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第13話 王都の商人が、辺境の門を叩く

辺境の冬は、容赦なくその深みを増していった。

連日のように吹き荒れる地吹雪が、屋敷の周囲を大人の背丈を超えるほどの白い壁で閉ざしている。


そんな過酷な環境にあっても、グランベル辺境伯邸の内部は、まるで外界の嵐を忘れたかのように円滑に回り続けていた。

午前中、アリシアは家政管理室の机に向かい、冬用の羊毛毛布の配布記録と、地下倉庫の薪の消費速度を綿密に計算していた。

初雪の日に立てた計画が正しく機能しているおかげで、厳しい寒さの中でも使用人たちの体調は万全であり、屋敷の暖房効率はこれまでにない高水準を維持している。


「アリシアさん、この部分の算術、これで合っていますか」


隣の席で、エミルが手元の紙を遠慮がちに差し出してきた。

「ええ、完璧よ、エミル。桁の繰り上がりも正確に書けているわ」

アリシアが穏やかに褒めると、エミルは嬉しそうに目元を緩め、再び真剣な顔で次の課題へと取り組み始めた。


厨房の方からは、リリィが片手で上手に卵を割れるようになったという報告を、ベルナルトが豪快な笑い声と共に家政管理室まで届けてきていた。

子どもたちは、この雪深い異郷の地で、確実に健やかな日常を積み重ねている。



*   *   *



昼前、緊迫した足音が廊下に響き、家政管理室の扉が叩かれた。

入ってきたのは、門番から報告を受けた執事のハインツだった。


「アリシア様、王都からの使者が到着いたしました。雪まみれの旅装で、冬の街道を強行軍で越えてきた様子です。……あなたにお会いしたいと、正門の前で身元を明かしました」


ハインツの言葉に、アリシアは静かに羽根ペンを置いた。

使者の名はトマス・グリュンベルク。王都でも有数の規模を誇る「グリュンベルク商会」の優秀な番頭である。


ハインツは表情を変えなかったが、その瞳の奥には、王都の有力商会がこの大雪を突いてまでアリシアを指名してきたことへの、隠しきれない驚きが滲んでいた。

「応接間へご案内しております。私も同席いたしましょう」


「ええ、お願いいたします」

アリシアは立ち上がり、汚れていないエプロンへと付け替えて部屋を出た。



*   *   *



本邸の応接間。暖炉の火が激しく燃える室内で、旅の疲れと寒さで顔を強張らせた中年の男が、温かい茶のカップを両手で握りしめていた。

アリシアがハインツと共に入室すると、男は弾かれたように立ち上がり、丁寧に一礼した。


「お久しぶりでございます、アリシア様。グリュンベルク商会のトマスにございます。この大雪の中、突然の非礼をお許しください」


「お久しぶりです、トマスさん。驚きましたわ、このような季節に山を越えていらっしゃるなんて。ヴァルター会長はお元気ですか」


アリシアの淀みのない挨拶に、トマスは安堵の表情を浮かべた。

グリュンベルク商会は、五年前、アリシアがグレイフェルト家の破綻しかけた家政を立て直す際、最も早くに誠実な取引関係を築いた相手だった。

トマスは姿勢を正し、懐から厳重に封印された書状を取り出して机の上に置いた。


「我が主、グリュンベルク・ヴァルターからの、あなたへの直接の伝言を携えて参りました」

トマスは真っ直ぐにアリシアを見つめ、熱を帯びた声で言葉を紡ぐ。


「主はこう申しております。『あなたのような稀代の優秀な管理能力を、王都の我が商会でこそ活かしてほしい』と。高貴な方々の家政の裏方ではなく、商会の経営補佐として、正式な雇用契約を結びたいと考えております。

給金は、現在の辺境伯邸が提示している額の数倍をお約束いたします。さらに、お連れの子どもたちの養育費、および将来の教育に関する費用も、すべて我が商会で完全に負担いたします。王都の邸宅も、あなた方の家として一つ、用意させていただく手筈です」


傍らに控えていたハインツが、微かに息を呑む気配が伝わってきた。

提示された条件は、一介の使用人に対するものでは到底ない。王都の最高級の文官をも凌ぐ、破格の待遇だった。ハインツは、自分たちが試用期間を終えて雇い入れた女性が、王都の経済界でどれほどの価値を持っていたのかを、今まさに目の前で突きつけられていた。



*   *   *



アリシアは、机の上の書状を静かに見つめた。

グリュンベルク商会の会長が、自分をこれほど高く評価し、不遇を察して手を差し伸べてくれたことには、純粋な感謝の念が湧く。


しかし、彼女の答えは、トマスが口を開く前からすでに決まっていた。


「素晴らしいお申し出、ありがとうございます。ヴァルター会長のお心遣いには、深く感謝いたしますわ」

アリシアは穏やかに、しかし寸毫の揺らぎもない確固たる口調で告げた。

「ですが、お断りさせていただきます。トマスさん」


トマスは目を見開き、驚愕の表情を浮かべた。

「失礼ながら……理由をお伺いしてもよろしいでしょうか。もし給金や待遇の面でご不満があるのでしたら、会長からは、あなたの望む額をそのまま白紙の契約書に書き込んでも構わないと言われております」


「お金の問題ではないのです」

アリシアは首を横に振った。

「私は今、このグランベル辺境伯邸で、心から信頼に値する雇用主のもと、自分の仕事に誇りを持って励んでおります。使用人の方々も、私を仲間として迎えてくださいました。何より、子どもたちがこの広大な辺境の地で、何の脅威もなく安心して過ごしております。私には今、王都へ戻る理由はどこにもございません」


