68 馬車の故障
68 馬車の故障
最後の宿場町まであと少し、というなだらかな下り坂にさしかかった時のことだった。
一行を乗せて軽快に走っていた馬車が、前触れもなく大きく右に傾き、激しく揺れた。
「わっ……!?」「きゃっ!」
ガタンッ! ──ゴトゴト、と下腹部に響くような鈍い衝撃音が周囲に響き渡る。
危険を察知した馬たちが驚いていなないた。
馭者が必死の形相で手綱を強く引き絞る。
「どうどう! 右へ向け! 右!」
しばらくの緊迫した時間の後、馬たちは何とか興奮を収め、ふうふうと荒い息を吐きながらその場に立ち止まった。
馬車の傾きも治り、乗客の緊張の糸が、ふっと緩む。
「どうしました……!? 大丈夫ですか?」
ケイトが馬車の窓からひょっこりと顔を出し、外の様子を窺った。
馭者は額の汗を拭いながら、力なく苦笑いをして頭を掻いている。
「いやはや、参りました……どうやら、車輪が外れてしまったようです」
「何だって?」
マイクもケイトに続いて馬車から飛び降り、車輪の様子を覗き込んだ。
外れた左後輪は、ただピンが抜けたというレベルではない。車体を支える木製の車軸そのものが、ねじ切られるようにして無残にひび割れていた。応急処置のロープや添え木でどうにかなる状態では到底なかった。
「これは……ここで直せそうか?」
マイクが尋ねると、馭者は申し訳なさそうに肩を落とした。
「……申し訳ありません。予備の部品でもあれば別ですが、軸ごと新しい部材を取り寄せ、削り出さなければ無理ですな……」
そう言って、馭者は日差しを手で遮りながら周囲を見回した。
「ですが、幸いなことにこの先の街道を少し外れたところに、小さな村があります。そこの鍛冶屋と木工職人に修理を頼みましょう」
馬車の中に残っていた大使も、窓から壊れた車軸を眺め、静かにため息をついた。
「宿まではあとほんの少しだったのですが……自然が相手では仕方ありませんね。怪我がなかっただけでも儲けものです」
がっかりした空気になりかけたその時、ケイトが弾んだ声で言った。
「ふふ、旅って、こういう予想外のことがあるから面白いんですよね!」
その屈託のない笑顔と前向きな言葉に、馭者は救われたように表情を和らげた。
「お優しい言葉、ありがとうございます。そう言っていただいて救われました」
一行は馬車から、今夜必要になる最低限の荷物だけを降ろした。
馭者と護衛に馬車を任せ、ケイト、マイク、そして大使の三人は、歩いて近くの村へと向かうことにした。
森のなかの小さな村まで、乾いた土の道を二十分ほど歩いた。
木々の隙間から、ぽつりぽつりと素朴な三角屋根が見え始め、森に囲まれた小さな村が姿を現した。
レンガ造りの煙突からは、夕餉の準備を知らせるような白い煙がのどかに立ちのぼっている。
広場では、子供たちが元気な声を上げて木の枝を剣に見立てて走り回っていた。
「わあ……なんだか、すごくあったかそうな村だね」
ケイトが目を細めて周囲を見渡す。家々の窓辺には素朴な乾草が飾られ、歩いている大人たちも、見慣れない旅人である彼らに対して警戒する風でもなく、穏やかに会釈を返してくれた。
「ああ。人ものんびりしてそうだ。王都の喧騒とは正反対だな」
マイクも荷物を背負い直しながら、心地よさそうに目を細めた。
この村には旅人が泊まるような宿屋はなかったため、交渉の末、親切な村長の家に泊めてもらうことになった。
翌朝、鍛冶屋が馬車の車輪を調べに行ったが、泥のついた頑丈な手で車軸を触ると、すぐに困ったように首を横に振った。
「ううむ、こりゃひどい。軸の芯まで完全に割れちまってる。新しい頑丈な木を切り出して、乾燥させてから組み直さなきゃならんぞ」
「……どれくらいかかりますか?」
大使が心配そうに尋ねる。
「そうだな……どんなに急いでも三日はかかる。手抜きをして、途中でまた壊れたら命に関わるからな」
「三日ですか……」
大使は一瞬、予定表を頭に浮かべるようにして少し考え込んだ。しかし、すぐに柔らかい笑みを浮かべて肩の力を抜いた。
「わかりました。では、この村でしばしの休養といたしましょう。せっかくの美しい村です、急いでも仕方がありません」
「はい! 私も賛成です!」
ケイトが嬉しそうに大きくうなずくと、マイクも小さく笑って同意した。
窓から差し込む明るい朝日に目を覚ましたケイトとマイクは、朝食を済ませると、村の周囲を散策してみることにした。
一歩森へ入ると、静謐な空気が二人を迎えた。
高くそびえる木々の隙間から、柔らかな木漏れ日が幾筋もの光の帯となって、苔むした地面を黄金色に照らしている。
冷たく澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、ケイトは「ふう」と深い息を吐き出した。
「気持ちいいね……! 肺の中が全部綺麗になるみたい」
「ああ。北へ来るほど、空気がピリッと澄んでいくのがわかるな」
季節は冬の入り口、森の木々は葉を落とし一見すると殺風景な景色だが、どこか優しく、静かな美しさに満ちていた。
