第5話「祓うか聞くか」
問題の幽霊は、教会の裏庭にいた。
修道女の格好をした若い女性。半透明。目深にフードを被って、礼拝堂の壁に背を預けるようにうずくまっている。
アルヴィンから連絡があったのは昨日のこと。銀板に刻まれた紋章を握ると、頭の中に声が響く仕組みらしい。便利だけど怖い。脳に直接届く声は怖い。
『教会に浮遊霊が出た。祓う前に見せたいものがある。来い』
来い、って。命令形か。祓魔師のコミュニケーション能力にも問題がある気がする。
「で、あれが?」
「ああ。三日前から居座っている。声をかけても反応がない」
アルヴィンが腕を組んで壁に寄りかかっている。銀髪が風に揺れて、黒い長衣の襟元から白い首筋が見える。——それはどうでもいい。
「近づいてみてくれますか、ヴァイセンブルク嬢」
「私が?」
「あなたは霊と会話ができる。私には見えるだけで、声は聞こえない」
え。
「祓魔師なのに幽霊の声が聞こえないんですか?」
「視える者と聴こえる者は別の能力です。私は前者。あなたは両方持っている」
「両方持ちたくなかった……」
「贅沢な悩みですね」
贅沢じゃない。のしかかる重荷。
深呼吸して、修道女の幽霊に近づく。ハロルドが背後から「大丈夫か?」と声をかけてきた。大丈夫じゃない。
「あの……すみません」
声をかける。修道女がゆっくり顔を上げた。
若い。十代の後半くらい。頬がこけていて、目の下に深い隈がある——幽霊にも隈ってできるんだ。
「……あなた、見えるの?」
「見えます。聞こえます」
「そう……」
修道女の目が潤む。半透明の涙が、頬を伝って消えていく。
「何年も——何年も誰にも気づいてもらえなくて——」
「何があったんですか」
「懺悔を、聞いてほしかったの」
「懺悔?」
「私、修道女なのに——好きな人がいたの。教会の外に。でも言えなくて、そのまま病で死んで——」
また恋の未練。幽霊の未練、恋率が高すぎないか。
「告白しそびれて死んだのか。俺と同じだな」
ハロルドが横から口を挟む。同類意識を持つな。
「その人に想いを伝えたいの?」
「いいえ。もう——あの人も、とうに亡くなっているわ。私が死んだのは五十年前だもの」
「じゃあ、何が未練で?」
「好きだったことを——誰かに言いたかったの。口にしたことがなくて。一度も。生きている間も、死んでからも」
声が震えている。五十年間、誰にも言えなかった秘密。
「好きだったの。パン屋のトーマスが。毎朝、教会にパンを届けに来る人で、笑顔が——すごく、温かくて——」
修道女が声を上げて泣き始める。半透明の体が揺れて、裏庭の石畳に冷気が広がる。
怖い。泣いている幽霊は怖い。でも——
「聞いてますよ」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。前世のクレーム対応スキルが発動している。人の話を聞く。遮らない。否定しない。
「好きだったんですね」
「——うん。好きだった。すごく」
「言えてよかったですね」
修道女が、泣き笑いの顔で頷いた。
その瞬間——体の輪郭が光り始める。パン屋のおばさんのときと同じ。足元から光の粒になって、昇っていく。
「ありがとう……聞いてくれて——」
声が薄れる。光が散る。裏庭に春風が吹いて、残っていた冷気を払った。
石畳に、誰もいない。
背後でアルヴィンが息を呑む気配がした。
「……成仏した」
「ええ」
「聖印も祓魔の詠唱も使わずに?」
「話を聞いただけですよ」
振り返ると、アルヴィンの銀の瞳が大きく見開かれていた。初めて見る表情。あの鉄面皮に、明確な動揺が浮かんでいる。
「……ありえない」
「何がですか?」
「浮遊霊は、祓わなければ消えない。教会の教義にそう書いてある。未練を聞くだけで成仏するなど——」
「教義に書いてなくても、目の前で起きたじゃないですか」
アルヴィンが黙った。
長い沈黙。裏庭に鳥の声が響く。祈りの鐘が遠くで鳴って、その振動が腹の底に届く。
「……クロイツさん」
「……なんですか」
「幽霊を祓うのが間違いだとは言いません。でも——話を聞いてあげるだけで救われる霊もいるんじゃないですか?」
「……」
「五十年間、好きだったって言えなかっただけなんですよ、あの人は」
アルヴィンの手が、懐の聖印を握りしめている。銀の十字架が、きつく握られて指に食い込んでいるのが見える。
「ヴァイセンブルク嬢」
「はい」
「あなたの方法は——認めたわけではありません。ただ」
「ただ?」
「……今回は、あなたの方法が功を奏した。それは認めます」
祓魔師が歯を食いしばるように言った。この人、負けず嫌いだ。
「でも全ての霊がそう簡単に成仏するわけではない。話を聞いても消えない霊、聞けば聞くほど凶暴化する霊もいる。そういう存在と対峙したとき、あなたの『聞いてあげる』は無力です」
「それは——」
「そのときは、私を呼びなさい。祓魔師の仕事ですから」
背中を向けて歩き出す。黒い長衣が翻る。
「あ、クロイツさん」
「なんですか」
「ありがとうございます。見せたいものがある、って呼んでくれて」
アルヴィンの歩みが一瞬止まった。振り返らない。
「……別に。教会の庭を勝手に冷やされて迷惑だっただけです」
嘘つき。
だって、祓えたはずだ。自分ひとりで。祓魔師なんだから。それをわざわざ私に見せたのは——
「あの銀髪、ツンデレだな」
「ハロルドさん、ツンデレって言葉どこで覚えたんですか」
「お前が寝言で言ってたぞ」
「言ってない! 絶対言ってない!」
教会を後にする。春の陽射しが暖かくて、幽霊の冷気がいない分、体が軽い。
祓うか、聞くか。
答えはまだ出ていない。でも、少なくとも今日——ひとりの幽霊が、笑って消えた。
それだけは、怖がりの私でも、悪くなかったと思えた。
一か月の猶予は、あと二十日。




