第17話「二人で怖い」
翌夜、王宮の図書室に戻ってきた。
昨日持ち帰った『王都建築史 第七巻』の開かれたページには、王宮東棟の増築設計図が描かれていた。百年前のものだ。設計者の名前は「エドガー・ホフマン」。
図書室の幽霊が何者なのか、手がかりはこれしかない。
「エドガー・ホフマン。名前に聞き覚えは?」
ハロルドに聞いたが「知らんな」と首を横に振られた。百年前に生きていたのに役に立たない幽霊だ。
「百年前の全員を知ってるわけじゃないだろ。俺は騎士であって図書館員じゃない」
「それもそうですね」
今夜の装備は昨日より充実している。蝋燭を三本に増やし、アルヴィンが聖水の小瓶を持っている。ピッピはお菓子の包みを持ってきた。
「ピッピ、お菓子は装備じゃないわ」
「お腹が空いたら力が出ませんから」
「怖さとお腹の空きは別問題よ」
「そうですか? 私はお腹が満たされていれば大抵のことは大丈夫です」
鈍感力に加えて胃袋の力。ピッピは人類最強かもしれない。
図書室の扉を開ける。昨夜と同じ、紙とインクの匂い。蝋燭を灯すと、本棚の影が壁に伸びる。
「静かだな」とアルヴィンが言う。
「静かすぎます」
「静かなのは良いことだろう」
「怪談では『静かすぎる』の後に必ず何か起きるんです」
「怪談を基準にするな」
「私の人生が怪談みたいなものですけど」
奥の閲覧席に向かう。ハロルドが先導し、アルヴィンが横を歩き、ピッピが後ろからついてくる。本棚の間を縫うように進む。
蝋燭の灯りが届かない場所が、本棚と本棚の間に口を開けている。暗い隙間。何かが潜んでいそうな。
「アルヴィンさん」
「何だ」
「手、繋いでいいですか」
「……勝手にしろ」
手を伸ばす。アルヴィンの手に触れた瞬間——冷たい。
「手、冷たいですね」
「うるさい」
「もしかして緊張してます?」
「していない」
「嘘でしょ。手が震えてますよ」
「……うるさい」
二回目の「うるさい」は、一回目より小さかった。
閲覧席が見えてきた。大きな樫のテーブルに、椅子が六脚。そのうちの一つに——老人が座っていた。
白髪で、丸い眼鏡をかけて、本を広げている。穏やかな顔。怖くない幽霊だ。怖くないけれど、いること自体が怖い。矛盾しているが、これが霊感持ちの日常である。
「あの方が図書室の幽霊だな」とハロルドが言う。
老人がこちらに気づいた。眼鏡の奥の目が、少し驚いたように見開かれる。
「おや……見えるのかね」
「見えます。リーゼロッテ・ファントムと申します」
「ファントム。ああ、あの家の」
老人が本を閉じた。タイトルが見える。『王宮東棟の構造と歴史』。やはり建築関連だ。
「私はエドガー・ホフマン。百年前に、この東棟の増築を手がけた建築家だ」
名前が一致した。やはりこの人が設計図のページを開かせた幽霊だ。
「エドガーさん、昨夜は本を見せていただきましたね。あの設計図に何か」
「伝えたいことがあるのだよ。この東棟には——」
エドガーが立ち上がろうとした瞬間、図書室の空気が変わった。
温度が急激に下がる。吐く息が白い。蝋燭の炎が横倒しになるほどの冷風が吹き抜ける。
「何だ?」とアルヴィンが身構える。
本棚の奥から——別の気配。エドガーではない。もっと強い。もっと冷たい。
「いかん」とエドガーが顔色を変えた。幽霊なのに顔色が変わるのだ。「彼女が来る」
「彼女?」
「この図書室にはもう一人いるのだよ。私よりずっと前から。私はこの方を起こさないよう静かに本を読んでいたのだが——」
