第10話 アリシアのいない伯爵家 (元夫視点)
晩秋の冷たい風が、王都の空を鉛色に染め上げていた。
グレイフェルト伯爵邸の主、レオハルト・グレイフェルトは、書斎の重厚な椅子に深く身を沈め、目の前の光景に微かな苛立ちを覚えていた。
広いマホガニーの机の上には、領地や商会から届けられた決裁書類が、分類されることもなく雑然と積み上がっている。
以前であれば、これらの書類は重要度ごとに綺麗に仕分けられ、彼が目を通すべき箇所には一目でわかるように目印の栞が挟まれていた。今は、どこから手をつければいいのかすら分からない。
「旦那様、お茶をお持ちいたしました……」
新しく雇われた若いメイドが、おずおずとティーカップを運んできた。その手は微かに震えており、ソーサーにカップを置く際、カチャリと不快な音を立てて琥珀色の液体が数滴こぼれた。
「……下がれ」
レオハルトが短く告げると、メイドは怯えたように頭を下げて逃げるように退室していった。
あの女がいた頃は、こんなことはなかった。朝の書斎には常に適温の茶が用意され、使用人たちは音を立てることもなく滑らかに動いていた。
一瞬だけ脳裏をよぎった前妻の姿を、レオハルトは即座に打ち消した。
セレスティアがいる。彼女は美しく、自分に相応しい華やかさを持っている。それで十分だ。あれほど冷たく、可愛げのない女など、この家に必要ないのだ。
* * *
「旦那様、お忙しいところ申し訳ありません」
午前半ば、書斎の扉を叩いて入ってきたのは、この家に長年仕える年老いた執事だった。その顔には、隠しきれない疲労と深刻な色が浮かんでいる。
「商人たちから、支払いの催促が立て続けに参っております。特に、兵士用の保存食を納める商会と、冬の薪を請け負う調達商から、強い問い合わせが……」
レオハルトは眉をひそめた。
「支払いが滞っているというのか。資金が底をついたわけではあるまい」
「はい。ですが、先月までは、商人ごとに支払いの期日を細かく分けて管理されておりました。月末に纏めて、奥さ……」
執事は「奥様」と言いかけて、慌てて口をつぐみ、気まずそうに目を伏せた。
「……アリシア様が、商人ごとに支払い日を分けて管理しておられました。しかし、今は誰もその仕組みを把握しておらず、機能していない状況です」
苛立ちが、レオハルトの胸の中で黒く渦巻く。
「彼女は、面倒な仕組みを作りすぎていただけだ。商人ごとに日を分けるなど、管理を複雑にするだけだろう。シンプルにすればいい。月末に纏めて払え。資金繰りの手配は任せる」
「……承知いたしました」
執事は深く頭を下げた。だが、その表情は明らかに「それでは月末に現金が足りなくなる」と、屋敷の破綻を確信している顔だった。レオハルトはあえてその顔を見ないふりをして、手元の書類に視線を落とした。
* * *
夕方、応接間での食事の席。
目の前に座るセレスティアは、上質な絹の華やかなドレスを身に纏い、美しく結い上げた髪には新しい宝石が輝いていた。その下腹部は、ドレスのデザインのせいか、わずかに不自然なほど膨らんで見える。
「あなた、今日もお仕事大変でしょう? でも、もう、あの面倒な女もいないし、すっきりしたでしょう」
セレスティアは優雅にワイングラスを傾け、甘い声で囁いた。
「私は、あなたの本当の家を、ようやく取り戻したいの。使用人たちも、私の言うことをよく聞いてくれて、本当に嬉しいわ」
彼女は微笑んでいるが、実際のところ、屋敷の優秀な使用人たちは次々と辞め始めている。残っている者たちも、新しい女主人の機嫌を損ねないよう、ただ怯えて従っているだけだ。
だが、セレスティアはその事実に全く気づいていない。
「ねえ、あなた。私の連れ子だった子供たちのことだけど」
セレスティアは、まるで遠い親戚の噂話でもするかのように、他人行儀な口調で言った。
「迎えに行こうかとも思ったの。でも、これからの女主人の仕事で忙しくて。あの方たちが、ちゃんと面倒を見てくれているなら、それでいいのよね?」
一瞬、レオハルトの胸に強い不快感が走った。
あの無愛想な前妻は、血の繋がらないあの子どもたちを、実の母のように熱心に世話していた。それなのに、実の母親であるこの女は、まるで不要な荷物を手放したかのような顔をしている。
しかし、彼はその思考をすぐに遠ざけた。
「セレスティア、君が無理をする必要はない。保護する人間がいるのなら最早、我々が関わることではない」
自分もまた、あの子どもたちには関わりたくないのだ。それが彼の本音だった。
* * *
