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異世界手紙屋の代筆帖  作者: 歩人


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6/10

第6話: 手紙の主

 馬車が三台、朝靄の中を王都の石畳に滑り込んできた。


 先頭の馬車に掲げられた旗を見たとき、アヤの呼吸が一拍だけ抜け落ちた。北の山脈を意匠にした紋章——ノルトハイム辺境公爵家の旗だ。


 届いた。




 手紙を郵便馬車に託してから、二十三日が経っていた。


 その間、アヤは何事もなかったかのように帳簿をつけ、伝票を写し、在庫を数えた。夜、屋根裏の小部屋で蝋燭を灯すたび、ペンを持つ指の腹に余計な力がこもっていた。手紙は届いただろうか。読まれただろうか。それとも書簡の山に埋もれて、辺境のどこかの書庫に眠っているのだろうか。


 そして二十三日目の朝——倉庫の荷受け作業で裏庭に出たアヤの目に、辺境公爵家の旗が映った。


 馬車は三台。先頭は公爵家の紋章入り、二台目と三台目には王都の衛兵が同乗している。ヴェーバー商会の前で停まり、馬車の扉が開いた。




 最初に降りたのは書記官風の男。次に衛兵が二人。三人目に降り立った人物を見た瞬間、アヤの足が砂利の上で固まった。


 背が高い。灰銀色の髪を後ろで束ね、深紺のマントを羽織った青年。年はアヤより五つほど上に見えた。整った顔立ちだが、目の下にうっすらと隈がある。


 深い青灰色の瞳が、裏庭にいるアヤの方を一瞬だけ掠めた。


 知らない顔だった。見覚えはない。けれど胸の奥で、何かがちりと鳴った。蝋燭の芯に火が移る瞬間のような、かすかな反応。


「——失礼、ヴェーバー商会はこちらか」


 穏やかで落ち着いた低い声。応対に出た使用人頭のカールに向かって、青年は名乗った。


「私はルーカス・フォン・ノルトハイム。辺境公爵家の名代として、商会主人に面会を求めたい」


 名乗りを聞いた瞬間、アヤの全身から血の気が引いた。


 ルーカス。


 あの手紙の——宛先。


 来たのだ。本人が。手紙を読んで、自ら王都に。




 カールが慌てて屋敷の中に走り込み、数分後、ヴェーバーが正面玄関に現れた。寝間着の上に急いで上着を羽織った格好で、額にはすでに汗が浮いている。


「これはこれは、辺境公爵閣下。まさかご本人がお越しとは——事前にお知らせいただければ、それ相応のお迎えを」


「突然の訪問を詫びる。だが急を要する件でね」


 ルーカスの声には穏やかさの奥に、鉄を思わせる硬さがあった。笑顔はない。かといって敵意を露わにしているわけでもない。ただ——表情が読めない。


 アヤは裏庭の柱の陰に身を寄せ、耳を澄ませた。


「私の手元に、ある書簡が届いた。ヴェーバー商会の帳簿に重大な不審がある、という内容だ」


 ヴェーバーの頬が引きつった。金の指輪をはめた右手が、無意識に上着の襟を掴む。


「不審と申されますと……?」


「二重帳簿の存在。辺境産穀物の等級偽装。さらに関税の分割申告による免税枠の不正利用。書簡には具体的な数字と品目が記されていた」


 一言ごとに、ヴェーバーの顔色が変わっていくのが裏庭からでも見えた。赤から白へ、白から土色へ。


「そ、そのような——根も葉もない。誰がそんな出鱈目を」


「出鱈目かどうかは、帳簿を確認すればわかる」


 ルーカスが軽く顎を引くと、同行の書記官が前に出た。


「王都税務署の協力のもと、帳簿の任意提出をお願いしたい。もちろん、拒否される場合は正式な差し押さえ令状を手配するが——その場合は時間がかかる。お互いにとって、任意のほうが穏便かと」


