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異世界手紙屋の代筆帖  作者: 歩人


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5/10

第5話: 宛名の選択

 四年かけて積み上げた証拠が、インク壺の底に眠っている。


 十四歳のアヤは、屋根裏の小部屋で机に向かいながら、その重さを指先に感じていた。マルタ院長からもらった木製のインク壺。蓋の花彫りは手垢で角が丸くなり、もう何度もインクを詰め替えた。けれど壺の底に仕込んだ二重底——紙切れを隠すために自分で彫った浅い空洞——の中身だけは、一度も取り出していない。


 紙片は十七枚になっていた。




 最初の一枚は十歳の夜に書いた。封書の件。ヴェーバーが公爵家の通達文書をひったくった日の記録。


 二枚目と三枚目は十三歳の同じ夜。書斎で見つけた二冊目の帳簿、そして辺境商隊が始めた一袋ごとの品質管理。表の数字と裏の数字の差を埋める仕掛けを、二つの覚書に分けて書き留めた。


 そこからの一年で、十四枚が加わった。


 アヤは奉公人として与えられた権限の範囲で、注意深く証拠を積み上げてきた。棚卸しのたびに倉庫の在庫と帳簿を照合し、差異を記録した。取引先への請求書を写すとき、単価の不自然な変動を書き留めた。ヴェーバーが接待で書斎を空けた際には、二冊目の帳簿を開いて要点を暗記し、自室に戻ってから紙に起こした。


 不正の全容は、こうだった。


 第一に、二重帳簿。表の帳簿は仕入れを高く、売上を低く記載し、利益を実態の六割ほどに圧縮している。これは税吏に提出するための偽装だ。裏の帳簿には本当の数字がある。差額はヴェーバーの私腹に流れている。


 第二に、等級の偽装。ノルトハイム辺境産の上等大麦を並品の価格で仕入れたように帳簿に記載し、実際には上等品の価格で売り捌いている。辺境側の伝票には等級が記載されているはずだが、ヴェーバー商会の帳簿ではその項目が抹消されている。


 第三に、関税の不正申告。ヴェーバーは荷の一部を別の商会名義で分割申告し、免税枠を不正に利用していた。三年前に横流しされた公爵家の通達——新関税率の改定通知——は、次の改定に先回りするためのものだった。


 十七枚の紙片に記された数字を足し合わせると、四年分の不正額はおよそ金リテル三百枚。庶民が一生かけても稼げない額だ。


 証拠は揃っている。


 あとは——手紙を書くだけだった。




 告発書簡。


 この世界では、不正を告発する書面には明確な作法がある。匿名は認められず、告発者の署名が必要。告発の対象、根拠となる事実、証拠の所在を明記し、然るべき立場の人物に宛てて送らなければならない。


 アヤが悩んでいたのは、その「然るべき立場の人物」だった。


 まず考えたのは税吏だ。脱税は王国の税制を損なう犯罪であり、税吏には調査権がある。帳簿の差し押さえも命じられる。手続きとしては最も正当な宛先だった。


 けれど。


 ヴェーバーは金で人脈を築いてきた男だ。税吏の中にも、年末の贈答品が届く相手がいる。上等のワイン、南方の香辛料、宝石箱——表にも裏にも載らない、第三の金の流れ。ヴェーバーが酒の席で漏らした断片から、贈り先が税務署の誰かであることは推測できた。


 税吏に告発しても、揉み消される可能性がある。


 次に考えたのは商人組合だ。組合には商取引の監査権があり、不正な帳簿操作は組合規約にも違反する。ただし組合の長老たちは、ヴェーバーと同じ穀物商人街の住人だ。利害が絡み合っている。孤児の奉公人が持ち込んだ告発状を、彼らが公正に扱うだろうか。


