第9話 アリシアさん、と呼んだ朝
薄暗い夜明け前、アリシアはいつものように正確な時間へ目を覚ました。
まだ冷え切った空気のなか、身支度を整えようとベッドから足を下ろした時、部屋の小さな机に一つの影があることに気づいた。
八歳のエミルがすでに起きており、ランプの小さな灯りを頼りに、熱心に羽根ペンを動かしている。
ハインツから借り受けた歴史書の文字を、粗末な紙へ一字一字、丁寧に書き写しているようだった。
気配を察したエミルが、静かに振り返ってアリシアを見た。
「おはようございます、アリシアさん」
その一言が耳に届いた瞬間、アリシアの手の動きが一瞬だけ止まった。
頭の中で、今響いた言葉が静かに反芻される。
昨日まで少年の口から放たれていた、張り詰めた敬意の響きを持つ肩書きではない。
ほんの少しだけ敬語の壁が低くなった、新しい響き。
八歳の少年が、この一週間の時間のなかで、自分との距離を自らの意思で測り直し、選び取った呼び方だった。
アリシアの胸の奥に、名前のない小さな温かさが波紋のように広がっていく。
だが、彼女はその喜びをあからさまに表情へ出すことはしなかった。それが、少年が自然に選んだ変化に対する、彼女なりの誠実な尊重だった。
「おはよう、エミル。早起きね」
「アリシアさんを、見送ろうと思って。これ、ハインツ様から借りた本の文字なんです」
「……上手に書けているわ。線の引き方がとても綺麗ね」
アリシアが机の上の紙をそっと指先でなぞると、エミルの顔に誇らしげな笑みが浮かんだ。
まだベッドで丸くなって寝ているリリィを起こさないよう、二人は顔を見合わせて小さく微笑み合った。
* * *
朝食の時間、使用人棟の共有食堂は、一日の始まりを告げる活気に満ちていた。
アリシアがリリィを連れて席に着くと、若いメイドのカトリーナが、今日もリリィのスープの皿へ小さく切った白パンの切れ端をそっと滑り込ませた。
リリィは「おねえちゃん、ありがとう」と嬉しそうに呟き、小さなスプーンを握りしめている。
その様子を少し離れた席から見ていた中年のベテランメイドが、アリシアの横を通り過ぎる際、ぽつりと声をかけてきた。
「あんた、本当によく働くね。昨日の地下倉庫の並べ替え、ベルナルトがひどく感心していたよ」
「いいえ、私はただ、気づいたことをお伝えしただけですから」
「ふん、謙遜するんじゃないよ」
ぶっきらぼうな口調だったが、そこには以前のような冷ややかな警戒心はなかった。
アリシアは、自分がこの辺境の屋敷で「働く女」として、徐々に受け入れられつつあることを肌で感じていた。
まだ家族のような温かさではない。だが、同じ現場を預かる仲間としての確かな足場が、ここに築かれようとしていた。
* * *
午前中、本邸の家政管理室にて、薪の正式な調達契約のための交渉が行われた。
ハインツの隣に座るアリシアの前で、近隣の森林を管理する中年の男、オットーが頑固そうな顔をして腕を組んでいる。
「王都の貴族の奥さんに、木材の何がわかるってんだ。まとめ買いで二割引けなんて、簡単に言ってくれるな」
オットーの粗野な言葉に対しても、アリシアは背筋を伸ばしたまま、穏やかな声で返した。
「貴族の元妻としてではなく、この屋敷の家政の実務者としてお話しさせてください、オットー様。私は、あなたが管理する東の森の薪が、非常に密度が高く、火持ちが良いことを確認しております。
ですが、現在の都度買いでは、輸送のたびに無駄な馬車代がかかっているはずです。三ヶ月分を一括で買い受け、支払いを三回に分ける。これなら、あなたの側も冬場の安定した現金の確保に繋がるはずですが、いかがでしょう」
さらに、アリシアは倉庫の湿気対策と、輸送経路の効率化についての具体的な数値を並べてみせた。
オットーは驚いたように目を見開き、やがて太い指で頭を掻いた。
「お前さん、林業のことを知ってるのか」
「兵士用保存食の管理経験から、木材の湿気と乾燥については、少し心得がございます」
特殊な魔法などではない。ただ、日々の観察とこれまでの実務で培った経験の積み重ね。
オットーはしばらくアリシアを見つめていたが、最後には深く息を吐き、机の上の契約書にペンを走らせた。
「参ったな。あんた、辺境伯様が選んだ人だ。間違いはなかろう。俺らの森の木も、これだけきちんと管理してくれる相手なら、安心して納められるよ」
ハインツが隣で、満足そうに深く頷いていた。
* * *
午後、アリシアはヴィルヘルムの執務室へと呼び出された。
