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異世界手紙屋の代筆帖  作者: 歩人


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第4話: 沈黙の矛盾

 帳簿は、二冊あった。


 同じ月の同じ日に、同じ筆跡で、まったく違う数字が並んでいる二冊が。


 十三歳のアヤがそれに気づいたのは、奉公三年目の秋——倉庫の棚卸しで、ヴェーバーの書斎に追加の台帳を取りに行ったときだった。書斎の鍵は本来、主人しか持っていない。だがその日は取引先の接待で朝から酒が入っていたヴェーバーが、珍しく鍵束ごとアヤに渡したのだ。


「三段目の棚だ。茶色い表紙の台帳。さっさと持ってこい」


 言われた通りに書斎に入り、三段目の棚に手を伸ばした。茶色い表紙の台帳はすぐに見つかった。ただ、その隣に——同じ茶色い表紙の、もう一冊があった。




 背表紙の擦れ具合が違っていた。


 アヤが日常的に使っている台帳は角が丸くなり、背表紙の金文字がかすれている。三年分の手垢と、日々の開閉で革が柔らかくなった、あの手触り。けれど隣の一冊は、角がまだ硬い。背表紙の金文字もくっきりしている。使用頻度が明らかに低い。


 だが——中身を覗いた瞬間、アヤの指が止まった。


 数字が違う。


 同じ月の同じ取引先、同じ品目。なのに金額が合わない。アヤが毎日記帳している台帳では銀リテル百二十枚の仕入れが、もう一冊では銀リテル八十五枚と記されている。差額は三十五枚。一件だけではない。ページをめくるたびに、数字の食い違いが散見された。


 仕入れは常に「表の帳簿」より安く、売上は常に「表の帳簿」より高い。


 つまり——アヤが記帳させられていた帳簿は、利益を少なく見せるために作られた偽物だった。


 頭の中で、三年分の帳簿が一気に巻き戻された。入荷数と出荷数の微妙なずれ。月末の残高に端数が出ないよう調整された、不自然に丸い数字。仕入れ先の名前が時おり変わるのに、金額だけは似たような数字が並ぶ奇妙な規則性——。


 気づいていた。


 ずっと、気づいていたのだ。


 十歳で奉公に来た日から、帳簿の数字に何か引っかかるものがあった。合っているはずなのに、どこかが嘘くさい。その感覚を、アヤはずっと自分の未熟さのせいだと思い込んでいた。子どもの勘違い、経験不足からくる思い過ごし。


 けれど今、二冊目の帳簿を手にして、確信した。


 勘違いではなかった。わたしの目は、正しかった。




 アヤは二冊目の帳簿を元の位置に戻し、言われた一冊だけを持って書斎を出た。


 鍵をヴェーバーに返すとき、手が震えていないか気になった。震えてはいなかった。むしろ、指先が冷たくなっていた。血の気が引く、という言い方を本で読んだことがある。こういうことなのだと思った。


「ご苦労。棚卸しの結果は夕方までにまとめておけ」


「はい、ヴェーバーさま」


 声は平静だった。自分でも不思議なほどに。


 二階の帳簿室に戻り、椅子に座り、いつもの台帳を開いた。見慣れた数字が並んでいる。自分の字だ。三年間、毎日丁寧に書き写してきた数字。正確に転記して、一の位まで合わせて、ヴェーバーに提出してきた数字。


 その一つ一つが——嘘の上に積み重ねられた、偽りの正確さだった。


 胸が詰まった。


 わたしの三年間は、なんだったのだろう。


 数字は嘘をつかないと信じていた。帳簿の世界だけは真実だと思っていた。けれど嘘をつかない数字を、嘘の器に注いでいたのだ。本物の数字は書斎の棚の奥に隠されていて、わたしが記帳させられていたのは、税吏や取引先を欺くための見せかけの帳簿だった。


 ペンを握りしめた。インクが指の間に滲む。


 誰かに言うべきだ。


 でも——誰に?


