第19話「王宮の依頼」
王宮の門は、想像していたよりずっと大きい。
見上げると首が痛くなるほどの鉄門。その向こうに広がる白亜の建物。前世で見たヨーロッパの城の写真なんて目じゃない迫力が、ずしりと胃袋のあたりを圧迫してくる。
隣を歩くクリストフ殿下が、すました顔で衛兵に手を振っている。衛兵たちがざっと左右に割れて道を開けた。
……殿下。あなたが私を断罪した張本人だということ、まだ忘れてませんからね。
「リーゼロッテ嬢、どうした。入らないのか」
「あ、はい。もちろん入りますわ」
入りたくないです。帰りたいです。
でも、クリストフ殿下がわざわざ我が家まで来て「王宮の幽霊をどうにかしてほしい」と頭を下げたのだ。あの断罪殿下が。額を床すれすれまで下げて。ピッピが「殿下って意外と柔らかいんですね、おでこ」と的外れな感想を述べるほどの低姿勢で。
断れるわけがなかった。というか、断ったらそれはそれで怖い。王族に恩を売っておくのは悪役令嬢の生存戦略として正しいはず。
「この先だ」
クリストフ殿下が案内するのは、王宮の東棟。使われなくなった旧妃の居室があるという。
廊下に入った瞬間、空気が変わる。ひんやりとした冷気が首筋を撫でて、思わず肩を竦めてしまう。壁に飾られた肖像画の目が、こちらを追いかけているような——
「怖い怖い怖い」
「……聞こえているぞ」
「独り言ですわ」
隣でハロルドが腕を組んで廊下を見回している。幽霊が幽霊を観察しているというのは、なんとも奇妙な光景だ。もっとも、ハロルドの姿が見えるのは私だけだけれど。
「なあ嬢ちゃん、この廊下、古いな。百年は経ってる」
ハロルドが壁の紋章を指さす。剣と百合を組み合わせた意匠——今の王家の紋章とは微妙に違う。百合の花弁が一枚多い、旧い様式のものだ。
「百年前の紋章ですか」
「ああ。俺が生きていた頃の……いや、まあいい。先を急ごう」
ハロルドが何か言いかけてやめたのが気になったけれど、聞き返す余裕がない。だって、廊下の奥から——
「……ぃ……て……」
声がする。
女性の声。細くて、か弱くて、でも確かに何かを訴えている。
「殿下、ここで夜な夜な声がするというのは」
「ああ。ちょうどこのあたりだ。侍女が三人辞めた。衛兵も近づきたがらない」
クリストフ殿下の横顔には、いつもの尊大さがない。代わりにあるのは、隠しきれない不安の色。
なるほど。殿下も怖いのだ。
ちょっとだけ親近感が湧いたけれど、怖いものは怖い。
「アルヴィン」
後ろを歩いていたアルヴィンに声をかける。銀髪の祓魔師は、腰の聖水瓶に手を添えながら静かに頷いた。
「感じる。強い残留だ。普通の浮遊霊じゃない」
「強いって何ですか。怖いこと言わないでください」
「事実を述べただけだが」
「事実が怖いんです」
アルヴィンが困ったように眉を寄せる。この人は、幽霊相手には冷静なのに、私が泣きそうになると途端にオロオロする。祓魔師として何百体の幽霊を相手にしてきたくせに、泣く女には勝てないらしい。
廊下の突き当たりに、重厚な扉がある。
取っ手に触れた瞬間——指先が凍った。比喩じゃなく、本当に氷のような冷たさが走る。
「っ!」
「大丈夫か」
アルヴィンの手が、すぐに私の手を包んだ。温かい。彼の手はいつも温かくて、それだけで少しだけ心臓のうるささが和らぐ。
……いや、別の理由でうるさくなっている気もするけれど。今はそれどころじゃない。
「開けますわ」
扉を押す。
重い音を立てて、旧妃の居室が姿を見せた。
埃の匂いの中に、かすかに花の香りが混じっている。枯れているはずなのに、部屋の片隅に活けられた白百合が——
「……聞いて」
声がした。はっきりと。
部屋の中央に、一人の女性が立っていた。透けた体。長い髪。優雅なドレス。そして——穏やかな微笑み。
怖い。
怖いけど。
その幽霊は、泣いているようにも見える。
「ねえ——私の話を、聞いてくれるかしら」
百年の沈黙を破るように、幽霊が微笑む。
その微笑みが、怖いのか悲しいのか、私にはまだ分からなかった。




