第1話「陽気な幽霊」
あれから三日が経った。
幽霊は消えなかった。
消えないどころか、朝起きたら枕元にいる。着替えようとしたら部屋の隅にいる。食事をしていたら向かいの椅子に座っている。
「ねえ、ちょっと、出て行ってくれません?」
「なんでだ?」
「着替えるから!」
「ああ、俺は幽霊だから気にしなくていいぞ」
「私が気にするの!」
毎朝このやりとり。もう三日目。
彼の名前はハロルド。自称・百年前の王国騎士団副団長。鎧姿で、身長は百八十はある。顔は——悔しいけどかなり整っていて、生きていたら間違いなくモテただろう。
問題は、半透明で、壁をすり抜けて、足元が床から数センチ浮いていること。
「なあ、聞いてくれ。百年だぞ、百年。百年間ひとりぼっちだったんだ。話し相手がいるのがどれだけ嬉しいか——」
「百年間の寂しさを私にぶつけないで!」
朝食のスープを啜りながら叫ぶ。侍女たちが心配そうにこちらを見ている。そりゃそうだ。彼女たちにはハロルドが見えていない。私がひとりで叫んでいるようにしか見えない。
「あら、何でもないわ」
公爵令嬢スマイル。三日でだいぶ上手くなった。
内心は泣いている。
「お嬢さん、名前は?」
「……リーゼロッテよ」
「リーゼロッテか! いい名前だな! 俺はハロルド・ヴァン・ウェルデンシュタイン。百年前の騎士だ! よろしくな!」
すでに三回聞いた自己紹介を、彼は毎回同じテンションでやる。幽霊に記憶障害があるのか、単純に陽気すぎるのか。たぶん後者。
「よろしくしたくないんですけど」
「つれないな! まあまあ、せっかく百年ぶりに話せる相手ができたんだ。仲良くしようぜ」
肩を組もうとしてきたので全力で避けた。ハロルドの腕が私の肩をすり抜けて、ぞわっと冷気が走る。
「ひっ——!」
「おっと、すまん。つい。触れないんだったな」
触れないことを忘れるな。百年やってるだろう。
「なあリーゼロッテ。お前、なんで俺が見えるんだ?」
「知りませんよ。頭を打ったからじゃないですか」
「頭を?」
「舞踏会で転んだの。大理石の床に後頭部を強打。それから見えるようになったの」
「ははっ、転んだのか!」
「笑わないで!」
ハロルドは豪快に笑う。幽霊のくせに声がでかい。しかも笑うたびに周囲の温度が下がるから、スープがどんどんぬるくなる。
「しかし不思議なもんだな。百年間、誰にも見えなかったのに」
ハロルドの声が、少しだけ変わった。
陽気な調子は同じなのに、その底に何か——深い水たまりみたいなものが透けて見える。
「百年、ひとりきりでここにいたんですか?」
「ああ。城の中をうろうろしてな。誰かに話しかけても、誰にも聞こえない。壁を通り抜けて、天井を突き抜けて、日が昇って沈むのを何万回も見て——」
急に黙らないでほしい。怖いから。幽霊が黙ると怖いから。
「まあ、退屈だった!」
元気に結論を出すな。
「でもお前が見えるようになって、百年ぶりに会話ができたわけだ。これは運命だな!」
「運命じゃないです。事故です」
「細かいことを気にするな! なあ、俺は嬉しいんだ。本当に」
ハロルドの青白い顔が、くしゃっと笑った。その表情だけは人間のそれで、幽霊の異質さを一瞬忘れそうになる。
——忘れないけど。半透明だし。浮いてるし。冷たいし。
「ところでリーゼロッテ、お前さっきから目が赤いぞ。泣いてたのか?」
「泣いてません」
「嘘つけ。鼻も赤いぞ」
「……幽霊がいたら誰だって泣きます」
「なんで? 俺はいい幽霊だぞ?」
いい幽霊ってなに。幽霊にいいも悪いもある? あるのかもしれないけど、今の私にはどっちも怖い。
「なあ、ひとつ頼みがあるんだが」
「嫌です」
「まだ何も言ってないだろ!」
「幽霊の頼みって絶対ろくなことじゃないでしょう! ホラー映画で学びました!」
「ほらぁ……? まあいい、大したことじゃない。ただ——」
ハロルドが窓の方を見た。カーテン越しの陽光が、半透明の横顔を照らす。光を通してしまうから、影ができない。
「俺がなんでここにいるか、聞いてくれないか?」
その声は、陽気でも楽しげでもなくて。
百年間、誰にも聞いてもらえなかった問いかけの重みが、ラベンダーの香る部屋の空気をひんやりと変えた。
「……聞きます」
気がつけば、そう答えていた。
「ただし三メートル以上離れてください」
「おいおい、そんなに遠いと声が届かないだろ」
「幽霊なんだから声量の問題じゃないでしょ!」
「それもそうだな! はっはっは!」
陽気な幽霊が、また笑う。
部屋の温度がまた一度下がって、スープは完全に冷めた。
——こうして私は、百年前の騎士の幽霊と、奇妙な同居生活を始めることになる。
望んでない。まったく望んでない。
でも、あの声を無視できるほど、私は薄情じゃなかった。
前世で、保険のクレーム対応で鍛えた「聞く力」が、まさかこんな形で役に立つとは。
——立たなくていいのに。




