第27話「百年越しの言葉」
北門の橋の下に、礼拝堂の跡はあった。
石段が半分崩れ、蔦に覆われた入口。中に入ると、湿った土の匂いと、かすかに——花の残り香。誰かがここに花を手向けていた痕跡が、枯れた茎となって散らばっている。
エリーゼの霊はいなかった。
代わりに見つけたのは、壁に刻まれた文字。
「『マルガレータ様の無念を、いつか誰かに伝えてほしい。エリーゼ・ヴァイス』」
ハロルドが、その文字の前から動けなくなっている。
「エリーゼは——ここで、最期まで——」
「文字を残して、消えたのでしょうね。未練を壁に刻んで」
エリーゼの魂は、もうここにはない。未練を文字に託して、すでに消えている。百年前に。自分の力で。
「エリーゼはすでに成仏していたんだ」
アルヴィンが壁の文字を指でなぞりながら言う。
「未練をこの壁に刻むことで、いつか誰かがこれを読み、真実を伝えてくれると信じた。その信頼が——彼女の魂を解放した」
ハロルドが壁の前に膝をつく。
「エリーゼ。お前は——俺より先に、自分で答えを見つけたのか」
声が掠れる。
「俺は百年もうろうろして、嬢ちゃんに助けてもらって、それでやっと——」
「ハロルド」
「お前は強いな。昔からそうだった。俺が隊列の後ろでもたもたしている時も、お前は王妃様の隣で背筋を伸ばしていた」
壁に話しかけている。もういない人に。
「俺は——百年間、お前に言いたいことがあった」
百年前の未練。ハロルドがこの世に留まっている理由。第2話で、最初に会った時から匂わせていた——恋人に伝えたかった言葉。
「好きだった」
ハロルドの声がまっすぐに響く。
「好きだった。ずっと。言えなかった。騎士と侍女じゃ身分が違うとか、今は仕事中だとか、くだらない理由をつけて先延ばしにして。そうしたら——もう、言えなくなっていた」
涙が止まらない。私の涙が。
ハロルドは泣いていない。百年前の恋人への告白を、穏やかな顔で続けている。
「でも、お前のことをいつも見ていたよ。お前が王妃様を守ろうとしていたのも知っていた。お前が俺なんかより——はるかに勇敢だったことも」
壁の文字が、ろうそくの光に照らされて浮かび上がる。エリーゼが最期に刻んだ文字。
「もう間に合わないな。当たり前だ、百年経ってるんだから」
ハロルドが笑う。
「でも嬢ちゃん。一つだけ頼みがある」
「なんですか」
「エリーゼの子孫を探してくれないか。ヴァイス家がまだ続いているなら——伝えてほしい。百年前に、エリーゼを好きだった馬鹿な騎士がいたと」
「——はい」
声が震えて、ろくに返事になっていない。
「鼻が赤いぞ、嬢ちゃん」
「うるさいです」
「はは。最後まで泣き虫だな」
最後。
その言葉の意味に気づいて、胸の奥がぎゅっと掴まれる。
「ハロルド。もう——」
「ああ。俺の未練は、これで解けた。エリーゼがもういないと分かった。壁の言葉を見つけた。好きだったと言えた。——もう十分だ」
ハロルドの体が、うっすらと光を帯び始める。
「嘘だ。まだ——子孫に伝えてもいないのに——」
「それはお前に託すよ。頼んだ」
光が強くなる。ハロルドの輪郭がぼやけていく。
「嬢ちゃん。怖がりのくせによく頑張った」
「やめてください、そういうの」
「祓魔師にも言っておけ。嬢ちゃんを泣かせたら化けて出るってな」
「何の話ですか」
「鈍いな。まあいい。分かる日が来るだろう」
ハロルドが微笑む。百年間見たどの表情よりも穏やかな、晴れた朝のような笑顔。
「じゃあな、嬢ちゃん。——怖い時は、目を閉じなくていい。見たまま、怖がったまま、前に進め」
光が弾ける。
暖かい光。百年分の冷たさを溶かすような、柔らかい光。
ハロルドの姿が消えていく。足元から、透けて、溶けて——。
「ハロルドっ」
手を伸ばす。届かない。最初から触れられなかったのに、それでも手を伸ばしてしまう。
光が消える。
礼拝堂の跡地に、私とアルヴィンだけが残される。
壁の文字。枯れた花。湿った土の匂い。
——ハロルドが、いない。
「……リーゼロッテ」
アルヴィンの声が、遠くから聞こえる。
「泣いていいぞ」
「泣いてます。もう泣いてます」
声にならない声で、崩れ落ちる。
百年越しの「好きだった」が、壁の文字に重なって滲んでいく。
アルヴィンが何も言わずに隣に座る。肩に何かが触れる。温かい。彼の外套が、私の肩にかけられている。
ハロルドがいない。
もう「嬢ちゃん」と呼ばれることはない。「鼻が赤いぞ」と笑われることもない。
でも——笑っていた。最期に。
百年越しの言葉を、やっと口にできて。
馬鹿な騎士は、笑って消えた。




