想に」と、その場を取り繕うために。
だが、アリシアはそのような安っぽい慰めを一切口にしなかった。
同情で死者は戻らず、涙で事実は覆らないと、目の前の男が一番よく知っているはずだからだ。同情など、実務においても戦いにおいても、何の役にも立たない。
彼女は自分の両手を見た。
五年間、ペンを握り続け、石鹸で洗ってもインクの染みが抜けきらない指先。
「……十五年前から、あの女の武器は『涙』だったのですね」
アリシアは静かに顔を上げた。
その瞳には、かつてないほど冷たく、鋭い理性の光が宿っていた。
「私の夫も、彼女の可憐な涙と、弱いふりをする言葉に絡め取られました。そして私に、偽造した横領の証拠を突きつけ、血の繋がらない子どもたちを雨の降る宿場町に捨てたのです」
アリシアは一歩、ヴィルヘルムへと近づいた。
「ヴィルヘルム様。涙で奪われたのなら、証拠で戦いましょう」
真っ直ぐな言葉が、ピンと張り詰めた空気を震わせる。
「私も、彼女にすべてを奪われた者です。そして私の武器は、帳簿と記録です。嘘の涙など、確かな証拠の重みで叩き潰せばいいのです。感情ではなく、事実の積み重ねで、彼女の罪を白日の下に晒してみせます」
ヴィルヘルムは、目を少しだけ見開いた。
同情ではなく、共闘の意思。
感情ではなく、実務による反撃の宣誓。
自分が十五年間一人で抱えてきた暗い憎悪を、目の前の小柄な女性が、極めて現実的で容赦のない手段によって肯定し、共に立つと言い切ったのだ。
ふと。
ヴィルヘルムの険しい口元が、わずかに緩んだ。
笑った、というほど明確なものではない。だが、その顔に常に張り付いていた氷のような緊張が、一瞬だけ溶けたように見えた。
「……そうだな」
低く、落ち着いた声。
だが、その響きには確かな熱が宿っていた。
「涙ではなく、証拠を。ならば、存分に記録を揃えろ、アリシア」
「はい。必ず」
アリシアは深く一礼し、執務室を後にした。
静かな廊下を歩きながら、胸の奥で何かが静かに波打っているのを感じる。
冷徹な辺境伯が、初めて見せた微かな微笑み。
それは、凍てつく冬の空の隙間から差し込んだ、一筋の陽光のようだった。
(私たちは、同じ武器で、同じ敵と戦う)
アリシアの胸の中に、その冷たくも温かい微笑みの余韻が、自分が思っていたよりもずっと長く残り続けていた。