 穏便、という言葉とは裏腹に、衛兵が二人、玄関の両脇に立っていた。




 ヴェーバーが書斎に案内する間、アヤは裏庭の木箱の上に座ったまま動けなかった。膝が笑っている。


 手紙が届いた。読まれた。しかも本人が調査に来た。二十三日前に送り出した言葉の翼が、辺境の山脈を越えて、王都に嵐を連れてきた。


 何よりも、ルーカスという人間を、初めて目で見た。花押から想像していたよりも穏やかで、静かで、けれど言葉に芯があった。「出鱈目かどうかは、帳簿を確認すればわかる」——あの一言に、感情も怒りもなかった。ただ事実を確認するという意思だけ。


 不格好だが丁寧。花押から感じた印象は、声にもあった。




 一刻ほどが過ぎた。


 屋敷の中から怒鳴り声が聞こえた。ヴェーバーの声だ。何を叫んでいるかは聞き取れないが、甲高い声が壁を透かして漏れてくる。


 その後、沈黙。


 さらに半刻。書斎の窓が開き、書記官が顔を出した。


「帳簿係のアヤという者はいるか」


 名前を呼ばれた。


 アヤの背筋が凍った。なぜ自分の名前が。告発の手紙に署名したからだ。当然、調査の過程で名前が出る。分かっていたはずだ。分かっていたのに、実際に呼ばれると足がすくんだ。


「……はい」


 声が出た。自分でも驚くほど平静な声だった。いつもの奉公人の声。「はい、ヴェーバーさま」と四年間答え続けてきた、あの声。


「書斎に来てくれ。帳簿の確認で質問がある」




 書斎に入ると、空気が張りつめていた。


 大机に帳簿が積まれている。表の帳簿と、棚の奥から引きずり出された裏の帳簿。ヴェーバーは椅子に座ったまま、灰色の顔で宙を見つめている。


 その向かい側に——ルーカスが立っていた。近くで見ると、穏やかさの奥にある硬さがはっきり表に出ている。青灰色の目が帳簿の数字を追い、時折ヴェーバーを一瞥する。統治者が事実を確認するときの目だ。


「君がアヤか」


 ルーカスがアヤの方を向いた。


「はい」


「帳簿係を四年務めたと聞いている。この二冊の帳簿について、知っていることを話してもらえるか」


 公務の口調だった。命じているのではなく、頼んでいる。「話してもらえるか」に強制の色がない。


 アヤは一つ息を吸い、表の帳簿を指した。


「わたしが記帳していたのは、こちらです。もう一冊は昨年の棚卸しの際に発見しました。同月・同取引先の数字が食い違っています。例えばこの仕入れ——表では銀リテル百二十枚ですが、もう一冊では八十五枚です」


