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第15話 便利な妻の空席 (元夫視点)

王都の空は、厚く重い冬の雲に覆われていた。


グレイフェルト伯爵邸の豪奢な書斎で、レオハルトはこめかみを強く揉みほぐしていた。

暖炉には赤々と火が燃えているというのに、彼の心の中には隙間風のような冷え々えとした焦燥感が吹き荒れている。


机の上に積まれているのは、未決裁の書類ではない。

王都の商人たちから届いた、支払い遅延に対する督促状と、取引停止を仄めかす警告書の山だった。


「……旦那様。申し上げにくいのですが、また二名、辞表を出してまいりました」


静かに書斎へ入ってきた老執事が、疲れ切った声で報告する。

差し出された羊皮紙には、長年この邸宅の裏方を支えてきた中堅のメイドと、厨房の副料理長の名前があった。


「またか。先週も三人辞めたばかりだろう。給金は少し遅れているだけだというのに、恩知らずな奴らめ」


レオハルトが苛立たしげに吐き捨てると、執事は悲痛な顔で目を伏せた。


「給金だけの問題ではございません。商人からの度重なる催促に対応させられ、現場の不満は限界に達しております。それに……新しい奥様からの、度重なるドレスや宝石の注文に、皆、どう対応してよいか分からず……」


「セレスティアは身重なんだ! 跡継ぎを産んでくれる大事な時期に、我慢をさせるわけにはいかないだろう」


レオハルトが声を荒げると、執事は深く頭を下げて沈黙した。


セレスティアは「つわりがひどい」と言っては自室に籠もり、気分転換だと称しては高価な品を部屋に運ばせている。

家政の引き継ぎなど、最初からする気もないらしかった。


執事を下がらせた後、レオハルトは重い溜息をついた。

有能な使用人が消え、商人からはそっぽを向かれる。

屋敷という巨大な船が、軋みを上げながらゆっくりと沈んでいくような、生々しい恐怖。



どうすればいい。

追い詰められたレオハルトは、机の一番下の引き出しに手をかけた。


そこには、彼が以前「見るのも忌々しい」と押し込んで放置していた、前妻アリシアの残した分厚い帳簿が眠っていた。


彼はためらいながらも、その重い革表紙の束を机の上に引きずり出した。

表紙を開き、パラパラとページを捲る。


以前は、ただの無機質な数字の羅列だとしか思っていなかった。

面白みもない、冷たい女の象徴だと。


だが、切羽詰まった状況で改めてそのページに目を落としたレオハルトは、あることに気がついた。

数字の羅列の横、余白という余白に、アリシアの整った小さな文字で、びっしりと書き込みがなされていたのだ。


『ヴァルベルク商会は月末の現金払いを好む。期日を三日早めれば、小麦の単価を二分下げる交渉が可能』


『北側の地下倉庫は、十一月に入ると壁伝いに湿気が降りる。塩漬け肉の樽は壁から離し、床にすのこを追加して風通しを確保すること』


レオハルトは息を呑み、さらにページを捲った。


『冬の訪れと共に、薪の価格は市場で三割高騰する。九月のうちに、懇意の木こりから屋敷の四ヶ月分を先買いして中庭の備蓄庫へ』


『領地の警備兵への冬季保存食。今年の積雪予測からパトロールのシフトが増えるため、塩漬け肉を例年より二樽多く手配。彼らの士気に関わるため、質の落ちる肉は絶対に弾くこと』


それは、単なる金の計算ではなかった。

商人の心理を読み、気候の変化を予測し、兵士たちの命と士気を守るための、緻密で壮大な戦略図だった。


さらにレオハルトの目を釘付けにしたのは、家計とは直接関係のない、使用人たちの名前が書かれたページだった。


『メイドのアンナ、母親の持病が悪化。毎週木曜の午後はシフトを外し、薬師へ通えるよう手配。代わりの人員は、手の空く厨房の者で補う』


『庭師のトーマス、長男が誕生。次回の給金に、お祝いとして銀貨一枚を上乗せして支給すること』


レオハルトは、雷に打たれたように固まった。

冷酷で、数字にしか興味のない女だと思っていた。


だが、違った。

アリシアは、この巨大な屋敷を冷たい数字で「支配」していたのではない。

一人一人の顔を見て、商人の機微に触れ、泥臭く這いつくばって、この屋敷のすべてを「支えて」いたのだ。


彼女がいなくなった途端に、使用人たちが辞めていく理由。

商人たちが掌を返したように冷たくなった理由。


すべてが、この帳簿の中に書き残されていた。


(……私は、何を失ったんだ)


レオハルトの手が微かに震えた。


自分は当主として、ただ彼女が完璧に舗装した道の上を、威張って歩いていただけに過ぎなかったのだ。

あの夜、自分を真っ直ぐに見据え、「離縁には同意します」と言い切った彼女の顔が脳裏に蘇る。


彼女がいなければ、この家は回らない。

今すぐ使者を送り、頭を下げてでも連れ戻さなければ、グレイフェルト家は破綻する。


そこまで考えた時、レオハルトの自尊心が、猛烈な勢いで警鐘を鳴らした。


(馬鹿な。今さら、頭など下げられるか)


自分が間違っていたと認めること。

跡継ぎも産めない欠陥品だと見下していた女に、泣きつくこと。

それは、伯爵であるレオハルトにとって、死ぬことよりも惨めな敗北を意味していた。


「……そうだ。セレスティアには、私の子がいる。グレイフェルト家の血を引く、正当な跡継ぎが」


レオハルトは、すがるようにその事実を口にした。


そうだ、間違っていない。

家を回すだけの女なら、代わりはいくらでも雇える。だが、血を繋ぐことは誰にでもできることではない。


レオハルトは震える手で帳簿を閉じ、再び机の一番下の引き出しへと乱暴に押し込んだ。

まるで、見開いてしまった真実から目を背けるように。


机の上に残されたのは、商人からの督促状と、使用人たちの辞表だけだった。


静まり返った書斎で、レオハルトは冷え切った紅茶のカップを見つめた。

毎朝、必ずそこにあった熱い紅茶は、もう二度と彼の前に置かれることはない。


彼は理解した。

あの女が、どれほど価値のある、かけがえのない存在であったかを。


けれど、理解した時にはもう、彼女はいなかった。

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