第3話「秘密のレシピ」
最初の依頼は、パン屋のおばさんだった。
市場を歩いていたときのこと。果物屋の軒先でリンゴを選んでいたら、視界の端に——いた。
エプロン姿の丸っこいおばさん。半透明。足が地面から浮いている。
「ひっ」
「どうかされましたか、お嬢様?」
隣の果物屋の店主が不審そうにこちらを見る。
「い、いえ。虫がいたかと思って」
「虫? うちの果物に虫はいませんよ」
「そうですよね失礼しました!」
早足で離れようとした。逃げればいい。見なかったことにすればいい。前世の怜奈なら絶対そうする。
「あの……」
声が追いかけてきた。細くて、少し震えていて、おばあちゃんが孫に話しかけるみたいな声。
「見えているんでしょう? お願い、少しだけ……」
足が止まった。
なんで止まるの私。なんで。行けばいいのに。怖いのに。泣きそうなのに。
「リーゼロッテ、あのおばさん——」
「分かってます」
ハロルドの声を遮って振り返る。
半透明のおばさんが、両手を胸の前で組んで、こちらを見ていた。丸い顔。柔和な目元。エプロンには粉がついている——見えるだけで、実際にはもう何もついていないのだろうけれど。
「……何か、あるんですか」
「パン屋をやっていたの。三十年間。でも孫にレシピを教える前に逝ってしまって」
「レシピ?」
「黒パンのレシピ。うちの秘伝なの。ライ麦と蜂蜜の配合が特別で——あの子に伝えたかった」
おばさんの声が途切れる。半透明の目に涙が浮かんでいるように見えたけれど、幽霊に涙があるのかは分からない。
「孫の名前は?」
なんで聞いてるの私。なんでそういうことを聞くの。関わったら怖いことになるって分かってるのに。
「マルタ。市場の東側でパン屋をやっているわ。看板にヒマワリが描いてある」
「ヒマワリの看板」
「レシピを伝えてくれたら——あの子が焼いてくれたら——私は安心して逝けると思うの」
おばさんが深く頭を下げた。半透明の体がぐにゃりとお辞儀する。怖い。透けてるお辞儀は怖い。
「わ、分かりました聞きますレシピ聞きます! だからお辞儀はやめてください透けてるから!」
路地裏に移動して、おばさんからレシピを聞く。ハロルドが隣で「いい奴だな、お前」とにやにやしていたので無視した。
「まずライ麦粉を三と小麦粉を一の割合で混ぜるの。ここに蜂蜜をたっぷり——」
問題が発生した。
メモを取りたいのに、紙がない。
「ハロルドさん、覚えられます?」
「俺は幽霊だぞ。メモを取る手段がない」
「じゃあ記憶力は?」
「百年前の戦場の配置は覚えてるが、料理の分量は自信がない」
使えない。
結局、市場の布屋で端切れを買い、炭筆を借りて必死にメモした。公爵令嬢が路地裏で炭筆を握ってパンのレシピを書き留めている図。前世の怜奈が見たら爆笑する。
「蜂蜜はアカシアのものを使ってね。花の種類で味が全然変わるから」
「アカシアの蜂蜜。はい」
「それと、焼く前に生地を一晩寝かせるの。その間、湿らせた布を被せて。乾いた布じゃだめ」
「湿った布。一晩。はい」
「最後に——」
おばさんが声をひそめた。秘伝の核心。
「焼く直前に、岩塩をひとつまみ。生地の表面にぱらっと。中に混ぜ込むんじゃなくて、表面に」
「表面に岩塩」
「そう。それでうちの黒パンの、あの皮のぱりっとした甘じょっぱさが出るの」
おばさんが満足そうに微笑む。半透明の笑顔が、午後の陽光を通している。
怖いけど——ちょっとだけ、きれいだった。ちょっとだけ。
ヒマワリの看板は、すぐに見つかった。
市場の東側、石畳の角を曲がった先。黄色いヒマワリが描かれた木の看板がぎいぎいと風に揺れていて、パン屋の中からは焼きたてのパンのにおいが漂ってくる。
問題はここから。
公爵令嬢が突然パン屋に現れて「あなたのおばあさんの幽霊からレシピを預かりました」と言ったら、確実に不審者である。
「どうする気だ?」
「考え中です」
「正直に言えばいいだろう」
「幽霊にコミュニケーションのアドバイスは求めていません」
考えた末、パンを買いに行くていで店に入った。
店番をしていたのは、二十歳くらいの女の子。茶色い髪をお団子にまとめて、手には粉がついている。——おばさんに似ている。丸い顔と柔和な目元が、そっくり。
「いらっしゃいませ! あ、お嬢様……?」
公爵令嬢がパン屋に来ることは珍しいらしい。当然だ。
「黒パンをひとつ。それと——マルタさん、ですよね?」
「は、はい。マルタです」
「おばあさまの黒パンのレシピ、残っていますか?」
マルタの顔が曇った。
「おばあちゃんのレシピ……残ってないんです。口伝えでしか教えてくれなくて、私がちゃんと覚える前に……」
声が震えている。こっちの涙は本物だ。半透明じゃない、温かい涙。
「あの味が、もう出せなくて。蜂蜜の量を変えてみたり、粉の配合を変えたり、色々試したんですけど——」
「アカシアの蜂蜜を使っていませんか?」
「え……? いえ、クローバーの蜂蜜を……」
「アカシアだそうですよ。それと、焼く前に生地を湿った布で——」
私は端切れのメモを差し出した。マルタがそれを受け取り、目を見開く。
「これ——おばあちゃんの——どうしてこれを——」
「夢で見たの」
嘘だ。大嘘だ。でも「幽霊に聞きました」よりはましだ。
「おばあさまが夢に出てきて、レシピを教えてくれたの。届けてほしいって」
マルタの目から涙がこぼれ落ちた。メモを胸に抱きしめて、声を上げて泣いている。
「おばあちゃん……おばあちゃん……」
背後で、半透明のおばさんが微笑んでいた。
その輪郭が、少しずつ薄れていく。足元から光の粒子になって、昇っていく。市場の喧騒に溶けるように、静かに、穏やかに——
「ありがとう」
最後にそう聞こえた気がして、振り返ったときには、もう誰もいなかった。
陽光だけが、パン屋の入口に差している。ヒマワリの看板がきしむ音と、マルタの泣き声と、焼きたてのパンの香ばしいにおい。
「……ハロルドさん」
「ん?」
「……泣いてません」
「泣いてるだろ。鼻水出てるぞ」
「出てません!」
出ていた。
帰り道、ハロルドが珍しく黙っていた。半透明の騎士が夕暮れの空を見上げて、何かを考えている。
「なあ、リーゼロッテ」
「なんですか」
「俺も、ああやって成仏できるのかな」
その声が、夕陽と同じ色をしていた。
暖かくて——少し寂しい。
「……さあ。でも、まずは三メートル離れてからその話をしましょう」
「距離の話はもういいだろ!」
「よくない! 霊圧がすごいの!」
「霊圧ってなんだ!?」
前世のアニメ用語は通じなかった。
でもまあ——ひとつ分かったことがある。
幽霊は怖い。本当に怖い。
でも、幽霊にも伝えたいことがあって、それを届ける人がいないなら——怖がりの公爵令嬢でも、やれることはあるらしい。
やりたくはないけど。
涙と鼻水を袖で拭いながら、夕焼けの市場を歩く。隣には半透明の騎士。
次の依頼が来ませんように、と本気で祈った。




