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第12話 初雪の朝の、温かい厨房

夜明け前、いつものように目を覚ましたアリシアは、窓から差し込む光がいつもよりぼんやりと白いことに気づいた。

寝台から抜け出し、窓辺に寄って分厚いカーテンを少しだけ開ける。

外の世界は、音もなく降り積もった純白に染まっていた。辺境の地に、初雪が訪れたのだ。


王都でも雪は降るが、辺境の雪は全く質が違っていた。湿気がなく、乾いて軽い雪が、荒々しい大地を優しく覆い隠している。遠くの山々が、朝の光を浴びて白く神々しく輝いていた。


「ゆき!」

目を覚ましたリリィが、寝台から飛び降りて窓辺へと駆け寄ってきた。歓声を上げる妹の背中を追うように、エミルも目を擦りながらやってくる。


「アリシアさん、雪、すごいですね」

「ええ、本当に綺麗ね」


三人で窓越しに雪景色を見つめる。辺境の冬は厳しいと聞いているが、その始まりを告げる朝は、息を呑むほど美しかった。



*   *   *



身支度を整え、三人で本邸の厨房へと向かった。

扉を開けると、そこは屋敷の中で一番暖かい場所だった。かまどには勢いよく火が入り、ベルナルトが大きな鍋でスープを煮込んでいる。豊かな湯気と、食欲をそそる香ばしい匂いが厨房いっぱいに広がっていた。


「初雪の朝には、辺境では『雪のスープ』を食べる習わしがあるんですよ」

若いメイドのカトリーナが、忙しそうに立ち働きながら教えてくれた。

鍋の中で煮込まれているのは、大きく切られた根菜と塩漬け肉、それにたっぷりの香草だ。

「身体の芯まで温まる、おばあちゃんの味なんです」


ベルナルトが、厨房の隅にやってきたリリィに気づいて顔をほころばせた。

「お嬢ちゃん、今日は、お前さんも手伝うかい?」

彼が小さなパン生地の塊を渡すと、リリィは喜んで両手を伸ばした。あっという間に顔も服も粉まみれになったが、彼女は全く気にしない。

「リリィ、おいしいパン、つくる!」


一方のエミルは、ベルナルトの手元を真剣な顔で観察していた。

「ベルナルトさん、この香草、なんですか?」

「あー、これか。山の麓で取れる、寒さに強い草だ。アリシアさんが、来月、まとめて買い付けてくれる予定でな」

ベルナルトが顎でアリシアをしゃくると、エミルは尊敬の眼差しでアリシアを見た。自分の仕事が彼らの生活の一部になっていることを実感し、アリシアは小さく微笑んだ。



*   *   *



使用人たちが共有食堂に集まり、朝食が始まった。

温かい雪のスープと、焼きたてのパン。冷えた身体に、素朴な味わいが染み渡っていく。


「ご当主様の指示で、今日は使用人棟の暖炉に追加の薪を入れていいそうだよ」

食事の席で、ベテランメイドがいつもよりずっと柔らかい表情でアリシアに告げた。


アリシアの胸に、温かいものがじんわりと広がった。

ヴィルヘルムは、あのように無愛想で冷徹に見えて、こういう細かいことまで気を配ってくれる。彼が単なる雇用主から、「公正な保護者」としての輪郭を帯び始めているのを確かに感じる。

もちろん、そこに恋愛感情などはない。ただ、信頼できる主としての確固たる好感が、アリシアの中に育ちつつあった。



*   *   *



朝食後、アリシアはカトリーナと並んで皿洗いを手伝っていた。

冷たい水ではなく、厨房の隅で温められたお湯を使えるのも、この屋敷の細やかな配慮だった。


「辺境では、冬は神様が眠る季節と言うんです」

皿を拭きながら、カトリーナが静かに話し始めた。

「春になって、神様が目覚めるまで、皆で身を寄せ合って過ごす。だから、初雪の朝は、皆で一緒に食事をするんです」


「素敵な風習ね」

アリシアが相槌を打つと、カトリーナは少し照れたように笑った。


「私、ここに来て三年目なんです。実家は近くの村で、口減らしのために屋敷に来ました。最初は寂しかったけど、ハインツ様もベルナルトさんも、いい人で。それに……アリシアさんが来てから、屋敷がもっと明るくなった気がします」


飾らない言葉に、アリシアは手を止めた。カトリーナは、アリシアが王都から追放された伯爵夫人であることを知っているはずだ。しかし、彼女は過去を詮索することなく、ただ「働く仲間」として真っ直ぐに接してくれている。