 十三歳の孤児に、商会の主人の不正を告発する力があるだろうか。証拠は見た。けれど二冊目の帳簿に触れたことがヴェーバーに知れたら、追い出されるだけでは済まないかもしれない。


 権力者の前で萎縮する自分が嫌だった。この感覚には覚えがある。覚えがあるはずのないものに。霧の奥で、蛍光灯の白い光が点滅する。怒鳴り声。机を叩く音。「余計なことを言うな」——。


 前世の残響なのか、今生の恐怖なのか。区別はつかなかった。


 ただ、身体が覚えている。声を上げた者が潰される感覚を。正しいことを言っても、言った側が罰される理不尽を。


 アヤは目を閉じ、深く息を吸った。それからゆっくり吐いて、帳簿に向き直った。


 今日のところは——いつも通りに。




 翌朝、ヴェーバーが朝食の席で上機嫌に宣言した。


「今日は市場に出るぞ。秋の穀物市だ。アヤ、お前も来い。伝票の確認を現場でやれ」


 穀物市は年に四度、王都レクシカの大広場で開かれる。王都近郊の農家から辺境の商隊まで、大陸中から穀物が集まる日だ。ヴェーバー商会にとっては一年の売上の三割を占める大取引の場であり、主人自ら出向くのが慣例だった。


 馬車で大広場に着くと、秋の朝日の下に色とりどりの天幕が並んでいた。穀物の粉の匂い、干し肉の匂い、香辛料の匂い。人混みの喧噪が耳を打つ。アヤは帳面と筆記具を抱えてヴェーバーの後をついていった。


「まあまあ、今年は豊作だなあ。値が下がるのは困るが、量で捌けば問題ない」


 ヴェーバーは取引先の天幕を回りながら、愛想よく握手し、肩を叩き、時折アヤを振り返って伝票の数字を確認させた。人前ではいつもの笑顔だ。頬の肉が盛り上がり、目が細くなる。金の指輪をちらつかせ、「まあまあ、そう堅いことを言わずに」と相手の警戒を解いていく。


 その笑顔の裏に何があるか、アヤはもう知っている。


「ヴェーバーさま、この伝票、前回の単価と一割ほど違います」


「ああ? 秋だからな。相場が動くのは当然だ」


「ですが、同じ品種の大麦で——」


「いちいち細かいことを言うな。単価は私が交渉で決める。お前は数字を写すだけでいい」


 写すだけ。


 その言葉がまた、胸の奥に刺さった。中身を読むな。数字を写すだけでいい。三年前の初日と、言っていることが変わらない。


 アヤは口を閉じた。帳面にペンを走らせ、言われた通りの数字を書き込んだ。




 ヴェーバーが仕入れ先の天幕に入り、アヤが外で待たされている間のことだった。


 大広場の北側に、見慣れない旗を掲げた一団が天幕を張っていた。北の山脈を意匠にした紋章——ノルトハイム辺境公爵家の旗だ。


 アヤの足が、無意識にそちらへ向いた。


 天幕の前には大麦と乾燥豆の樽が並び、毛皮や鉱石の小箱も置かれている。辺境からの商隊だ。年に数度、雪解けと収穫期に王都まで下りてくる。ヴェーバー商会にも辺境の穀物を卸していたから、見覚えのある品目が多い。


 けれど今回の商隊は、以前とどこか雰囲気が違った。


 天幕の造りが丁寧だった。旗が新しく、商品の陳列も整然としている。以前の辺境商隊はもっと雑然としていて、荷崩れした樽の間に無造作に品物を並べていたはずだ。


「お嬢ちゃん、何か探してるかい」


 天幕番をしていた髭面の男が声をかけてきた。日に焼けた肌と、太い腕。北方の訛りが混じった話し方だ。


「いえ……ノルトハイムの商隊を見るのは久しぶりだったので」


「おう、そうかい。今年から商隊の編成が変わってな。公爵さまの指示で、品質管理を徹底することになったんだ」


「公爵さまの?」


「ルーカスさまだよ。若いのに大したもんだ。十三で家督を継いでから、五年で領地の改革を次々と進めてらっしゃる」


 十三で家督。今年十八ということは——五つ年上のあの少年は、十三歳で公爵家を継いだということか。


 アヤの知らない五年間に、何があったのだろう。石碑の前で「一緒に覚えよう」と言った五歳の男の子が、十三歳で父を亡くし、辺境を治め、十八歳の今は商隊の品質管理まで指示するようになっている。


「品質管理、というのは?」


「穀物の等級をきちんと分けて、伝票に品種と産地と等級を明記する。前は重さだけ量って終わりだったのが、今は一袋ごとに記録を残す決まりになった。最初は面倒だって文句も出たが、やってみたら取引先の信用がぐんと上がってな」


