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第11話 文字を覚える小さな手

初雪の気配が、辺境の鋭い風に混じり始めた朝。

本邸の家政管理室で、アリシアはハインツと向かい合い、本格的な冬に向けた計画を練っていた。


冬の辺境は、王都のそれとは比べ物にならないほど厳しい寒さに包まれるという。

薪のまとめ買いは先週のうちに無事契約を終え、今は屋敷の中庭に新設した保管所で乾燥を進めている最中だ。残る課題は、食料の備蓄と、屋敷全体の暖房効率の見直しだった。


「特に、子どもたちが暮らす使用人棟の二階ですが、窓の隙間からの風が強くなっています」

アリシアが懸念を口にすると、ハインツは手元の書類に目を落としながら頷いた。


「来週、大工を呼びましょう。隙間を埋める修繕を急がせます」


「それまでの間は、簡易の防寒策を取らせていただきます。分厚いカーテンの代わりに古い毛布を吊るし、窓枠の隙間には布をきつく詰めておきます。暖炉の位置も、少しベッドから離した方が安全です」


実務的で素早い対応。ハインツは「助かります」と短く答え、次の議題へと移った。



*   *   *



その日の午前、ハインツが手配した最初の先生役が屋敷を訪れた。

辺境の小さな村で元神官をしており、現在は隠居しているという老人、ヨアヒムだった。


痩せて小柄な体つきだが、白髪の下にある目はひどく優しく、穏やかだった。

「ハインツ殿に頼まれて、お引き受けいたしました。村の子どもたちには、昔よく文字を教えていたものでしてな」


家政管理室の隣にある小部屋で、エミルは緊張した面持ちでヨアヒムに向かい合っていた。


「よろしくお願いします、ヨアヒム先生」


エミルが深く頭を下げると、ヨアヒムはふっくらとした手で自身の顎を撫でた。


「うむ、よい目をしている。文字を覚えたいというのは、本当のことだね」


「ええ、絶対に覚えたいです。自分で本を読めるようになりたいし……その、色々と書きたいこともあるので」


「では、今日から少しずつ、始めましょう」



アリシアは自分の仕事に戻る前、扉の隙間から少しだけ中の様子を覗き見た。

ヨアヒムは穏やかな声で、まずは彼自身の名前の書き方から教えていた。

八歳の少年が、真剣な横顔で不慣れな羽根ペンを力強く握りしめている。最初の文字を書き終え、誇らしげに先生に見せるエミルと、「上手だ。よく書けている」と優しく頷くヨアヒム。


アリシアは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。だが、すぐに扉から離れ、足音を殺して自らの仕事場へと戻っていった。