本棚が、がたがたと揺れ始めた。
「ぎゃあああ!」
アルヴィンの手を握る力が倍になる。アルヴィンが「痛い」と小声で言ったが構っていられない。
本棚の最上段から、本が一冊ずつ飛び出してくる。宙を舞って、ばさばさと床に落ちる。嵐のような勢い。
暗闇の中から、女性の姿が浮かび上がった。
長い黒髪。白いドレス。顔が——見えない。髪で隠れている。
ホラー映画だ。完璧なホラー映画の構図だ。前世で予告編すら見られなかったやつだ。
「アルヴィン、さん」
「ああ」
「怖い」
「俺もだ」
「えっ」
「……今のは聞くな」
祓魔師が怖がっている。頼れる大人が怖がっている。全然安心できない。
でも——手を離さない。離さないし、離されない。
ハロルドが私たちの前に出た。「俺が話す。お前たちは下がれ」
「ハロルドさん!」
「大丈夫だ。幽霊同士なら——」
黒髪の女性が、ゆっくりと顔を上げた。
髪の隙間から目が見える。怒っているのか、悲しんでいるのか、判別できない。
「うるさい」
女性の声が図書室に響く。低くて、冷たくて、ガラスに爪を立てるような不快さがある。
「私の場所に——入ってこないで」
本棚が一斉にがたつく。蝋燭が二本消えた。残り一本。
「落ち着いてください!」
私は叫んだ。声が裏返ったが構わない。
「あなたの場所だと分かっています! 邪魔するつもりはありません!」
女性がこちらを向く。髪の隙間から、目と目が合う。
足が竦む。逃げたい。でも手がアルヴィンの手を握っているし、ハロルドが前にいるし、ピッピが後ろで——。
「お嬢様ー、飴いります?」
ピッピ。この状況で飴。
一瞬、空気が——弛んだ。
黒髪の女性が、わずかに首を傾げた。怒りとは違う表情。困惑?
「……何なの、あの子」
「うちの侍女です。鈍感なんです。すみません」
「鈍感って言わないでくださいー」
女性の気配が、ほんの少しだけ和らいだ。冷気がわずかに弱まる。
「出て行きなさい。今夜は——もういい」
本が床に戻り始める。一冊ずつ、ゆっくりと。
「でも、あなたの話を——」
「今夜はもういいと言った」
女性が闇に溶けていく。最後に見えたのは、白いドレスの裾。
蝋燭を点け直す。手が震えて三回失敗した。アルヴィンが代わりに火を点けてくれた。彼の手も震えていたけれど、私よりはましだった。
「エドガーさん」
老人の幽霊はまだ閲覧席にいた。
「あの方は——誰ですか」
「百年前の王妃の侍女だよ。名前は知らない。だが——何かを守っているらしい。この図書室の奥に」
百年前の王妃。ハロルドの時代だ。
ハロルドの顔が強張っている。
「王妃の侍女……」
「ハロルドさん?」
「いや——何でもない。明日、もう一度来よう」
帰り道、王宮の廊下を四人で歩く。
「アルヴィンさん」
「何だ」
「さっき、怖いって言いましたよね」
「……言っていない」
「言いました。はっきり聞こえました」
「空耳だ」
「手も震えてました」
「寒かっただけだ」
「嘘ですよ」
アルヴィンが黙る。しばらく歩いてから、低い声で言った。
「……怖かった。満足か」
「満足です」
「なぜだ」
「だって——一人で怖がるより、二人で怖がる方がましだから」
アルヴィンがこちらを見た。蝋燭はもう消えている。月明かりだけの廊下。銀髪が青白く光っている。
「……そうかもしれないな」
王宮の門を出て、夜の街に出る。
あの黒髪の女性は何を守っているのか。エドガーは何を伝えたかったのか。そしてハロルドのあの表情は。
答えは——まだ図書室の闇の中にある。