 一袋ごとに記録。それは——帳簿と伝票の突き合わせが正確にできるということだ。品種も産地も等級も記録されていれば、仕入れと売上の数字を操作する余地が小さくなる。


 アヤの頭の中で、昨日見た二冊目の帳簿の数字がちらついた。


 ヴェーバーの帳簿では、辺境からの仕入れは品目と重量しか記録されていない。等級の記載はない。同じ大麦でも上等品と並品では単価が倍以上違うのに、帳簿上ではすべて同じ「大麦」として処理されている。


 つまり——上等品を並品の値段で仕入れたことにして、差額を懐に入れることができる。


 そこまで考えて、アヤは自分の思考の鋭さに驚いた。なぜこんな発想が自然に出てくるのだろう。十三歳の孤児が、商人の不正経理の手口を組み立てている。


 それは前世の何かの残響なのかもしれなかった。帳簿の数字に潜む矛盾を見つけたとき、頭の奥で「これは校正と同じだ」という声がする。原稿の辻褄を確かめるように、数字の辻褄を追っている。その感覚がどこから来るのか、アヤには分からない。ただ、指先と目が、嘘を見逃さない。


「それで、ルーカスさまはお元気なんですか」


 口に出してから、しまった、と思った。ただの奉公人の少女が辺境公爵の安否を訊くのは不自然だ。


 けれど髭面の男は気にした様子もなく、にかっと笑った。


「元気も元気。毎日領地を駆け回っておられるよ。先月は北の山道を自分で歩いて視察されたと聞いた。文官に任せればいいものを、自分の足で見ないと気が済まない御方でな」


「……自分の足で」


「ああ。辺境と王都の差をなくしたい、ってのが口癖らしい。識字率を上げるために学校を作る話も進めてるとかで。まだ十八の若造なのに、大したもんだよ」


 識字率を上げる。学校を作る。


 石碑の前で「読めるようになりたい」と言った少年が、今は領民に文字を教えようとしている。


 胸の底が、じん、と熱くなった。


 誇らしい、というのに少し近い。誰かに自慢したい、というのとも違う。ただ、あのとき隣でしゃがんでいた小さな指が、今この国のどこかで動いていて、何かを変えようとしている——それだけのことが、八年経ったいまもアヤの体温を一度上げる。


 ルーカスは、覚えているだろうか。石碑の前のあの午後を。「一緒に覚えよう」と言った自分の声を。覚えていないかもしれない、と思うとほんの少し、胸の底の温度が下がった。それでも構わない、と頭の中で言い聞かせる。覚えていなくても、彼はちゃんとあの約束の続きを生きている。それだけで、十分だ。


「ありがとうございます」


 アヤは頭を下げて、天幕を離れた。帳面を胸に抱えたまま、人混みの中を歩く。秋の陽射しが目に眩しかった。




 ヴェーバーの天幕に戻ると、主人はすでに商談を終えて上機嫌だった。額の汗を手拭いで拭き、金の指輪を陽にかざしている。


「うまくいったぞ。南方の新しい取引先が見つかった。来月から入荷量を二割増やせる」


「おめでとうございます」


「お前も喜べ。仕事が増えるということは、それだけお前の値打ちも上がるということだ」


 値打ち。


 アヤはその言葉を飲み込んだ。わたしの値打ちは、偽の帳簿に正確な数字を書くことで測られている。それを喜べと言われても、胸の中は冷えたままだった。


「ヴェーバーさま」


「なんだ」


「……いえ、なんでもありません」


 言いかけて、やめた。まだ言えない。証拠がある——だが、それを誰に届ければいいのか分からない。税吏に訴えたところで、ヴェーバーの賄賂の人脈が揉み消すかもしれない。商人組合に告発しても、孤児の言葉を真に受ける大人がどれだけいるか。


 声を上げるには、正しい宛先が要る。


 手紙と同じだ。どんなに切実な言葉も、届けるべき相手を間違えたら意味がない。


 馬車に揺られてヴェーバー商会に戻る道すがら、アヤは窓の外を流れる王都の街並みを見つめていた。石畳の道、煉瓦の壁、看板の文字。夕日に染まった通りを、辺境公爵家の旗を掲げた商隊の馬車がゆっくりと北へ向かっていく。


