第6話「鈍感な侍女」
新しい侍女が来た。
名前はピッピ・ローゼンタール。十九歳。栗毛のおさげ。そばかすの散った丸顔に、いつもにこにこ笑っている。
断罪の件で前の侍女たちが全員辞めてしまい(悪役令嬢に仕えていたら自分まで巻き添えを食うと思ったらしい)、新たに雇い入れた子だ。田舎の騎士家の三女で、王都に出てきたばかりとのこと。
「リーゼロッテ様、お茶をお持ちしました!」
「ありがとう、ピッピ」
「今日は特別にクッキーもつけてみました! 厨房のおばさんに教わって焼いたんです!」
元気がいい。朝から元気すぎる。声量が大きい。でもハロルドの声量よりはましだ。
問題は。
「おい、この新しい侍女、俺のことが見えてないぞ」
ハロルドが、ピッピの目の前で手を振っている。半透明の手がピッピの顔の前を行ったり来たり。ピッピは微動だにしない。というか、見えていないのだから当然だ。
「ピッピ」
「はい!」
「あなた、何か変なもの感じたりしない? 冷気とか、妙な気配とか」
「冷気? いいえ。今日は春らしくて暖かいですね!」
暖かくない。ハロルドが隣にいるから室温は確実に五度は下がっている。
鈍感。圧倒的に鈍感。
「おい、俺はここにいるぞ!」
ハロルドがピッピの耳元で叫ぶ。ピッピは眉ひとつ動かさない。
「リーゼロッテ様、クッキー、ひとつ味見してもいいですか?」
「どうぞ」
「やった! あ、おいしい。自分で言うのもなんですけど」
自分で言うな。でも確かにおいしい。バターの香りが口に広がって、素朴な甘さがちょうどいい。
「ピッピ、お菓子作りが得意なの?」
「はい! 田舎では妹たちに毎日作ってました! あ、でもパイだけは苦手で、いつも底が焦げちゃうんです。えへへ」
えへへじゃない。いや、可愛いけど。
「なあリーゼロッテ。この子、本当に俺のことが見えてないのか? これだけ近くにいるのに」
「見えてないの。全員が見えるわけじゃないんだから」
「全員? 誰と話してるんですか、お嬢様?」
しまった。声に出していた。
「え、えっと——」
「壁に話しかけてますけど、大丈夫ですか?」
「壁じゃないの! おじい——騎士がいるの! ここに!」
「え? どこですか?」
ピッピが首をかしげてきょろきょろ見回す。ハロルドの真正面を見ても、何も感じていない顔。
「おじいって言いかけたな。俺はまだ二十七で死んだんだが」
「百年経ってるから実質百二十七歳でしょ」
「ひどい計算をするな!」
「お嬢様、壁と会話が弾んでますね」
「壁じゃないの!」
この状況が毎日続くことになる。
ピッピは有能な侍女だった。朝食の支度は早いし、洗濯は丁寧だし、掃除も行き届いている。
ただ、致命的な欠点がひとつ。
鈍感。
圧倒的に鈍感。
「お嬢様、お部屋がすこし寒くありませんか? 暖炉に薪を足しますね」
暖炉に薪を足しても無駄なのだ。寒さの原因はハロルドなのだ。でもそれを説明するには「幽霊がいる」と言わなければならず、言ったところで見えない人には意味がない。
「ありがとう、ピッピ」
「えへへ。あ、お嬢様。さっきからお部屋の角を見つめていらっしゃいますけど、蜘蛛でもいます?」
「蜘蛛じゃなくて幽霊よ」
「幽霊? わあ、面白い冗談ですね!」
冗談じゃない。
「お嬢様は想像力が豊かなんですね!」
想像力で片付けられた。
ハロルドが腹を抱えて笑っている。「この子、好きだな」と言っている。幽霊に好かれても嬉しくない。
「リーゼロッテ様、今日のご予定は?」
「市場に行くわ。調べたいことがあって」
「お供します! 市場、大好きなんです! 田舎にはこんな大きい市場なくて——あ、あの果物屋のリンゴ、おいしそう!」
市場に着くなり脱走しかけるピッピを捕まえつつ、本来の目的を遂行する。ハロルドの恋人エリーゼの子孫を探す手がかりを求めて、古い記録を扱う書店に行くのだ。
道中、三体の幽霊とすれ違った。通りの角に立っている老人。噴水の縁に座っている少年。路地裏から覗いている女性。
全員、半透明。全員、こちらを見ている。「見えるのか」と目が訴えている。
怖い。怖い怖い怖い。
「お嬢様、顔が真っ青ですよ? 大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫よ」
「そうですか? あ、あそこのパン屋さん、いいにおい! 寄ってもいいですか?」
大丈夫じゃないのに話を聞かない。でもこの鈍感力は、ある意味で救いかもしれない。
幽霊が見えて怯える私の隣に、何も見えなくて何も感じなくて、パンのにおいに幸せそうな顔をする女の子がいる。
この温度差が、不思議と心を軽くしてくれる。
「お嬢様! このパン、おばあちゃんの味がします!」
「そう。きっと、おいしいレシピで焼いてるのね」
ヒマワリの看板の前で、ピッピが幸せそうにパンをかじっている。マルタが焼いた黒パン。あのおばさんのレシピ。
ちゃんと、届いていたんだ。
「なあリーゼロッテ」
「なんですか」
「お嬢様? また壁と——」
「壁じゃないの!」
「あの侍女は、いいな。お前の隣に、あの子がいるといい」
ハロルドが珍しく穏やかな声で言った。
「怖がりのお前には、何も怖がらない奴が必要だ」
鈍感と怖がり。
最悪の組み合わせのはずなのに、なぜか——悪くない。
「お嬢様、もう一個食べていいですか?」
「買い食いは一個まで!」
「えーっ!」
ピッピの不満声と、ハロルドの笑い声が重なる。
片方は聞こえて、片方は聞こえない。
この奇妙な日常に、私は少しずつ慣れ始めていた。
——慣れたくはないんだけど。