 それも、心もとない。


 書簡院に直接訴える手もあった。だが手続きが煩雑で、受理から調査まで数ヶ月かかる。その間にヴェーバーが察知すれば、証拠を隠滅される。


 どの宛先も、確実ではなかった。


 アヤは机の上に広げた白紙を見つめた。マルタ院長の羽ペンが手の中にある。先端を何度も削り直して短くなった白鳥の羽。四年間の相棒。


 この羽ペンで書く最初の手紙が——告発状になる。


 間違えるわけにはいかなかった。手紙は宛先を間違えた瞬間に、ただの紙切れに戻る。言葉がどんなに正しくても、届くべき人に届かなければ意味がない。




 三日間、アヤは宛先を決められなかった。


 朝は帳簿をつけ、昼は伝票を写し、夕方は在庫を確認する。ヴェーバーの前ではいつも通りの顔を保った。四年間そうしてきたのだから、今さら表情一つ変えない程度の演技は身についている。


 けれど夜、屋根裏の部屋に戻ると、白紙の前で動けなくなった。


 宛先の候補をペンで書き出してみた。


 税吏。商人組合。書簡院。


 どれにも取り消し線を引いた。


 四つ目の候補を書こうとして、ペン先が止まった。


 思い浮かんでいる名前があった。一年前から——いや、もしかすると三年前から、頭の隅にあった名前。ただしその名前を宛先に書くことが正しいのかどうか、アヤには判断がつかなかった。


 辺境公爵ルーカス・フォン・ノルトハイム。


 彼は貴族だ。王国の法制度の中で特権的な地位にある。公爵家の領地に関わる不正——特に関税や穀物取引に関すること——であれば、調査を命じる権限を持つ。しかもノルトハイム辺境産の穀物がヴェーバーの不正に利用されているのだから、当事者でもある。


 手続きの筋としては、必ずしも間違っていない。


 だが、アヤが彼を候補に入れた理由は、手続きの正当性だけではなかった。




 四日目の夜、アヤはインク壺の二重底を開けた。


 十七枚の紙片を一枚ずつ、机の上に並べた。十歳のときの拙い字から、十三歳の少し整った字、そして今の自分の字まで。同じ人間が四年間かけて書き溜めた記録が、小さな机の上を埋めていく。


 一番古い紙片を手に取った。


「花押。ルーカス・フォン・ノルトハイム。不格好だが丁寧。右上がりの癖。末尾のにじみ」


 十歳のわたしが書いた文字だ。あの夜、倉庫で見つけた封書のことを記録した一枚。花押の描写だけが、帳簿の不正とは無関係に紛れ込んでいる。


 不格好だが丁寧。


 その短い言葉に、わたしはあの人のすべてを見た。


 五歳のとき、石碑の前で文字をなぞった指。八歳のとき、公爵夫人の追伸に書かれた「あの文字を読む子は元気か」という一行。十歳のとき、通達文書に残された不器用な花押。十三歳のとき、市場の商隊の男が語った噂——「自分の足で見ないと気が済まない御方」。


 紙の上でしか知らない人。会ったのは五歳のとき一度きり。顔も声ももう覚えていない。


 けれど文字を通じて、この人がどういう人間かを知っている。


 真面目で、不器用で、自分の手で物事を確かめずにはいられない人。領地の帳簿を公正に整え、穀物の一袋ごとに記録を残すことを義務づけた人。識字率を上げたいと言って学校を建てようとしている人。