王都に戻れば、あのレオハルトやセレスティアの醜悪な顔と再び向き合うことになるかもしれない。着せられた横領の濡れ衣も、まだ公には晴れていない。子どもたちを再びあの悪意の渦中に引き戻すなど、論外だった。

だが、それらの私情を商人の前で語る必要はなかった。「ここで満足している」という冷徹なまでの事実だけで、交渉を終わらせるには十分だった。


トマスはアリシアの揺るぎない瞳を見て、引き留めることが不可能であると悟ったのか、肩の力を落として深く頷いた。

「……分かりました。主には、あなたのご決意をそのままお伝えいたします。ただ、一つだけ、お聞きしてもよろしいですか。グレイフェルト伯爵家の現状について、何かご存知でしょうか」


「いいえ、何も。私はすでに、あの家とは縁の切れた身ですから」

アリシアの平坦な返答に、トマスは苦い笑みを浮かべた。


「では、私の方から事実を申し上げましょう。グレイフェルト家は、もう長くは持たないでしょう。我々をはじめ、王都のまともな商会は、あそこへの納品をすでに停止し始めております。支払いは滞り、家政は乱れ、屋敷の維持すらままならない状態だとか。

商人の世界では、信用を失えばそれですべてが終わりです。あなたが去ったことで、あの家から『信用』という名の最も巨大な財産が完全に消え去ったのですよ」


アリシアは表情を変えなかった。

「そうですか」

ただ短く答えたその心の底で、静かで冷たい満足感が満ちていく。あの家が自滅していく速度は、彼女の予測の範疇を出ていなかった。



*   *   *



トマスは「もしお気が変わることがあれば、いつでも我が商会の門を叩いてください」と言い残し、深く頭を下げて、再び激しい吹雪の中へと去っていった。


馬車が見えなくなるまで見送った後、応接室の扉を閉めながら、ハインツがアリシアに向き直った。その老いた瞳には、純粋な敬意と厳粛な響きが宿っていた。


「アリシア様……。あなたは、私の想像を遥かに超える、偉大な方だったのですね」


「過去の話ですわ、ハインツ様」

アリシアは小さく首を振った。

「今の私は、この屋敷の家政管理人です。子どもたちを養うために、ここで働く一人の使用人に過ぎません。それ以外の何者でもありませんわ」


ハインツはそれ以上何も言わなかったが、その一礼の深さは、これまでとは明らかに違っていた。



*   *   *



その後、アリシアとハインツはヴィルヘルムの執務室へと向かい、トマスの来訪と、その用件についての報告を行った。


ヴィルヘルムは机に向かったまま、しばらくの間、深い沈黙を保っていた。

「グリュンベルク商会か」

顔を上げないまま、抑揚のない声が響く。

「お前は、その商会の名を知っているか、ハインツ」


「はい。王都でも五本の指に入る有力商会です。誠実な取引と、確かな先見の明を持つことで知られております」


ハインツの正確な報告を聞いたヴィルヘルムは、ようやく筆を止め、その灰色がかった青い瞳をアリシアへと向けた。

「で、お前は」


極めて短い、去就を問う問いかけ。アリシアは背筋を伸ばし、簡潔に答えた。

「お断りいたしました」


「理由は」


「私はこの屋敷での仕事に満足しており、子どもたちをここで安全に育てることだけを望んでおります。王都へ戻る意思はございません、と。そのようにトマスさんにはお伝えいたしました」


アリシアが答えを終えた瞬間。

執務室の中に、わずかな、しかし確かな空気の変化が生じた。


ヴィルヘルムの頑強な両肩から、ほんの僅かに、力が抜けたように見えた。

それは、アリシアも、横に立つハインツも気づかないほどの、極めて微細な変化だった。

恋愛感情などでは決してない。ただ、この短期間で屋敷の家政を劇的に改善し、冬の備蓄を見事に管理してみせた「極めて有能な人材」を失わずに済んだという、雇用主としての無意識の安堵だった。彼自身も、その微かな心の揺らぎが何であるか、まだ正確には自覚していなかった。


ヴィルヘルムは視線を書類へと戻し、平坦な声で告げた。

「分かった。お前の給金については、今後の働きに応じて引き上げを考慮しておく。下がっていい」


「ありがとうございます、ご当主様」


有能な働き手を正当に評価し、引き留めるための現実的な判断。アリシアはその言葉を素直に受け止め、深く一礼して執務室を退室した。



*   *   *



夜遅く、静まり返った家政管理室。

アリシアはランプの小さな火を頼りに、明日の業務手筈を帳簿に書き込んでいた。


自分の「働く力」が、かつて過ごした王都の経済界で正当に評価され、その声がこの遥か遠い辺境にまで届いたという事実。それは、理不尽にすべてを奪われた彼女の尊厳を、何よりも強く支えてくれる確信となった。

そして、去り際に報告を聞いた主人の、あの微かな態度の変化。

あの偏屈な辺境伯が、自分をこの屋敷に必要な存在として、わずかに引き留めようとしてくれた。それが雇用主としての実務的な判断であれ、彼女にとっては十分に満ち足りた結果だった。


窓の外では、夜の深まりと共に雪が激しさを増し、石造りの壁を叩いている。

辺境の冬は深く、どこまでも冷たい。

しかし、アリシアの心の中には、自らの足で選び取った道への、揺るぎない手応えが赤々と灯っていた。


王都の悪意が自らの重みで崩れ去っていくその日まで、今はここで、この温かい場所で、子どもたちと共に力を蓄える。

アリシアは確固たる筆致で帳簿の最後の頁を閉じ、静かにランプの火を吹き消した。

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