 淡々と話した。数字と事実だけを並べる。前世の校正者の癖が、ここでも発動していた。


 ルーカスは黙って聞いていた。時折、小さく顎を引いて聞いている。


「等級の偽装についても説明できるか」


「はい。ノルトハイム辺境産の穀物は出荷時に等級が伝票に記載されているはずですが、当商会の帳簿では等級の項目が省かれています」


「辺境の伝票の記載方式を知っているのか」


「昨年の穀物市で、ノルトハイムの商隊の方に伺いました」


「……なるほど」


 「……なるほど」。何かを噛みしめるような響きだった。


 ヴェーバーが椅子の上で身じろぎした。


「この……小娘が、勝手に帳簿を見たんだ。書斎の鍵は私が管理しているのに、盗み見て——」


「ヴェーバー殿」


 ルーカスの声が、静かに遮った。怒鳴ったのではない。声量も変わっていない。ただ、言葉の温度が一段下がった。


「帳簿の不審は確認された。これ以上の言い逃れは、立場を悪くするだけだ。今後は王都税務署の正式な調査に移行する」


 四年間「まあまあ、そう堅いことを言わずに」と笑っていた男の口が、金魚のように開閉して、結局何も出てこなかった。




 調査は昼過ぎまでかかった。


 アヤは書斎の隅に立ったまま質問に答え続けた。すべて正直に答えた。十七枚の紙片のことも。インク壺の二重底に隠していたことも。


 紙片を机の上に並べると、ルーカスがその一枚——十歳の夜に書いた最初の記録——を手に取った。


「これは……四年前のものか」


「はい。奉公に来た年に書きました」


「十歳で、この記録を」


 独り言のようだった。紙片を見つめるルーカスの横顔に、何かを思い出そうとしているような翳りがあった。いや、アヤの側に都合のいい解釈かもしれない。


 ルーカスは紙片を書記官に渡し、アヤの方を向いた。


「帳簿係のアヤ——いや」


 一瞬、言葉が途切れた。ルーカスの目がアヤの顔を見て、それから手元に——インクで黒ずんだ右手の指先に落ちた。


「この手紙を書いたのは、君か」


 「私」ではなく——気のせいかもしれないが、語尾のどこかに、公務の枠からはみ出した響きがあった。


「……はい」


「読んだ。冒頭から最後の一行まで」


 ルーカスが一度だけ、目を伏せた。


「花押のことを書いていたな。四年前に見た花押が不格好だったと」


「不格好だが丁寧だった、と書きました」


 訂正は無意識だった。言ってから、しまった、と思った。公爵閣下に対して訂正する立場ではない。


 けれどルーカスは——ほんのわずか、口元が動いた。笑ったのかどうか、アヤには判別できなかった。あまりにかすかな変化で、瞬きの間に消えた。


「……なるほど。不格好だが丁寧、か」


 二度目の「なるほど」だった。今度は言葉の温度がさっきまでと全く違っていた。氷でも鉄でもない。静かに温い何かだった。


 それから、ルーカスは書記官の方を向いた。


「帳簿の精査は税務署に任せる。——ただ、一つ頼みがある」


「何でしょう」


「この手紙を書いた人間と、少し話がしたい」


 話がしたい。公務として「公爵家が受領した告発状」を扱うのではなく、自分が読んだ一通の手紙の書き手に、と聞こえた。


 書記官は一瞬戸惑ったように眼鏡を押し上げたが、やがて小さく頷いた。




 使用人たちが帳簿の梱包に追われる中、アヤはルーカスに連れられて商会の裏庭に出た。井戸の横の古いベンチに、ルーカスが腰を下ろす。


「座ったらどうだ」


 ベンチの端に腰を下ろす。ルーカスとの間に、大人一人分の隙間がある。


「あの手紙の冒頭——花押のくだりだが」


 不意に口を開いた。


「あれを読んで、俺は——」


 止まった。唇が一度閉じられ、開き直される。


「私は、あの文章を書いた人間に会いたいと思った」


 言い直した。「俺」を「私」に。けれど一瞬だけ、剥き出しの一人称が漏れたことを、アヤは聞き逃さなかった。


「冒頭の三行で分かった。この手紙を書いた人間は、数字だけで告発しているのではない。相手を見て、信じて、その上で書いている」


 ルーカスがアヤの方を向いた。正面から。


「十四歳で、あの手紙が書けるのか」


 問いかけというよりも確認だった。自分の目で確かめなければ気が済まない人——商隊の男が言っていた通りだ。自分の足で見に来る。


「わたしは……ただ、本当のことを書いただけです」


「本当のことを書くのは、簡単ではない。事実を、届く形にして、届く相手に、届く言葉で書くのは——」


 言葉を探している。この人は口下手なのだ、とアヤは思った。


「……悪くない」


 出てきたのは、それだけだった。短い一言。それがこの人の最上級の賛辞だと、アヤには分かった。花押の筆跡から感じたものと同じだ。飾らない。けれど嘘がない。


「——あの。花押を……あれから直されましたか」


 聞いてはいけない質問だった。公爵閣下の署名の出来栄えを、十四歳の奉公人が問うなど。


