第28話「成仏の朝」
朝、目が覚めて最初にしたのは、部屋の隅を見ることだった。
ハロルドが壁に寄りかかって腕を組んでいるはずの場所。毎朝「おはよう嬢ちゃん、今日も眠そうだな」と声をかけてくるはずの場所。
誰もいない。
当たり前だ。昨日、成仏したのだから。
分かっている。分かっているのに、つい目が行ってしまう。起き抜けの頭が、まだ現実に追いついていない。
「お嬢様、おはようございます」
ピッピがカーテンを開ける。朝の光が部屋に入ってきて、埃が金色に舞い上がる。
「今日もいいお天気ですよ。洗濯日和です」
「……おはよう、ピッピ」
「あら、どうしました? 目が腫れてますよ」
「昨日、泣きすぎたの」
「幽霊に何かされたんですか!」
「違うの。されたんじゃなくて——いなくなったの」
ピッピが首を傾げる。幽霊が見えない彼女にとって、「いなくなった」は喜ぶべきことだろう。怖い幽霊がいなくなったのだから。
「ハロルドさんですか」
「うん」
「そうですか。……寂しいですね」
見えないのに。会ったこともないのに。ピッピはただ「寂しいですね」と言ってくれる。
この子の鈍感は時々、誰よりも鋭い優しさに化ける。
「朝ごはん、多めに用意しますね。卵、二個にしておきます」
「ありがとう」
「三個にしましょうか」
「二個でいいです」
着替えて、食堂に降りる。
椅子に座って、向かいの空席を見る。ハロルドが座っていた椅子。幽霊だから座る必要なんてないのに、律儀に椅子に座って「嬢ちゃん、食べすぎだぞ」と茶々を入れてくるのが日課だった。
パンをちぎる。バターを塗る。口に入れる。
味が、薄い。いつもと同じパンのはずなのに。
「リーゼロッテ」
玄関のベルが鳴って、アルヴィンが入ってくる。朝から来るのは珍しい。
「顔色が悪いな」
「おはようございます。ええ、ちょっと寝不足で」
「嘘だな。泣いた後の顔だ」
「……バレますか」
「目が腫れている」
そこまではっきり言わなくてもいいのに。
アルヴィンが向かいに座る。ハロルドが座っていた椅子に。
「おい祓魔師、そこは俺の席だ」——という声はもう聞こえない。
「ハロルドのことか」
「はい。いなくなった朝って、こんなに——」
言葉を探す。寂しい、とは少し違う。悲しい、とも違う。もっとぼんやりした、輪郭のない喪失感。
「静かなんです。朝が」
アルヴィンが黙って聞いている。
「いつもうるさかったんです。『嬢ちゃん起きろ』『朝だぞ』『パンにバター塗りすぎだ』って。うるさくて、鬱陶しくて、でも——」
「いないと寂しい」
「……はい」
アルヴィンが紅茶を自分で淹れ始める。この人、いつの間にうちの台所に慣れたのだろう。カップの場所も茶葉の場所も知っている。
「昨日、ハロルドは笑っていた」
「はい」
「見事な最期だったと思う。祓魔師として数え切れないほどの霊を見てきたが——あれほど穏やかな成仏は初めてだ」
アルヴィンがカップを差し出す。湯気の向こうに、いつもより柔らかい銀色の瞳。
「お前のおかげだ。お前が話を聞いて、怖がりながらも逃げなくて、百年越しの言葉を引き出した。ハロルドが笑えたのは、お前がいたからだ」
「……やめてください。また泣きます」
「泣けばいい」
「泣きませんよ。朝から泣く趣味はありません」
紅茶を一口飲む。カモミールにほんの少し蜂蜜。いつもハロルドが「嬢ちゃんは蜂蜜入れすぎだ」と言っていた味。アルヴィンは、私が好きな配分を知っていたのだ。
——泣かないと言ったのに、目が熱い。
「エリーゼさんの子孫を探す件、教会の戸籍記録をあたってみる。ヴァイス家の名前が残っているかもしれない」
「お願いします」
「それから、マルガレータ様の件。クリストフ殿下が動き始めている。王家の歴史記録の修正を、枢密院に諮るそうだ」
「早いですわね」
「殿下なりに、覚悟を決めたのだろう」
窓の外で鳥が鳴いている。朝の光がテーブルに縞模様を描いている。
ハロルドがいない朝は静かで、広くて、少しだけ寒い。
でも——アルヴィンがいる。ピッピがいる。
そして、ハロルドは幸せそうだった。最後に見た笑顔が、目の裏に焼きついている。
「ピッピ」
台所から顔を出した侍女に声をかける。
「卵、やっぱり三個にして」
「はーい。四個にしましょうか」
「三個でいいです」
食べよう。ちゃんと食べて、やるべきことをやる。ハロルドに託された約束を果たす。
嬢ちゃん、と呼ぶ声はもう聞こえない。
でも、胸の中で——まだ響いている。