 花押が不格好なのは、見栄を張らないからだ。上手く見せようとせず、一画ずつ正直に書く。あの花押を見た瞬間、アヤは知っていた。この人は嘘をつかない、と。


 それが、根拠だった。


 税吏でも商人組合でも書簡院でもなく、辺境公爵ルーカスを選ぶ理由。権限でも地位でも手続きの正当性でもなく——この人なら、握り潰さない。この人なら、ちゃんと読む。


 一番正直そうな人。


 たったそれだけの理由で、十四歳の孤児は王国の辺境公爵に手紙を書こうとしている。


 馬鹿げていると思った。確かな根拠などない。花押の筆跡と、商隊の男の世間話と、八年前の追伸の一行。それだけで人を信じるのは、あまりにも脆い。


 でも——手紙とは、そういうものではないだろうか。


 確実に届く保証などない。読んでもらえる保証もない。それでも書いて、封をして、送り出す。言葉を翼にして飛ばす。


 マルタ院長の言葉が、壺の底から響く。


 ——言葉は翼。どこへでも飛んでいけます。


 アヤは新しい紙を一枚、机に広げた。




 手紙の書き出しに、三時間かかった。


 告発書簡の書式は知っている。ヴェーバー商会に保管されていた過去の書簡から独学で覚えた。


 問題は、書式ではなかった。どう書けば、読んでもらえるか。


 辺境公爵のもとには日々、膨大な書簡が届くはずだ。その山の中に、名もない孤児からの一通が紛れ込む。封を開けてもらえるかどうかすら分からない。


 だから、冒頭が全てだった。最初の三行で「これは読むべき手紙だ」と思わせなければ、書簡の山に埋もれて終わる。


 アヤは白鳥の羽ペンを握り直し、インクを含ませた。


 そして——書いた。



 ルーカス・フォン・ノルトハイム辺境公爵閣下


 閣下の花押を、四年前に一度だけ拝見したことがございます。通達文書に添えられたその署名は不慣れな筆致でしたが、一画一画に偽りのない誠実さがありました。この手紙を閣下に宛てましたのは、その花押を信じたからです。



 書き終えて、ペンを止めた。


 告発書簡の冒頭としては、異例だった。本来なら自己紹介と告発の趣旨を簡潔に述べるべきだ。だがアヤはあえてそれを崩した。数字や法律の前に、まず「なぜあなたに書くのか」を伝えたかった。


 花押を褒めているのではない。あの花押が正直だったから選んだのだと、最初に宣言している。これは賭けだ。見当違いかもしれない。四年前の花押の印象だけで公爵の人格を断じるのは傲慢かもしれない。


 けれど手紙屋になりたいと夢見る十四歳の少女には、これしか武器がなかった。


 文字を読む力。行間を見抜く力。そして——書かれたものから、書いた人間の本質を感じ取る力。


 それを信じて、書くしかない。




 冒頭の後は、事実を積み上げた。


 いつから身についていたのか分からない習性が、ここで発揮された。感情を排し、論理的に、検証可能な事実だけを並べる。原稿の辻褄を確かめるときの、あの落ち着いた目の動き——出処も思い出せないその動きを、指先がちゃんと覚えていた。


 まず不正の概要を三行で要約した。二重帳簿の存在、等級偽装の手口、関税の不正申告。次にそれぞれの根拠を具体的な数字で示した。何年何月の何という品目で、表の帳簿と裏の帳簿にどれだけの差異があったか。等級のない帳簿記載と、辺境側の伝票に等級が存在する事実の対比。免税枠を分割利用した複数の取引名義。


 四年分の証拠を、一枚の紙に過不足なく収めた。足りなければ信じてもらえない。多すぎれば読み飛ばされる。


 最後に、こう結んだ。



 以上の事実は、帳簿係として四年間勤めた者の記録に基づくものです。わたしはヴェーバー商会の奉公人であり、正式な身分を持たない孤児です。この手紙が届いた時点で、わたしの立場は失われるでしょう。それでもこの手紙を書きましたのは、偽りの数字がこれ以上積み重なることに耐えられなかったからです。


 閣下のご領地から届く穀物が、不正に利用されています。一袋ごとに記録を残すと定めた閣下であれば、この事実を見過ごしにはなさらないと信じます。


                   アヤ(リリス孤児院出身・ヴェーバー商会帳簿係)



 署名を書き終えた瞬間、ペン先が微かに震えた。


 名前。自分の名前を書いた。匿名は認められないと知っていたから、当然書かなければならない。だがいざ署名すると、その短い署名がひどく重かった。


 この手紙が届いた時点で、わたしの立場は失われる——自分で書いた言葉が、そのまま跳ね返ってきた。商家を追われる。屋根裏の部屋を失う。四年間慣れ親しんだ帳簿も、インクの匂いも、数字の明快な世界も、全て終わる。