 けれどルーカスは——口の端が持ち上がった。小さく、かすかに、けれど確かに笑ったのだ。


「母に同じことを言われる。もう少し見栄えよく書けと」


「花押は、その人の字です。上手い下手ではなく、正直かどうかが大事だと——わたしは思います」


 言い切ってしまってから後悔した。公爵閣下に向かって花押の講釈をしている。十四歳の孤児が。


 ルーカスは何も言わなかった。ただ、青灰色の瞳が、ほんの一瞬だけ温かさを帯びた。




 書記官が裏庭に顔を出し、帳簿の梱包が終わったことを告げた。ルーカスはベンチから立ち上がった。


「アヤ」


 名前を呼ばれた。「帳簿係のアヤ」ではなく、ただ「アヤ」と。


「この後、ヴェーバー商会には税務署の正式調査が入る。つまり——」


「はい。わたしは、ここにはいられなくなります」


「……分かっているのか」


「手紙を書いた時点で、覚悟していました」


 ルーカスの目がアヤの手元に落ちた。インクの染みだらけの右手。何か言いかけて——しかし音にはならなかった。


 代わりに、懐から一枚の紙を取り出した。


 アヤの手紙だった。麻紐と蜜蝋で封をした、あの手紙。すでに開封されているが、麻紐はきれいに解かれ、蜜蝋の百合の封印は割れずに残っていた。


 丁寧に、開けたのだ。


「この手紙は返す。君が書いたものだ」


「……え?」


「証拠としての写しは取ってある。原本は書き手に返すのが筋だ」


 手紙がアヤの前に差し出された。


 受け取った。紙の感触が指に伝わる。自分が書いた言葉。自分のインクの匂い。辺境の山脈を越えて、読まれて、ここに戻ってきた。


「もう一つ」


 ルーカスが振り返った。門へ向かう足を止めて。


「花押の件だが——不格好だが丁寧、というのは」


 間があった。


「……悪くない評価だと思った。誰にも言われたことがなかったのでな」


 それだけ言って、ルーカスは歩き出した。深紺のマントが冬の風に揺れる。門をくぐり、馬車に乗り込む。


 ノルトハイム辺境公爵家の旗を掲げた馬車が、石畳の上を滑るように去っていく。




 馬車が角を曲がって見えなくなっても、アヤは裏庭に立ったままだった。


 手の中に、自分の手紙がある。花押のことを「悪くない評価だと思った」と漏らした人の声が、耳の中で反響する。


 五歳のとき、石碑の前で会った少年。そのことに——アヤはまだ気づいていなかった。あの日、文字をなぞる自分の隣にいた男の子と、今日手紙を返してくれた青年が同じ人間であることに。


 九年の歳月が、五歳の記憶を霧の奥に沈めている。


 ただ、胸の奥で何かが鳴り続けていた。蝋燭の芯に火が移ったときの、あの、ちり、という音。




 裏庭の反対側で、衛兵に取り囲まれたヴェーバーが、アヤの方を見ていた。


 灰色の目が、暗く燃えていた。


「孤児風情が……余計なことを……!」


 その声は震えていた。怒りか、恐怖か。おそらくその両方だった。


 アヤはその視線を正面から受け止めた。萎縮しなかった——とは言えない。膝は震えていたし、胃の底がきゅっと縮んだ。けれど手紙を握る右手だけは、震えていなかった。


 わたしは、本当のことを書いただけです。


 その言葉を、声には出さなかった。代わりに、手紙を胸に抱えて、一つだけ深く頭を下げた。


 四年間の奉公への、最後の礼だった。




 その夜、屋根裏の小部屋で荷物をまとめながら——持ち物は小さな鞄一つに収まった——アヤは返された手紙を広げた。


 自分の字だ。黒インクで一字一字丁寧に書いた、冒頭の三行。


 閣下の花押を、四年前に一度だけ拝見したことがございます。


 その紙面の隅に、何かの折り目がついていた。アヤが折ったのではない。三つ折りにして送ったのだから、折り目は三本のはずだ。


 けれど冒頭の段落——花押について書いた部分の端に、もう一本、小さな折り目が増えていた。


 誰かがこの部分を開いて、もう一度読み返した跡だった。


 アヤは手紙を胸に当てた。


 蝋燭の炎が揺れる。明日からの宿も、仕事も、何も決まっていない。商家を追われた十四歳の孤児に、帰る場所はない。


 けれど手の中に、一通の手紙がある。


 読まれた手紙が。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


ルーカスの一人称、書いていてすごく楽しかったです。公務だから「私」で通すつもりなのに、アヤの手紙の話になると「俺」が一瞬だけ漏れる。本人は多分気づいていない。でもアヤは聞き逃さない。この子は言葉のプロなので、一人称の揺れなんて絶対に拾います。


手紙を丁寧に開封していた描写は、ルーカスの性格を一番よく表していると思っています。蜜蝋の百合の封印を割らずに残していた。粗末な封だと笑わずに、一通の手紙として敬意をもって扱った。花押が正直な人は、手紙の扱いも正直なんですよね。


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