*   *   *



午後、食材の確認のために厨房に立ち寄ると、そこでも小さな成長の光景が繰り広げられていた。


リリィがベルナルトの隣に立ち、自分の顔ほどもあるボウルを抱えながら、真剣な顔で卵と向き合っている。


「お嬢ちゃん、卵は両手で割るんじゃない。片手だ。こうやって、縁で軽くヒビを入れてから、親指を……」

ベルナルトは半ば諦め、半ば楽しそうな口調で、手取り足取り教えている。


「リリィ、こうやって、こう?」


「そう、もう少しだ」


次の瞬間、グシャリという音と共に、リリィの小さな手の中で卵が見事に潰れ、黄身と白身が手首まで流れ落ちた。


「あー、しっぱい!」

リリィが残念そうに両手を広げると、ベルナルトは豪快に笑った。


「いいんだ、何度でもやれ。卵は腐るほどあるからな」


ベルナルトの顔には、もう新入りの女を警戒していた頃の険しさはない。アリシアは少し離れた場所からその様子を見守り、ベルナルトの視線に気づいて小さく頭を下げた。


「いつもありがとうございます」

「俺の楽しみだ。気にするな」


実務者としての信頼と、子どもを介した素朴な交流。アリシアはこの厨房の空気が、少しずつ自分の居場所に変わりつつあることを感じていた。



*   *   *



夕方、アリシアが家政管理室で仕事を終えようとしていると、エミルが興奮した様子で駆け込んできた。


「アリシアさん、今日、ヨアヒム先生から習った文字がいくつかあります。見てください」


彼が差し出した粗末な紙には、たどたどしいが、力強い筆致でいくつかの単語が並んでいた。

「すごいわね、エミル。たった一日でこんなに書けるようになったの」

アリシアが丁寧に褒めると、エミルは少し照れたように笑い、やがて真剣な顔で言葉を継いだ。


「アリシアさん、数字も、僕、教えてほしいんです」

「数字? ヨアヒム先生にお願いすれば、きっと教えてくださるわよ」

「先生は、文字専門だって言っていました。だから、数字は、アリシアさんがいいです」


アリシアは少し考え込んだ。

自分が誰かにものを教える立場になることへの、わずかな躊躇い。本職の神官のように、順序立てて教えられるだろうか。

だが、見上げてくるエミルの目は、とても真っ直ぐで真剣だった。


「……分かったわ。じゃあ、夕方、私の仕事が終わった後に、少しずつ教えましょう」


「ありがとう、アリシアさん!」


その日の夕方から、短い算術の時間が始まった。

帳簿の読み方の前に、まずは1から10までの数字の形と数え方から。アリシアが手本として数字を書き、エミルがそれを真似て練習していく。


横で真剣に羽根ペンを動かす少年の横顔を見ながら、アリシアは自分の指先に滲むインクの染みを一瞬だけ見つめた。

この指で、いつか、エミルが帳簿を読めるようになる日が来るのだろうか。八歳の少年に、自分が与えられるものは何なのか。


「アリシアさん、ありがとうございました」


一区切りついたところで、エミルが深々と頭を下げる。

その呼び方は、まだ「アリシアさん」のままだ。だが、二人の間に、確実に新しい関係の種が蒔かれた瞬間だった。



*   *   *



夜遅く。

アリシアが一人で帳簿の最終確認をしていると、廊下を歩く静かな足音が家政管理室の前で止まった。


開いたままの扉から姿を見せたのは、ヴィルヘルムだった。


「まだ仕事か」

「はい、冬支度の最終確認を」


アリシアは椅子から立ち上がり、一礼した。

ヴィルヘルムは室内には入らず、廊下に立ったまま短く告げる。


「無理はするな。お前が倒れると、屋敷が回らなくなる」


それは、一人の人間を案じる温かい言葉ではなく、有能な労働力を失うリスクを懸念する、どこまでも実務的な雇用主としての距離感だった。


「ご当主様のお言葉、肝に銘じます」


アリシアもまた、媚びることなく簡潔に返答した。

ヴィルヘルムは小さく頷き、それ以上何も言わずに去っていった。


(あの人は、私を「人間」として見ているのか、「労働力」として見ているのか……)

遠ざかる足音を聞きながら、アリシアはふと思う。

だが、どちらでも構わなかった。彼女の今の役割は、ここで働き、子どもたちを養い、自らの生活を再建することだ。恋愛感情などという不確かなものが入る隙間は、今の彼女の心には爪の先ほども存在していなかった。



*   *   *



夜更け、使用人棟の自室に戻ったアリシアは、小さな驚きに包まれた。

リリィはすでに寝息を立てていたが、エミルは机に向かい、ヨアヒムから習った文字をランプの灯りの下でもう一度練習していたのだ。


「アリシアさん、おかえりなさい」

「ただいま、エミル」


アリシアが机に近づくと、その上の紙に書かれた文字が目に飛び込んできた。

不揃いだが、真剣に何度も書き直された跡がある三つの単語。


『エミル』

『リリィ』

『アリシア』


三つの名前が、肩を並べるように書かれていた。


アリシアは小さく息を呑んだ。

八歳の少年が、自分の名前と妹の名前、端正に並んだそのすぐ隣に「アリシア」という名前を書いた。少年は、自分が一番大切にしている順に、名前を並べたのかもしれない。

まだ「お母さん」と呼ばれるには程遠い。血の繋がった家族でもない。


ただ、エミルの世界の中に、自分が確かに存在している。その紛れもない証拠が、インクの文字となってそこにあった。


「……とても綺麗に書けているわ」


静かな喜びが胸の奥に広がるのを感じながら、アリシアは少年の小さな頭を優しく撫でた。

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