頭上からは、名前もわからない小さな鳥たちが、愛らしい声でさえずる声が聞こえる。
リンベルは、まるでお気に入りのメロディを見つけたかのように、すまして小鳥たちのそばをふよふよと飛び回り、楽しそうに鳴き声に合わせて揺れていた。
「マイク、見て!」
ケイトが声を潜め、人差し指を口元に当てながら木の上を指差した。
そこには、ふさふさとした栗色の毛並みをしたリスが、体ほどもある大きな木の実を両手でしっかりと抱え、丸い目でじっと二人を見つめていた。
「可愛い……」
ケイトが一歩近づこうとした瞬間、リスは驚いたように木の実を抱えたまま、目にも留まらぬ速さで幹の裏へと隠れてしまった。
「あはは、逃げちゃった」
「驚かせちまったな。でも、冬の準備に忙しいんだろう」
二人は顔を見合わせ、笑いながら、落ち葉を踏みしめる音を伴奏にして、森の小道をゆっくりと歩き続けた。
道中、サラサラと耳に心地よい音を立てる小川を見つける。
かがみ込んで覗き込むと、底の小石までくっきりと見えるほど透き通った水の中を、数匹の小さな魚が影を落としながら楽しそうに泳いでいた。
二人はどちらからともなく顔を見合わせ、ただそれだけの光景に、心の底から満たされたような笑みをこぼし合った。
その日の午後は、村はずれの小高い丘にひっそりと佇む、古い教会を訪れた。
幾星霜の風雪に耐えてきたのであろう石造りの小さな建物は、まるで自然の一部としてそこに溶け込んでいるようだった。
マイクが重い木製の扉に手をかけ、ゆっくりと押し開ける。
ギィィ……と低い音が響き、中に入ると、外の空気より一段とひんやりとした静寂が二人を包み込んだ。
高い位置に設えられた窓から、午後の斜光が真っ直ぐに差し込み、埃の粒子をキラキラと輝かせながら祭壇を照らしている。
長い年月の間に色あせてしまったステンドグラスを通した光が、石畳の床に赤や青の淡い色彩のモザイクを落としていた。
「きれい……」
ケイトは胸の前で手を組み、思わず吐息のような声を漏らした。
説教をする者も、祈りを捧げる信徒も今は誰もいない。ただ、自分たちの静かな足音だけが、高い天井に吸い込まれていく。
祭壇の脇に立つと、そこには木彫りの古びた聖人像が置かれていた。
角が丸くなり、手の部分は擦り切れている。何百年もの間、この村の人々の喜びや悲しみを見守り、触れられてきた歴史が、言葉にせずとも伝わってくるようだった。
「ずいぶん古いね、この教会」
「そうだな。もしかしたら、王都が形作られるよりもずっと前から、ここに佇んでいるのかもしれない」
マイクが祭壇の上の、端が茶色く擦り切れた古い祈祷書を見つめながら言った。
その時、奥の小部屋から、足を引きずるような静かな足音が近づいてきた。
現れたのは、深い皺を刻んだ穏やかな目元が印象的な、年配の神官だった。
「おや、旅のお方ですかな」
「あ……はい。突然お邪魔してしまって、すみません。実は馬車が壊れてしまいまして、この村にお世話になっているんです」
マイクが少し恐縮しながら答えると、神父は深く、温かい笑みを浮かべた。
「おや、それは災難でしたな。ですが……急ぐ旅人ほど、時には立ち止まる時間が必要なものですよ」
「立ち止まる時間……ですか?」
ケイトがその言葉をなぞるように呟く。神父は優しくうなずいた。
「ええ。神様は時折、あまりに急ぎすぎる人を休ませるために、こうして予定を変えてしまうことがあるのです。ただ前だけを見て走っていては、見落としてしまう大切なものがたくさんありますからな」
神父の言葉は、乾いた砂に水が染み込むように、ケイトの心に深く温かく染み渡っていった。
教会を後にする頃には、冬の早い入り日が、空を燃えるような茜色に染め上げていた。
「最初は、三日も足止めかぁ、なんて思っちゃったけど……」
ケイトが茜色の空を仰ぎ見ながら、ぽつりと言った。
「悪くなかったね」
「ああ、本当にそうだな」
マイクも歩幅を合わせながら、深くうなずいた。
「王都へ急いで駆け抜けるだけじゃ、絶対に気づかなかった景色だ。あのリスも、小川の魚も、この夕日もな」
二人は影を長く引きずりながら、家々から夕食のいい匂いが漂い始めた夕暮れの村を、一歩一歩確かめるようにゆっくりと歩いて村長宅へ戻った。
翌日は、村長の奥様に誘われ、カゴを片手に森へキノコ狩りに出かけた。
どれが食べても安全か、どれが毒キノコか、奥様の賑やかなお喋りを聞きながら夢中でカゴをいっぱいにした。
その日の夕食のテーブルには、自分たちで採った風味豊かなキノコのソースがたっぷりとかけられた黄金色のふわふわなオムレツが並んだ。口に運ぶたび、豊かな秋と冬の香りが広がった。
車輪の修理が終わるまでの三日間。
彼らはただ、森を散策し、村の人々と他愛のない言葉を交わし、古い教会で静かな祈りの時間を過ごした。
それは、旅の計画には一文字も書かれていなかった、まったく予定外の足止めだった。
けれど、二人の旅の記憶のアルバムの中で、どんな名所旧跡よりも優しく、心に残る穏やかな三日間となったのだった。




