第0話「見えるようになる」
「リーゼロッテ・フォン・ヴァイセンブルク! お前の罪を、ここに糾弾する!」
王太子クリストフ殿下のお声が、舞踏会の広間に響き渡る。
シャンデリアの蝋燭が一斉にゆれて、溶けた蝋の甘ったるいにおいが鼻をついた。何百人もの貴族が息を呑む気配。絹のドレスが擦れる音すら聞こえない、完璧な静寂。
ああ、これ、知ってる。
前世の記憶が走馬灯みたいに流れてくる。小野寺怜奈、二十三歳、丸の内の保険会社勤務。残業帰りに駅の階段を踏み外して——気がついたら公爵令嬢になっていた。
乙女ゲーム『月下の誓い』の悪役令嬢、リーゼロッテ。
エンディングは三種類。追放、幽閉、処刑。どれを選んでもろくな未来がない。だから必死で回避策を考えてきたのに、結局ここに立っている。
「マリアージュ嬢への度重なる嫌がらせ、もはや看過できぬ!」
いや、してないんですけど。
してないんですけど、この状況で「してません」が通じないことくらい、前世で何度も理不尽なクレーム対応をした経験で知っている。
「よって、この婚約を——」
破棄、でしょう? 知ってますよ。
ゲームでは何百回と見たシーンだ。ここでリーゼロッテは泣き崩れるか、逆上して醜態を晒すか。どちらにしても観衆の嘲笑を浴びて退場する。
でも、私はどちらも選ばない。
「——承知いたしました」
深く、優雅に、一礼。
公爵令嬢の矜持を保ったまま踵を返す。完璧な退場。我ながら見事な——
足がもつれた。
ヒールの踵が大理石の床の目地に引っかかり、体が前のめりになる。
あ。
咄嗟に手を伸ばしたけれど、つかめるものは何もなくて、視界がぐるりと回転して——
後頭部に、鈍い衝撃。
割れるような痛み。星が散る。蝋燭の光がにじんで、広間の天井画がぐにゃりと歪む。
誰かの悲鳴。「きゃあ!」「大丈夫か!」「医者を!」
遠い。全部、水の底から聞こえるみたいに遠い。
あーあ。せっかくかっこよく退場しようと思ったのに。
最後の最後でコケるとか、前世の怜奈っぽすぎる。駅の階段で死んだ女は、異世界でも転ぶ。
意識が薄れていく。
大理石の床が、氷みたいに冷たい。
——。
……。
………。
どのくらい時間が経っただろう。
最初に感じたのは、におい。消毒液じゃない。ラベンダーと、古い木の家具と、燃え残った蝋燭の煤。ここは病院じゃなくて、たぶん屋敷の寝室。
次に、冷気。
季節は春のはずなのに、毛布越しに芯から冷える寒さが這い上がってくる。窓が開いているのかと思ったけれど、カーテンは閉まっている。
なのに、寒い。
おかしい。
ゆっくりと目を開ける。天蓋付きのベッド。見慣れた自室の天井。壁には母の肖像画。燭台の炎が、風もないのにゆらゆらと揺れている。
そして——
ベッドの横に、男が立っていた。
長身。鎧姿。ぼんやりと青白く光っている。
向こう側の壁が、透けて見える。
半透明の男が、こちらを覗き込んで、にっこり笑った。
「おっ、目が覚めたか」
「ぎゃああああああああッ!!!」
自分でもびっくりするくらいの絶叫が出た。
ベッドから転がり落ちて、床に尻餅をつく。毛布を頭からかぶって丸まる。心臓がばくばくいっている。涙が勝手に出てくる。寒い。怖い。なんで。なんでなんでなんで。
「おいおい、そんなに驚くなよ」
声が聞こえる。壁の向こうからじゃない。すぐそば。毛布一枚の距離。
「やだやだやだ来ないで来ないで!」
「いや、来てないぞ。ずっとここにいたんだが」
それが一番怖いんですけど!?
毛布の隙間から恐る恐る覗くと、半透明の男は腕を組んで首をかしげていた。相変わらず向こう側が透けている。壁の紋章——ヴァイセンブルク家の鷹の紋が、男の胸板を突き抜けて見えている。
「あ、あ、あなた——」
「ん?」
「……幽霊?」
「そうだが?」
そうだが、じゃないよ。
涙がぼろぼろ流れるなか、私の頭の中では前世の怜奈が全力で悲鳴を上げていた。
怖がりなんです私は。ホラー映画はジャケットすら見られない。お化け屋敷は入口で泣いて帰る。心霊番組は存在を知っただけでその夜眠れなくなる。
そんな私の目の前に——本物がいる。
「頭、大丈夫か? 結構派手に打ってたぞ」
「大丈夫じゃないです……幽霊が見えてるんだから全然大丈夫じゃないです……」
「はっはっは! そりゃそうだ!」
笑うな。
毛布をぎゅっと握りしめながら、私は悟る。
断罪で転んで、頭を打って、幽霊が見えるようになった。
これ、乙女ゲームにそんなルートなかったんですけど。
半透明の騎士は楽しそうに笑っている。燭台の炎が青く揺れる。部屋の温度が、また少し下がった気がする。
ねえ、誰か。
助けてください。