 あの商隊は、ノルトハイムへ帰るのだ。大麦と乾燥豆を売り、王都の産物を買い付けて、山脈の向こうへ。


 その先に、あの少年がいる。


 自分の足で領地を歩き、一袋ごとの記録を義務づけ、学校を建てようとしている十八歳の公爵。


 不格好な花押を丁寧に書いていた、十五歳の少年。


 石碑の文字をなぞっていた、五歳の少年。


 八年間で四度、ルーカスという名前がアヤの前を横切った。石碑の銘文。追伸のインク。花押のにじみ。そして今日、商隊の男が語った噂——三つは紙の上で、四つ目はようやく、声で。


 次は——。


 次こそは、紙の上ではなく。




 その夜、屋根裏の小部屋で、アヤはインク壺の蓋を開けた。


 マルタ院長からもらった白鳥の羽ペン。三年使い続けて、先端を何度も削り直した。最初の頃の繊細な白は失われ、手垢で薄茶色に変わっている。けれど握った瞬間の感触だけは変わらない。掌に吸いつくような軽さ。


 紙の切れ端を引き出しから取り出した。三年前の夜——初めて封書の件を記録した、あの紙切れの隣に重ねてきた覚書の束。日付と、気づいたこと。帳簿の違和感を、一つずつ書き溜めてきた。


 今夜、書き加えるのは二つだ。


 一つ目。書斎の棚に二冊目の帳簿があること。同月・同取引先の数字が食い違っていること。表の帳簿は利益を低く偽装していること。


 二つ目。辺境の商隊が品質管理を始めたこと。一袋ごとの品種・産地・等級記録の導入。ヴェーバー商会の帳簿にはこの等級記載がなく、上等品と並品の単価差を利用した不正が可能であること。


 書き終えて、ペンを置いた。


 覚書の束を手に取り、最初の一枚——十歳の夜に書いた記録を読み返す。子どもの字だ。今の自分よりずっと拙い。けれど事実は正確に記されていた。日付、荷受け内容、封書の宛先、紋章の形状、花押の特徴。


「花押。ルーカス・フォン・ノルトハイム。不格好だが丁寧。右上がりの癖。末尾のにじみ」


 三年前のわたしが書いた言葉を、十三歳のわたしが読んでいる。


 文字は時間を越える。自分の文字でさえも。


 覚書の束をインク壺の底に戻し、蓋を閉めた。マルタ院長の紙片——「言葉は翼。どこへでも飛んでいけます」——が、壺の底で一番下に沈んでいる。


 どこへでも飛んでいける。


 なら、この矛盾を正しい宛先に届けることもできるはずだ。


 でも、今はまだ。


 アヤは蝋燭の炎を見つめた。小さな火が揺れるたび、壁に影が踊る。帳簿の数字、二冊目の表紙、ヴェーバーの汗ばんだ指、金の指輪、辺境の旗、髭面の男の笑顔、「自分の足で見ないと気が済まない御方」——。


 声を上げるべきだ。


 けれど声を上げれば、この屋根裏も、毎日のインクの匂いも、帳簿を開くささやかな日常も、全部なくなる。奉公先を追われた孤児に帰る場所はない。マルタ院長の孤児院にも、もう戻れない。


 怖い。


 その感情を、十三歳のアヤは正確に認識していた。怖い。ただ怖いのだ。正しいことを知っていても、それを口にする勇気がない。


 蝋燭を吹き消して、寝台に横たわった。


 目を閉じると、今日の市場で見た辺境商隊の旗が浮かんだ。北の山脈を意匠にした紋章。その旗の下で、あの少年は今日も領地を歩いているのだろう。不正のない帳簿を、一袋ごとの正確な記録を、自分の手で作ろうとしている。


 アヤは暗闇の中で、右手の指を曲げた。ペンを握るときの形に。


 まだ書けない。宛先が決まらない。


 けれど言葉は、もう頭の中で並び始めていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


アヤが二冊目の帳簿を見つけるシーン、最初はもっとドラマチックに書こうとしたんですが、途中でやめました。不正に気づく瞬間って、実際にはすごく地味なんですよね。棚の本を取ろうとして、隣に似た本がある。開いてみたら数字が違う。たったそれだけ。でもそのたったそれだけが、三年分の違和感と一気に繋がる瞬間の衝撃は、派手な演出より静かに書いたほうが伝わると信じています。


アヤが不正の構造を論理的に組み立てられるのは、前世の校正者スキルの発露です。ただ本人は「なぜこんな発想ができるのか」を不思議に思っているだけで、前世とは結びつけていない。この「自分の能力の出自を知らない」状態が、わたしは結構好きです。


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