第20話「百年前の王妃」
幽霊が微笑んでいる。
それだけで怖いのに、その微笑みがあまりにも上品で、思わず背筋が伸びてしまう。前世で言うなら、校長先生の前に立たされた小学生の気分。いや、もっと格上だ。校長先生どころか女王様。
——実際、王妃だった。
「マルガレータ・ド・リヒト。百年前の王妃ですわ」
ハロルドが呟いた声に、思わず振り返る。
「知っているんですか」
「知ってるもなにも——この方の時代に、俺は仕えていたからな」
ハロルドの表情が、いつもの陽気さを消している。百年前の騎士。百年前の王妃。同じ時代を生きた二人が、同じ場所で幽霊として再会している。
その事実が、じわりと胸に引っかかった。
「あら」
王妃の幽霊——マルガレータが、ハロルドに気づいて目を丸くする。
「騎士ハロルド。あなたもまだこちらにいたの」
「……ご無沙汰しております、王妃殿下」
ハロルドが膝をつく。幽霊が幽霊に跪いている。私の人生、いつからこんなことになったのだろう。
「殿下ではなくてよ。もう百年も前のことですもの。マルガレータでいいわ」
言葉遣いが柔らかい。声も穏やかで、幽霊特有の冷気はあるのに、不思議と恐怖心が薄れていく。
クリストフ殿下は扉の外で待っている。「中に入るのは遠慮する」と言い残して。殿下には幽霊が見えないから、ただ冷気と声だけが届くのだろう。そりゃ怖い。見える私だって怖いのだから。
「それで——あなたが、最近この王宮で幽霊の相談を受けているお嬢さん?」
マルガレータの視線がこちらに向く。透き通った瞳。生前はさぞ美しい方だったに違いない。
「は、はい。リーゼロッテ・ファントムと申します」
「ファントム家の。まあ、あの家はまだ続いているのね」
百年前を知る人の口から聞く「あの家」という言い方に、時間の重みを感じてしまう。私がファントム家の令嬢であることには、特に何の感想もないらしい。悪役令嬢として断罪されたことも、この方にとっては些細な出来事なのだろう。
百年の前ではね。
「マルガレータ様。その……何か未練がおありなのですか」
聞かなきゃいけないことを聞く。怖いけど。怖いけど、これが私の役目になってしまったので。
「未練」
マルガレータが、その言葉を噛みしめるように繰り返す。
「そうね。未練と言えば未練かしら」
窓の方に視線を向ける。割れたガラスの隙間から、午後の風が吹き込んで埃を舞い上げる。マルガレータの長い髪が、風に揺れた——ように見えたけれど、幽霊の髪が本当に揺れるのかは分からない。
「百年もの間、誰にも聞いてもらえなかったの。私の話を」
「百年……」
「ええ。使用人たちは私の声を怖がって逃げるし、祓魔師はお祓いの祝詞を唱えるだけで耳を貸さない。あなたのような人が来るのを、ずっと——」
マルガレータが口を閉じる。「ずっと」の先を飲み込んで、代わりに微笑みを浮かべる。
「私の話を聞いてくれるの? 嬉しいわ」
その声が震えていた。
百年。百年間、誰にも話を聞いてもらえなかった。暗い部屋で、一人で、声を上げ続けて。怖がられて、逃げられて、祓われかけて。
——怖いのは、私じゃなくて。
この人の方がよほど怖かったんだ。孤独が。
「聞きます」
自分でも驚くほどはっきりと言えた。
「マルガレータ様のお話、聞かせてください」
マルガレータの微笑みが、少しだけ崩れる。泣き笑いのような、百年分の感情が滲み出たような顔。
「ありがとう。では——」
白百合の残り香が、ふわりと強くなった気がする。
「私が殺された夜のことから、話しましょうか」
——殺された。
怖い。めちゃくちゃ怖い。殺された話を聞くのは全力で怖い。
でも、逃げない。
アルヴィンが、私のすぐ後ろに立っている。その気配だけで、足が前に進む。
「お願いします」
マルガレータが語り始める。
百年前の夜の話を。




