第7話「夜道の悲鳴」
夜の王都を歩くべきではなかった。
古書店で閉店間際まで粘ってしまったのが敗因。百年前の住民台帳を探していて、気がついたら窓の外が真っ暗になっていた。
「お嬢様、暗いですね! 冒険みたい!」
「冒険じゃないの。帰り道よ」
「でもなんだかわくわくします!」
ピッピは夜道すら楽しんでいる。鈍感力が本領を発揮している。
私はといえば、両手で自分の腕を抱きしめて、一歩ごとに周囲を確認していた。油断すると視界の端に半透明の何かが映る。夜は——夜は、昼よりも多いのだ。幽霊が。
「リーゼロッテ、そんなにきょろきょろするな。逆に不審だぞ」
「不審でもいいの。見たくないものを見たくないの」
「お嬢様?」
「何でもないわ」
石畳の通りを急ぎ足で進む。街灯の蝋燭が等間隔に並んでいて、その光と影の間を歩くたびに、明暗が顔を交互に撫でていく。蝋の焦げるにおいが鼻にまとわりつく。
大通りを抜けて、屋敷に続く近道の路地に入ったときだった。
冷気。
ハロルドのものとは違う。もっと鋭くて、もっと重い。
路地の奥——街灯の光が届かない暗がりに、何かがいる。
半透明ではない。むしろ、影より暗い。闇のなかに、さらに濃い闇がわだかまっている。
「ハロルドさん——」
「分かってる。あれは俺やパン屋のおばさんとは違う」
ハロルドの声が、初めて硬くなった。
闇が、動いた。
ゆっくりと、こちらに向かって。
人の形をしているけれど、顔がない。顔があるべき場所が、のっぺりと平らで、そこだけ壁の色が透けて見える。
足がない。腰から下がぼやけて、地面すれすれを滑るように移動している。
「ひ——」
声が出ない。喉が凍りついている。足が動かない。全身の毛穴から冷や汗が噴き出して、膝ががくがくと震える。
前世のホラー映画で、「逃げないヒロインが信じられない」と思っていた。今なら分かる。怖いと体が動かないのだ。本当に。
闇が、三メートルまで近づいた。
「——ぎゃああああああああッ!!!」
出た。絶叫。人生最大級の悲鳴。
路地の壁に反響して、通りに響き渡り、王都の夜空に突き抜けていく。
「何事だ!」「悲鳴か!」「誰か襲われてるのか!」
大通りにいた通行人たちが一斉に路地に駆けつけてくる。松明を持った夜回りの兵士まで来る。
闇の——あの顔のない影は、人が集まった瞬間にすっと消えた。複数の人間の気配に耐えられなかったのか、あるいは見られることを嫌ったのか。
「お嬢さん、大丈夫ですか! 何がありました!」
兵士が松明をかざして路地を照らす。当然、何もいない。半透明の何かも、闇の塊も、普通の人には見えない。
「あの、えっと——」
「お嬢様が虫を見たんです!」
ピッピが明るい声で割って入った。
「虫じゃない!」
「大きい蛾が顔の近くを飛んで、びっくりしちゃったみたいで! すみません、お騒がせしました!」
ピッピが兵士たちに深々とお辞儀する。兵士たちは顔を見合わせて、「なんだ、虫か」「驚かすなよ」とぶつぶつ言いながら散っていく。
「虫じゃないの! おじいさんが——じゃなくて、何かが——」
「お嬢様、路地には何もいませんよ? 蛾ならもう飛んでいきましたし」
「蛾じゃないってば! もっと怖い——あの、顔がなくて——」
「顔がない蛾ですか? 珍しい蛾ですね!」
違う。全然違う。でもこの子には何も見えていないし、何も感じていないのだから、説明しようがない。
「リーゼロッテ、落ち着け。あれはもういない」
ハロルドの声が耳元で響く。冷たいけれど、今はその冷気がむしろ安心する。知っている冷たさだから。
「あれ、何だったんですか」
「悪霊だ。未練を持った浮遊霊が歪んで、負の感情だけが残ったもの。俺も騎士時代に噂は聞いたことがある。まさか本物を見るとは思わなかったが」
「見たくなかった……」
「大丈夫だ。ああいう手合いは人が多い場所が苦手だ。お前の悲鳴で人が集まって、消えたんだろう」
私の悲鳴が結果的に身を守った。自分の怖がりに救われるとは思わなかった。
「お嬢様、顔色が悪いです。早く帰りましょう! 温かいお茶を淹れますね!」
ピッピが私の手を引く。温かい。人間の手は温かい。当たり前のことが、今夜はとてつもなく有り難い。
「あの——ピッピ」
「はい!」
「……ありがとう。虫ってことにしてくれて」
「虫じゃなかったんですか?」
本気で聞いてる。この子は本気で蛾だと思っている。
「……虫よ。大きい蛾。怖かった」
「蛾、怖いですよね! 私も子供のときは苦手でした! でも大丈夫です、お嬢様。私が追い払いますから!」
蛾は追い払えても幽霊は追い払えない。でも、その気持ちだけで十分だ。
屋敷に帰って、ピッピが淹れてくれた温かいカモミールティーを飲む。カップを両手で包む。人間の温度が、指先から戻ってくる。
「ハロルドさん」
「ん?」
「今日のあれ——悪霊。また出ますか」
「分からん。だが、お前は霊を引き寄せやすい体質のようだ。浮遊霊だけじゃなく、ああいうのも寄ってくるかもしれない」
「最悪じゃないですか」
「祓魔師に相談したほうがいい。あの銀髪は腕が立つ。俺を祓おうとしたとき、あの聖印の光——あれは本物だった」
アルヴィンの銀板を取り出す。月明かりに銀が光って、一瞬あの聖印の光を思い出す。
「……明日、教会に行きます」
「そうしろ。怖がりのお前に、あの手の化け物は荷が重い」
「全部荷が重いんですけど。幽霊も祓魔師もピッピの鈍感力も」
「ピッピは荷じゃないだろ」
「鈍感力のフォローが大変なの!」
カモミールの湯気が鼻先を撫でる。甘い、穏やかなにおい。
今夜は——眠れるだろうか。
目を閉じると、あの顔のない影がちらつく。
「お嬢様、おやすみなさい! 何かあったら呼んでくださいね! 蛾が出ても私が退治します!」
蛾じゃないんだけど。
でも——うん。ありがとう、ピッピ。
「ハロルドさん、今夜は近くにいてください。三メートルじゃなくて、もう少し近くで」
「……いいのか?」
「怖がりが怖いものに囲まれてるときは、知ってる怖いもののそばがいいの」
「知ってる怖いもの、か。出世したな、俺」
「出世じゃないです。消去法です」
燭台の炎が揺れる。ハロルドの冷気が足元に忍び寄る。
怖い夜だった。
でも、ひとりじゃなかった。