 怖くないわけがない。


 けれど、手紙はもう書かれてしまった。インクは紙に染みている。書かれた言葉は取り消せない。この世界では——書かれた言葉は魂を宿す。


 アヤはペンを置き、手紙をそっと持ち上げた。インクが乾くのを待つ。夜風が窓の隙間から入り込み、紙の端がかすかに揺れた。




 封をする段になって、アヤは手が止まった。


 封蝋がない。


 正式な書簡には封蝋と印章が必要だ。だが孤児の奉公人に、そんなものがあるはずもない。


 少し考えて、別の方法を思いついた。倉庫の封緘用の麻紐と蜜蝋。封蝋の代わりにはならないが、紐で縛って蝋で留めれば、少なくとも開封の有無は分かる。印章の代わりに——。


 アヤは羽ペンの軸の端を見た。軸の底に、小さな花の焼印が入っている。マルタ院長が自分で押した、リリスの百合の花。


 この焼印を蜜蝋に押せば、わたしの署名になる。貴族から見れば粗末な封だろう。けれどこの手紙の書き手が何者であるかを示すには、十分だ。


 翌朝、まだ暗いうちに倉庫から麻紐と蜜蝋を持ち出した。


 手紙を三つ折りにして麻紐で縛り、蜜蝋を炎で溶かして結び目に垂らした。柔らかい蝋が固まる前に、羽ペンの軸の底を押しつけた。


 小さな百合の花が、蝋の上に浮き出た。




 宛名を書いた。


 ルーカス・フォン・ノルトハイム辺境公爵閣下。


 黒インクで、一字ずつ丁寧に。宛名は手紙の顔だ。この文字を最初に見るのは、おそらく公爵家の書記官か執事だろう。粗末な封の手紙を主人の元に届けてもらうには、宛名の文字だけで「読む価値がある」と思わせなければならない。


 だからアヤは、持てる限りの集中を注いだ。一画一画を、花押を書くルーカスのように——不格好でもいい、正直に、丁寧に。


 書き上がった宛名を見て、ふと笑いが込み上げた。


 わたしは今、あの人の花押を真似ているのだと気づいたからだ。上手さではなく、誠実さを字に乗せようとしている。不格好だが丁寧。それは四年前にわたしが花押を見て感じたことであり、今まさにわたしが自分の字に求めていることだった。


 気づいた瞬間、耳のうしろの皮膚がふっと温かくなった。インクのまだ乾かない宛名から目が離せない。会ったこともない男を、自分の字でなぞっている。それを認めるのは、告発の手紙を書くより怖いような気がした。書斎の二冊目の帳簿を開けたときよりも、心臓が一拍だけ深く打った。


 ——知っているはずの線だった。

 ——でも今までは、知っているとも気づいていなかった。


 手紙を机の上に置いた。麻紐に蜜蝋、百合の封印、黒インクの宛名。


 一通の手紙が、そこにあった。


 これが届けば、世界が少しだけ動く。ヴェーバーの不正が暴かれ、四年間の嘘が白日の下にさらされる。わたしは商家を追われるだろう。けれど帳簿の中の嘘の数字は、もう誰も傷つけなくなる。


 それだけでいい。


 アヤは手紙を懐に入れ、屋根裏の窓を開けた。夜明け前の空は紺色で、東の地平線にほんの少しだけ白みが差している。ノルトハイムは北東の方角だ。山脈の向こう。


 明日の朝、辺境行きの郵便馬車に手紙を託す。


 あとは——言葉が翼になって飛んでいくのを、信じるだけだ。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


アヤが宛先を選ぶまでの逡巡を、思った以上に丁寧に書いてしまいました。税吏、商人組合、書簡院——どれも合理的な選択肢なのに、最終的に花押の筆跡ひとつで辺境公爵を選ぶ。理屈じゃなくて「この人は正直だ」という直感。前世の校正者スキルで不正の証拠はロジカルに組み立てるのに、宛先だけは理屈を超えた判断をするんですよね。そのアンバランスさが、わたしはアヤらしいと思っています。


手紙の冒頭に「花押を見たから信じました」と書かせたのは、ちょっとした賭けでした。告発状の冒頭としては異例です。でもアヤが手紙屋になる原点は、まさにここにある。宛先にも、書き出しにも、全力で心を込める。それがこの子の手紙です。


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