室内に漂う空気は、初めてセレスティアの旧姓を告げたあの日のような、凍りつくような重さは消えていた。だが、主人の姿勢は相変わらず冷徹なまでに公正だった。
「薪の契約が成立したと、ハインツから聞いた。順調だな」
ヴィルヘルムは書類から目を離さず、抑揚のない声で告げた。
「お前の試用期間は、あと半月残っているが、それを待つ理由はない。本日をもって正式採用とする。給金は当初の提示通り、寝床と食事は引き続き使用人棟のものとする」
「ありがとうございます。ご当主様のご期待に沿えるよう、実務に励みます」
アリシアが短く頭を下げると、ヴィルヘルムは筆を止め、その灰色がかった青い瞳を彼女へと向けた。
「ただし、一つ追加の条件がある」
アリシアが顔を上げると、ヴィルヘルムは淡々と言葉を続けた。
「子どもたちの教育は、当家の負担で行う。エミルには文字と算術を、リリィには年相応の遊びと躾を。ハインツに必要なものを揃えさせる」
それは、哀れみによる施しではなかった。屋敷を預かる主として、その敷地内で育つ子どもに対する、あまりにも公正で理知的な配慮だった。
「驚きました……。ありがとうございます、ヴィルヘルム様。子どもたちの代わりに、深くお礼申し上げます」
「いいえ、お前の代わりにではない。子どもたち自身が、ここで生きるための権利だ」
子どもは大人の所有物ではなく、一つの独立した命である。そのヴィルヘルムの毅然とした言葉が、アリシアの胸に深く突き刺さった。この主人は、どこまでも理に叶った方法で、子どもたちの未来を守ろうとしてくれている。
ヴィルヘルムはそれ以上何も言わず、再び手元の書類へと視線を戻した。アリシアは深く一礼し、静かに執務室を退室した。
* * *
夕方、使用人棟の部屋に戻ったアリシアは、待っていた子どもたちにその決定を伝えた。
「エミル、この屋敷で、正式に文字と算術を学べることになったのよ。ヴィルヘルム様が、そのための手配をしてくださいました」
「ほんとに……?」
エミルは大きな目を見開き、その瞳を歓喜で輝かせた。
「ええ、ほんとよ。明日から、ハインツ様が先生役を探してくださるそうよ」
「……ありがとう、アリシアさん」
二度目の、自然な響き。
エミルは嬉しそうに拳を握りしめ、少し照れたように視線を落とした。
「あの、ヴィルヘルム様にも、直接お礼を言ってもいいですか」
「ご当主様はとてもお忙しい方だから、お邪魔をしてはいけないわ。でも、もし廊下でお会いすることがあったら、ちゃんと頭を下げて、大きな声で挨拶をしましょうね」
「はい!」
エミルは真剣な顔で力強く頷いた。
その隣で、話の内容がよく分かっていないリリィが、両手を広げて元気に叫んだ。
「リリィも、おだんご、つくる!」
その無邪気な言葉に、アリシアはふっと目元を緩めた。厨房のベルナルトにすっかり懐いているリリィは、今日も白い小麦粉を髪につけながら、小さな手で何かを作っていたのだろう。その小さな背中を見つめながら、アリシアは子どもたちの未来が、この地で確かに耕され始めていることを実感した。
* * *
夜遅く、静まり返った家政管理室で、アリシアは明日の備品発注の帳簿を整理していた。
窓の外に目をやると、中庭の向こう側、ヴィルヘルムの執務室には今夜もまだ明かりがともっていた。領地のために夜遅くまで働く主人の姿は、彼女にとって、何よりも信頼できる道標のようだった。
ペンを置き、アリシアは静かに自らの内面へと目を向けた。
「アリシアさん」と、エミルが呼んだ。
敬意を失わないまま、しかし、かつての張り詰めた距離を一歩踏み込んできた呼び方。
少年が自分の心で選び取ったその変化に対して、喜びを表に出してはいけないと、彼女の理性が一瞬だけブレーキをかける。自分は彼の本当の母親ではないのだから、と。
しかし、その手を伸ばしてきた子どもの意思を、拒む権利も自分にはない。
ただ受け入れて、その信頼に全力で応える。それだけだ。
アリシアは誰にも見られない暗がりのなかで、小さく、本当に小さく微笑んだ。
窓の外には、辺境の澄み切った星空が広がっている。
冷たい風が建物の隙間をすり抜けていくが、部屋の中は暖炉の残火で微かに温かかった。
第一部の、ただ追われるだけだった絶望の季節は終わった。
まだ家族ではない。まだ本当の仲間でもないかもしれない。
だが、ここには確かに、自分の足で立ち、自分の手で築き上げた「場所」がある。
新しい季節の訪れを予感しながら、アリシアは静かに帳簿を閉じ、ランプの火を吹き消した。