王都の貴族たちが浮かべていた裏のある優しさとは違う、素朴で純粋な温かさがそこにあった。


「ありがとう、カトリーナ。私こそ、皆さんに支えられて、ここで働けているわ」

アリシアは媚びることなく、心からの感謝を込めて微笑み返した。



*   *   *



午後、アリシアが本邸の廊下を歩いていると、偶然にも執務室から出てきたヴィルヘルムとすれ違った。


「雪は」

あまりにも短い問いかけ。だが、それが何を意味しているのか、アリシアにはすぐに分かった。


「使用人棟の暖炉、薪の追加、ありがとうございます。おかげで温かく過ごせます」

「当然のことだ」

ヴィルヘルムは表情を変えずに答える。


「子どもたちは、初めての雪を喜んでいます」

アリシアが自然な近況報告として付け加えると、ヴィルヘルムの足が微かに止まった。


「……そうか」

相変わらずの短い相槌。だが、その灰色がかった青い瞳に、わずかな興味の光が宿ったのを見逃さなかった。

子どもは苦手なのだろうが、決して無関心で冷たいわけではない。


ヴィルヘルムは何も付け加えず、静かな足音と共に廊下の奥へと去っていった。

その後ろ姿を見送りながら、アリシアは思う。

(あの人は、徐々に変わっているのかもしれない)

彼の中にある目に見えない壁が、少しずつ低くなっているような気がした。



*   *   *



夕方、屋敷の門前に王都からの行商人が到着した。

冬の雪で街道が閉ざされる前に、最後の一往復をしに来た男だという。ハインツに呼ばれ、アリシアも家政管理室で応対に同席することになった。


「いつもの納品物と、王都の最新情報を」

マルクスと名乗ったその行商人は、愛想のよい笑みを浮かべながら語り始めた。


「王都の貴族たち、最近、ある家の話で持ちきりですよ。グレイフェルト伯爵家。あそこ、商人たちの間でひどく評判が悪い。支払いが遅れる、品質に文句をつける、しかし代わりの仕入れ先を確保できない。なんでも、優秀な家政管理人が、いなくなったらしいんです」


アリシアは表情を一切変えずに、ただ黙ってマルクスの話を聞いていた。

しかし、内心は静かに、そして確かに動いていた。

(あの家が、確実に崩れ始めている……)


「ある商会の主が、もしその家政管理人が辺境にでも流れていったら、ぜひ自分の商会で雇いたい、と言っていましたよ。商人の世界では、有能な管理人は宝ですからね」


マルクスの言葉に、ハインツがちらりとアリシアの方を見た。だが、彼は口を挟まなかった。

アリシアもまた、自分がその「いなくなった管理人」であるとは一言も明かさなかった。


「興味深い話ですね」

ただ一言、そう短く答えるに留めた。



*   *   *



夜、使用人棟の自室に戻ると、リリィが誇らしげな顔で駆け寄ってきた。


「ベルナルトさんと、パン、つくった!」

机の上に置かれていたのは、形はひどく不揃いだが、こんがりと焼けた小さなパンだった。

「上手に焼けたわね。明日、皆でいただきましょう」


その横で、エミルが今日の文字練習の成果を見せてくれた。

そこには、前回の三つの名前の他に、新しい文字が連なっていた。

『ベルナルト』

『ヨアヒム』

『カトリーナ』


「みんなの名前、覚えたんです」

エミルが少しはにかみながら言う。

八歳の少年が、屋敷の人々の名前を覚え、それを自分の手で書き記そうとしている。それは、彼がこの場所を「自分の居場所」として受け入れ始めている確かな証拠だった。

アリシアの胸の奥底に、また一つ、小さな温もりが灯る。



*   *   *



夜更け。

アリシアは家政管理室の窓から、月明かりに照らされた雪景色を見つめていた。


辺境の冬は、王都のそれよりも遥かに厳しく、冷たい。

しかし、この屋敷には確かな温かさがある。人と人との繋がり、仲間の信頼、健やかに育っていく子どもたちの成長。それらが、冷え切った空気を優しく和らげていた。


行商人からもたらされた王都の噂。

グレイフェルト家が崩壊への道を歩み始めている。優秀な管理人を求める商人がいる。自分のこれまでの行いが、王都の商人の世界で密かに囁かれているのだ。


アリシアは、権力も名声も望んではいない。

ただ、ここで働き、子どもたちを養い、自分の力で生きていきたいだけだ。


しかし、外の世界では確実に何かが動き始めている。

それがいずれ、この辺境の地にまで辿り着くのか、今の彼女にはまだ分からない。

アリシアは静かに窓を閉ざし、現在手の中にある温かさを確かめるように、深く息を吐き出した。

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