第2話「百年前の未練」
「好きな女がいたんだ」
ハロルドは天井を見上げたまま言った。正確には、天井を通り抜けて夜空を見ているのかもしれない。幽霊の視界がどうなっているかなんて知らないけれど。
深夜。燭台の炎がちろちろと揺れて、壁に不規則な影を落としている。ベッドの中で膝を抱えた私は、毛布を鼻の下まで引き上げて聞いていた。
怖いから。夜に幽霊の話を聞くのは、怖いから。
でも、昼に話してくれと頼んだら「夜のほうが雰囲気が出るだろう」と言われた。雰囲気を出さないでほしい。
「名前はエリーゼ。花屋の娘でな。笑うと目が三日月みたいに細くなる、可愛い子だった」
「へえ……」
「毎朝、城門の前を通るんだ。花を売りに行く途中でな。俺は門番の交代のとき、わざと時間をずらして——」
「それ、待ち伏せでは?」
「偶然を装っていたんだ! 騎士の作戦だぞ!」
作戦じゃない。ストーカーの発想。
でも、ハロルドの声が柔らかくなっている。百年前のことを話しているのに、昨日のことみたいに鮮明で、声の温度が——幽霊なのに——ほんの少し上がっている気がする。
「花屋だから、いつも色んなにおいがした。薔薇のときもあれば、ラベンダーのときもある。一度だけ百合の花粉が鼻について、俺が盛大にくしゃみしたことがあってな」
「騎士がくしゃみ」
「エリーゼに腹を抱えて笑われた。『あなた、騎士なのにくしゃみは普通なのね』って」
ハロルドがくつくつと笑う。その笑い声に合わせて、燭台の炎が青く染まった。
怖い。炎が青いの怖い。
「それで、告白したんですか?」
「してない」
「……え?」
「できなかった」
ハロルドの声から、温度が消えた。
「戦争が始まった。隣国との国境紛争だ。騎士団は総動員で、出征の前日にエリーゼに会いに行った」
部屋の空気が冷える。毛布越しにも分かるくらい、温度が落ちていく。壁の鷹の紋章が、燭台の不安定な光の中で翼を広げたように見える。
「会って、何を言ったかって? 『花を一輪くれ。戦場に持っていく』って言った」
「それだけ?」
「それだけだ。好きだの一言が、出てこなかった」
ハロルドは自嘲するように笑う。半透明の肩が揺れる。
「騎士団副団長が、花屋の娘に告白もできないんだぞ。剣で敵を薙ぎ払うほうがよっぽど簡単だった」
「……それで、戦場で」
「ああ。矢を三本食らって、馬から落ちた。最後に見たのは空の青さで、最後に思ったのは『エリーゼに好きだって言えばよかった』だ。百年前の話さ」
百年。
百年間、「好きだ」と言えなかった後悔を抱えてさまよっている。
泣ける。泣ける話だ。前世で観た映画なら号泣してティッシュを一箱使い切るレベル。
でも。
「ハロルドさん」
「ん?」
「距離が近いです」
「え?」
「話に夢中になってどんどん近づいてきてるんです。今ベッドの中まで入ってきてます」
「おっと」
半透明の鎧が毛布を突き抜けていた。つまり彼の胴体が私の足と重なっている。足先が凍りそうに冷たい。
「出て! 出てください今すぐ!」
「すまんすまん、つい近くで話したくなって」
「幽霊の距離感おかしいですからね!? 壁も床もすり抜ける人に距離感がないのは分かるけど、こっちは固体なの! 物理的に存在してるの!」
ベッドから飛び出して壁際まで後退する。足が冷たい。石の床の冷気と幽霊の冷気のダブルパンチ。
「……で、その、エリーゼさんに想いを伝えたいから成仏できないと」
「そういうことだ」
「でも百年前の人ですよね。もう……」
「ああ、生きてはいないだろう。でも、子孫がいるかもしれない。誰かに——」
「ちょっと待って。それ、私に何かさせようとしてません?」
「えっ」
「幽霊の頼みは聞かないって言いましたよね私!」
「いや、そうなんだが——」
「ぜっっったいに怖いことになるでしょう! 墓地に行くとか、夜中に廃墟を探すとか!」
「墓地には行かなくていいと思うぞ」
「思うぞ、じゃないんです! 確定情報をください!」
ハロルドが困ったように頭を掻く。幽霊の髪が手をすり抜けるけれど、本人は気にしていない。百年やっているとそういうものらしい。
「なあ、リーゼロッテ」
「なんですか」
「お前、怖がりのくせに優しいな」
「は?」
「怖い怖いって言いながら、ちゃんと最後まで聞いてくれただろう。俺の話」
言われて気づく。確かに、途中で耳を塞ぐこともできたし、部屋から逃げることもできた。でもそうしなかったのは——
「保険会社のクレーム対応で身についた癖です。相手の話は最後まで聞く」
「ほけん……?」
「何でもないです。前世の話」
「前世? お前、面白いな」
面白くないです。助けを求めているんです。
窓の外で夜鳥が鳴いた。不吉な声。燭台の炎がまた揺れて、ハロルドの半透明の輪郭がぼやける。
「……考えておきます」
そう言ったのは、私だった。
「本当か!?」
「考えるだけ! やるとは言ってない! 距離! また近づいてる!」
「すまん! 嬉しくてつい!」
嬉しくて距離を詰めてくる幽霊。その冷気が頬をかすめて、思わず身震いする。
百年間、好きだと言えなかった騎士。
泣ける話だ。本当に。でもお願いだから、泣ける話をするときくらい、二メートルは離れてほしい。
幽霊の体温は、ない。
でも声の温度だけは、確かにあった。