夜、一人になった書斎で、レオハルトは机の引き出しを開けた。
そこには、アリシアが残していった分厚い家政の帳簿が、まだそのまま収められていた。
彼は無意識にそれを開き、ページを捲る。
そこには、彼女の細かく整った文字と、狂いなく並んだ数字がびっしりと書き込まれていた。
ただの数字の羅列ではない。どの項目にも、丁寧な注釈が添えられている。
『この商人は月末払い』『この商会は月初払いにすることで、単価の交渉余地あり』『ここで一括購入すれば二割引、ただし保管場所を確保すること』。
なぜ、彼女はこんなに細かく書き残していたのか。
面倒なだけじゃないか。それとも、家政に疎い自分が後から見ても分かりやすいように、わざわざ整理してくれていたのか。
その時、レオハルトの脳裏に、ある記憶がフラッシュバックした。
馬車を見送った朝。彼女が子どもを抱き上げた腕の、たくし上がったブラウスの袖口に滲んでいた、黒いインクの染み。
夜遅くまで、ただ一人、この机で書類と向き合っていた彼女の小さな背中。
自分は、それを見ていた。
妻が泥臭く働き、この家を支えている事実を知っていたのに、気まずさから目を逸らしたのだ。
帳簿を持つ手に、じわりと嫌な汗が滲む。
「考えるな」
レオハルトは、逃げるように帳簿を乱暴に閉じた。
「彼女は私を裏切ったんだ。家の金から横領を働いた、強欲な女だ。それを忘れるな」
証拠の書類は偽造かもしれないと、心のどこかで気づいている。だが、それを認めてしまえば、自分の立つ瀬が完全に崩壊してしまう。彼は必死に、自己欺瞞の蓋を押さえつけた。
* * *
その日の深夜。
領地で療養している父、オーガスト・グレイフェルトからの手紙が、早馬で届けられた。
急いで封を切ると、病弱な父にしては力強い筆致で、厳しい言葉が並んでいた。
『最近、王都の家の様子が芳しくないと耳にした。取引先の商会からの問い合わせが、療養中の私の元にまで届き始めている。
お前の妻はどうしているのか。私は彼女に会いたい。アリシア様の、あの冷静な判断と仕事ぶりに、私はこの家を任せられると深く感謝していたのだ。
もし、お前が新しい妻を迎えるというのなら、せめて事前に私に紹介してほしい』
レオハルトは手紙を読み終え、ひどく苦い顔をした。
父は、アリシアの能力を正当に評価し、「アリシア様」と敬称をつけて呼んでいた。
自分は、彼女をただの「面倒な女」「跡継ぎを産めない欠陥品」としか見ていなかったのに。
「父上は古い人だ。新しい時代には、新しいやり方がある」
レオハルトは誰に言い訳するでもなく呟き、手紙を引き出しの奥深くに押し込んだ。父には「跡継ぎのため」とだけ伝えてある。これ以上、余計な口出しをされる筋合いはない。
* * *
同じ頃、本邸の厨房。
片付けを終えた年老いた執事は、暗い部屋の片隅で、一人深く溜息をついていた。
「奥様……いや、アリシア様が、どこかでお元気でいらっしゃるといいが。あの方は、本当に、この家を支えてくださっていたというのに」
それを聞いていた若いメイドが、慌てて周囲を見回し、小声でたしなめる。
「執事様、新しい女主人様の前で、そんなこと、絶対に言ってはいけませんよ。セレスティア様に聞かれたら、また誰かが難癖をつけられて辞めさせられます」
「……分かっている」
執事は目を閉じ、痛む胸を押さえた。
あの夜、アリシアから託された実家への手紙。それを真っ当に届けることができなかった己の臆病さが、今も罪悪感となって彼を責め立てていた。
* * *
夜更け。
レオハルトは書斎の窓際に立ち、冷たいガラス越しに王都の夜景を見下ろしていた。
グレイフェルト家の屋敷は、外から見れば、かつてと変わらず立派で壮麗な貴族の館だ。
だが、その内側では、ゆっくりと、しかし確実に、何かが音を立てて崩れ始めている。
商人たちの不信感、使用人たちの離反、そして資金繰りの悪化。
レオハルトは、それを薄々感じている。
自分が取り返しのつかない過ちを犯したのではないかと、心の底で囁く声がある。
しかし、彼はそれを決して認めない。
彼の脳内では、アリシアはあくまで「私を裏切った強欲な元妻」であり、セレスティアは「美しく、私の子を宿す愛おしい女」でなければならないのだ。
手の中の銀の杯を傾ける。
極上の年代物のはずのワインが、今夜はひどく苦く、喉を焼いた。
窓の外、遠くの石畳を、商人の馬車が督促の使いを乗せて去っていく音が響く。
華やかな夜の王都の中で、グレイフェルト家の名が、少しずつ、だが確実に霞み始めていた。




