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第14話 先生と呼んでもいいですか

辺境の朝は、王都のそれとは比べ物にならないほど鋭く冷え込む。


使用人棟に割り当てられた簡素な部屋の中で、アリシアは夜明け前から小さな机に向かっていた。

手元にあるのは、分厚い羊皮紙を束ねた帳簿と、黒々としたインクの壺だ。


王都の有力な商人であるグリュンベルク商会の使いが訪れ、破格の待遇で彼女を勧誘し、そして彼女がそれをきっぱりと断った翌日の朝だった 。


アリシアの頭の中は、すでに商人のことなど微塵も残っていない。

思考のすべては、この厳しく長い辺境の冬を、いかにして無駄なく乗り切るかという実務で埋め尽くされていた。


彼女はインクの染みが抜けきらない指先で羽根ペンを握り、倉庫に備蓄された塩漬け肉の残量と、年を越すために必要な薪の追加購入費を、狂いのない数字で書き出していく。


「……アリシアさん」


不意に、背後から小さな声がした。

振り返ると、粗末な毛布を掴みながら、八歳になるエミルが寝台の上に身を起こしていた。


まだ夜明け前の薄暗さの中にあっても、彼がひどく怯え、緊張していることが分かった。

大きな瞳が揺れ、何かを言おうとして、躊躇うように唇を噛み締めている。


「おはよう、エミル。どうかしたの?」


アリシアがペンを置き、穏やかな声をかけると、エミルは毛布を握る手にぐっと力を込めた。


「あの……昨日、王都から偉い商人さんが来たって、厨房で聞きました」


八歳の少年の耳にも、大人の世界の噂はすぐに届く。

彼が何を恐れているのか、アリシアには痛いほどよく分かった。


「アリシアさんは……王都へ、戻るんですか」


かすれそうな声だった。

実の母親に雨の宿場町で置き去りにされ、一度はすべてを失いかけた少年だ。

自分たちを拾い上げ、安全な屋根の下へ連れてきてくれたこの女性が、より良い条件を求めて自分たちを置いていくのではないか。


その恐怖が、エミルの小さな体を小刻みに震わせていた。


アリシアは、一切の躊躇いを見せなかった。

同情を引くような間も、曖昧な慰めの言葉も挟まない。


「戻らないわ」


きっぱりと、即答した。


エミルが、弾かれたように顔を上げる。


「ここで働く。あなたたちと一緒に」


アリシアは立ち上がり、エミルの目線に合わせるように膝をついた。


「言葉だけじゃ不安なら、これを見て」


彼女は、先ほどまで記入していた帳簿をエミルの目の前に広げた。


「これは、この屋敷が冬を越すための薪と塩の計算よ。私が責任を持って管理すると、この屋敷の主に約束したもの。私の仕事はここにあるの。だから、どこにも行かないわ」


感情的な抱擁ではなく、実務の記録という圧倒的な具体物。

それこそが、アリシアという人間の最も誠実な証明だった。


エミルの強張っていた小さな肩から、ふっと力が抜けた。

大きな瞳から零れそうになっていた不安の涙が引いていき、代わりに、深い安堵の吐息が漏れる。


「……よかった」


だが、エミルはただ安堵するだけで終わる少年ではなかった。

彼はアリシアが広げた帳簿の数字をじっと見つめ、やがて、強い決意を込めた顔でアリシアを見返した。


「アリシアさん。僕も……僕も、何かできるようになりたいです」

「エミル?」

「文字だけじゃなくて、僕も、その『帳簿』を正式に学びたいです」


ただ守られるだけの存在でいたくない。

自分も働く力を身につけ、彼女の隣に立つにふさわしい人間になりたい。

八歳の少年の、それは切実な願いだった。


アリシアは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく微笑んだ。


「そう。なら、今日から少しずつ始めてみましょうか」


彼女は自分の机から小さな白紙の束を取り出し、エミルのために新しい羽根ペンを用意した 。


「まずは一番大切な、三つの言葉からよ」


アリシアは紙の左側に『収入』、右側に『支出』、そして一番下に『残高』と書き込んだ。


「『収入』というのは、新しく入ってきたもののこと。例えば、村から倉庫に運ばれてきた小麦や、冬のための薪ね 」

「はい」

「『支出』は、使って減っていくもの。毎日厨房で焼くパンや、暖炉にくべる薪のことよ」

「はい」

「そして、倉庫に最後に残っている量が『残高』。この残高がゼロにならないように、収入と支出を見張るのが、帳簿の本当の役割なの」


エミルは真剣な顔で頷き、不慣れな手つきで羽根ペンを握ると、アリシアが書いた三つの言葉を一生懸命に書き写し始めた。


朝の静かな部屋に、ペンが紙を擦る音だけが響く。

しばらく黙々と手を動かしていたエミルだったが、ふと、その手が止まった。


彼は何かを深く迷うように、じっと手元の紙を見つめ、やがて顔を上げた。


「アリシアさん……」


言いかけて、彼は小さく首を横に振った。


「いえ、先生。……そう呼んでも、いいですか」


その言葉に、アリシアは不意に胸の奥を強く突かれたような衝撃を覚えた。


先生。

それは、単なる保護者や同居人ではなく、明確な敬意と、教えを乞う者としての立場を示す言葉。

彼が自らの意思で、彼女との関係性に新しい名前を与えようとしているのだ。


アリシアは、インクの染みがついたエミルの小さな手を、そっと自分の手で包み込んだ。


「ええ」


静かに、深く頷く。


「あなたがそう呼びたいなら。私は、あなたの先生になるわ」


エミルの顔に、この屋敷に来てから一番の、誇らしげで明るい笑顔が咲いた。

この瞬間から、八歳の少年は彼女のことを「先生」と呼ぶようになった 。


「あぁ……」


その時、寝台の奥から可愛らしい寝言が聞こえ、四歳のリリィがむくりと起き上がった。

彼女は目をこすりながら、机に向かう二人を見つけて、とてとてと歩み寄ってくる。

リリィがアリシアの膝に抱きつく。


「アリシア、これ、なに?」


だが、机の上の見慣れない紙を見ると、すぐに首を傾げた。


「これはね、お兄ちゃんがこれからお勉強するための大切な紙よ」


アリシアがリリィの頭を撫でると、エミルもまた、妹に優しく笑いかけた。


窓の外が白み始め、辺境の大地に新しい朝の光が差し込んでくる。


アリシアは、再び羽根ペンを握り直したエミルの横顔を、静かに見つめた。


先生。

それは、血の繋がった「母」という言葉ではない 。

けれど、二度と大人に裏切られまいと傷ついていた少年が、自分自身の意思で選び取った、今の彼にできる精一杯の、そして最も誠実な距離感だった 。


その距離を、今はただ、大切に守り抜こう。

アリシアは静かな決意と共に、自らも再び屋敷の帳簿へと向き直った。

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