第16話「夜の図書室」
王宮から手紙が届いた。
蝋の封印が赤くて重々しい。ファントム家の元令嬢に王宮から手紙が届くのは、断罪以来だ。前回は社交界追放の通知書。今回は——。
「『王宮図書室にて怪奇現象が頻発。原因調査を依頼したし。報酬は応相談。——第一王子クリストフ・ド・リヒト』」
読み上げた瞬間、手紙を持つ手が震え始めた。
「王宮の怪奇現象」
ハロルドが手紙を覗き込む。「面白そうだな」
「面白くないです。怖いです。王宮。怪奇現象。夜。絶対嫌です」
「報酬が出るぞ」
「お金の問題じゃないです」
「お前、断罪されてから金に困っているだろう」
「……困ってます」
「行くべきだな」
「ハロルドさんがお金を出してくれるなら行きません」
「幽霊に財布はない」
結局、行くことになった。
アルヴィンにも手紙が届いていた。「祓魔師として同行を依頼する」とある。
「断罪した相手に助けを求めるとは、皮肉な話だな」
「アルヴィンさん、それ言わないでください。私も思ってましたけど」
夕刻、王宮の通用口で合流する。アルヴィンは祓魔師の正装——白い法衣に銀の十字架——を身につけていた。似合っている。腹立たしいほど似合っている。
王宮の廊下は夕日が差し込んでいて、まだ明るい。だが図書室は東棟の奥にある。窓が少なく、昼間でも薄暗いとクリストフの手紙にあった。
案内の侍従に従って歩く。王宮の廊下は天井が高く、足音が反響する。壁には歴代王族の肖像画が並んでいて、その目がこちらを追っているように見える。
見えているのではなく、見られている。たぶん気のせい。たぶん。
「アルヴィンさん」
「何だ」
「怖いです」
「知っている」
「知ってるなら何か言ってください。大丈夫とか」
「大丈夫だ」
「棒読みじゃないですか」
「俺に演技力を求めるな」
図書室に着いた。
重い樫の扉を開けると、古い紙とインクの匂いが押し寄せてくる。天井まで本棚が連なる巨大な部屋。梯子が壁に沿って何本もかけてあり、蝋燭のランプが等間隔に置かれている。
美しい場所だ。前世の小野寺怜奈なら「わぁ、すごい」と喜んだかもしれない。
でも今は夕暮れ。窓の外が暗くなり始めている。蝋燭の灯りが揺れるたびに、本棚の影が動く。
「怪奇現象の内容を確認しよう」とアルヴィンが言った。
クリストフの手紙によれば——。
一、夜になると本が勝手に動く。朝来ると棚の本が入れ替わっている。
二、ページをめくる音が聞こえる。誰もいないのに。
三、図書室の奥の閲覧席に、人影が座っているのを複数の侍従が目撃。
「典型的な残留霊だな」とアルヴィンが法衣の袖を巻く。
「残留霊?」
「生前の習慣を繰り返す幽霊だ。危険性は低い」
「低いだけで、ゼロではないんですね」
「ゼロではない」
「言い方!」
外が完全に暗くなった。蝋燭の灯りだけが頼りの空間。本棚と本棚の間が暗い谷のようで、奥が見えない。
ハロルドが先に行く。「俺が偵察してくる。お前たちは入口で待て」
「ハロルドさん、一人で大丈夫ですか」
「幽霊が幽霊を怖がってどうする」
「それもそうですね」
ハロルドが本棚の奥に消えていく。その背中が暗闇に溶けるのを見送って——。
ばさり。
本が落ちた。
三列向こうの棚から、分厚い本が一冊、床に落ちた音。
「ひっ」
反射的にアルヴィンの腕を掴んでいた。掴んでから気づく。
「す、すみません」
「……構わない。離すな」
え? 今なんて?
「いや——離してもいい。好きにしろ」
アルヴィンの耳が赤い。蝋燭の灯りのせいだと思いたいが、蝋燭の光はオレンジで、あの赤さは別の理由だろう。
また、ばさり。今度は二列向こう。
ばさり。一列向こう。
近づいてきている。
「アルヴィンさん、近づいてきてます」
「分かっている」
「分かっているなら何とかしてください」
「何とかする。だから腕を離すな」
「離さないですけど! 離さないですけど、それとこれとは——」
ばさり。
目の前の棚から、本が一冊ずるりと滑り出た。
ゆっくりと。誰も触っていないのに。背表紙が蝋燭の灯りに照らされて、金文字のタイトルが見える。『王都建築史 第七巻』。
本が宙に浮いた。
「ぎゃああああ!」
叫んだ。アルヴィンの腕にしがみついた。足が動かない。動かないのに膝がガクガクする。
本がゆっくりと開いて、ページが捲れていく。ぱらり。ぱらり。何かを探しているように。
ハロルドが奥から戻ってきた。
「見つけた。閲覧席に一人いる。老人の幽霊だ。穏やかな顔をしている。本を読んでいた」
「読んでるんですか」
「ああ。邪魔されたくないらしくて、こちらを見もしなかった」
宙に浮いた本が、特定のページで止まった。図面が描いてある。どこかの建物の設計図。
「この本を——誰かに見せたいのかもしれない」とアルヴィンが言う。
「閲覧席の幽霊が、ですか」
「本を動かしているのはあの幽霊だろう。生前、この図書室で何かを調べていた学者か建築家か——」
ページが風もないのにぱたぱたと揺れる。主張が激しい。
「分かりました、分かりましたから」
私はそっと浮いている本に手を伸ばす。触れると、すとんと重力に従って手の中に落ちた。温かくもなく冷たくもない、ただの本。
「明日、明るいときに調べましょう」
返事の代わりに、蝋燭の炎が一瞬大きく揺れた。同意と受け取ることにする。
「アルヴィンさん、帰りましょう」
「ああ」
「腕、離していいですか」
「……好きにしろ」
離した。離した瞬間、アルヴィンの腕が少しだけ——ほんの少しだけ、こちらに戻りかけたのを、私は見なかったことにした。
王宮の廊下を早足で歩く。背後で図書室の扉がひとりでに閉まる音がした。振り返らない。絶対に振り返らない。
「明日、またここに来なければならないのですね」
「怪奇現象の正体が分かるまではな」
「アルヴィンさんも一緒ですか」
「当然だ。祓魔師として依頼を受けている」
「よかった」
「何がだ」
「一人じゃないのが」
夜の王宮は長い影に満ちている。でも隣に人がいるだけで、影の形が少し違って見える。
ハロルドが後ろで「ニヤニヤするな俺」と自分に言い聞かせているのが聞こえた。聞こえないふりをした。




