第15話「怖いけど聞く」
深夜三時。目が覚めた。
理由は分かっている。窓際に誰かがいる。カーテンの隙間から差し込む月光に照らされて、人の輪郭が浮かび上がっている。
冷たい。足先から這い上がる冷気。毛布を掴む手が震える。
「——怖い」
声に出す。出さないと体が固まってしまう。
前世で、お化け屋敷に連れて行かれたとき。暗闘の中でゾンビが飛び出してきて、私は気絶した。友達に「そこまで怖がる人初めて見た」と言われて、二度とお化け屋敷には行かないと誓った。
なのに今、毎晩がお化け屋敷である。しかもセットではなく本物。
「あの——」
窓際の影が口を開く。女の声。若い。
「ごめんなさい、起こしてしまって。でも誰も聞いてくれないの」
お決まりの台詞だ。「誰も聞いてくれない」。幽霊たちはみんなそう言う。何年も、何十年も、誰にも声が届かなかった人たち。
怖い。足が冷たい。心臓がうるさい。
でも。
「……聞きます」
毛布を肩にかけて、ベッドの上に座り直す。震えているけど、向き合う。
ハロルドが壁から顔だけ出した。「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないけど大丈夫です。顔だけ出すのやめてください、それが一番怖いので」
「すまん」
体ごと出てきた。それはそれで怖いが、顔だけよりはましだ。比較対象がおかしいことに、もう慣れてしまった。
窓際の女性は、名前をリナと言った。二十歳で亡くなっている。病ではなく事故。馬車に轢かれた。
「婚約者に——伝えたいことがあるの。婚約を解消していいって」
「解消?」
「私が死んで、もう三年になるわ。彼、まだ私を待っている。毎週お墓に来て、花を供えて、独り言を言ってる。『リナが戻ってきたら』って」
リナの声が苦しそうに揺れる。
「戻らないのに。もう戻れないのに。あの人の時間が止まったままなの」
冷気が強くなる。リナの感情が溢れているのだ。寝室の温度がぐっと下がって、吐く息が白くなる。
怖い。本当に怖い。寒いし怖いし眠いし怖い。
「分かりました。明日——」
「待って。もう一つ」
リナが私の方に一歩近づく。月光の中で、彼女の輪郭が揺れる。
「怖がらないで」
「無理です」
「……ごめんなさい」
「いえ、怖いのは私の問題なので。気にしないでください。で、もう一つというのは」
「彼の机の引き出しに、私が書いた手紙が入っているの。読まないでって言って渡したやつ。あれを——読んでほしい」
「読まないでって言ったのに?」
「死んだ後なら、いいかなって」
死んだ後なら。その言葉の重さが、胸に落ちてくる。
リナが笑った。幽霊の笑顔は少し透けていて、向こう側の壁が見える。きれいだけど、やっぱり怖い。
翌日、リナの婚約者を訪ねた。ピッピとアルヴィンが一緒だ。
婚約者の名前はトーマス。仕立て屋で働いている青年で、針と糸を持つ手が細くて器用そうだった。
「リナから?」
トーマスの手が止まる。針が布に刺さったまま、動かない。
「どうして——あなたがリナを」
「信じていただけないかもしれませんが」
「いつもの出だしだな」とアルヴィンが横で呟く。うるさい。
私はリナから聞いた話をした。婚約を解消していいこと。手紙を読んでほしいこと。
トーマスの顔が強張る。
「解消? リナが?」
「あなたの時間を止めたくないと」
「俺が止めてるんじゃない。止まったんだ。リナがいなくなった日に」
仕立て屋の作業台に、布と糸とハサミが散らばっている。窓から差し込む光の中で、ほこりがゆっくり舞う。
トーマスが引き出しを開けた。封を切っていない手紙が一通。
「読まないでって言われたんだ。だから三年間、開けなかった」
「今なら——開けていいと思います」
トーマスの指が震えながら封を切る。便箋を広げる。
読んでいる間、トーマスの目が何度もまばたきする。便箋に雫が落ちた。
リナが隣に立っている。見えていない。見えないけれど、リナはトーマスの横で同じ手紙を読んでいる。
「——馬鹿だな、こいつ」
トーマスが鼻をすすった。
「『もし私がいなくなっても、あなたは笑っていてね。あなたの笑った顔が好きだから』だって。こんなの——読んだら泣くに決まってるだろ。だから読むなって言ったのか、こいつ」
リナがうなずいている。泣いている。幽霊なのに、涙が見える。
私も泣いている。アルヴィンの方を見たら、彼は窓の外を向いていた。横顔の耳が赤い。
ピッピだけが「素敵なお手紙ですね」と平常運転だった。鈍感は最強の盾である。
トーマスが手紙を畳む。丁寧に、元の折り目通りに。
「伝えてくれ。分かったって。笑うって。……すぐには無理だけど」
リナの体が光り始める。薄くなっていく。
「ありがとう」
リナの声が私だけに聞こえる。小さくて、温かくて、もう消えそうな声。
「あなた、泣き虫ね」
「よく言われます」
「でも——聞いてくれて、ありがとう」
リナが消えた。
仕立て屋を出て、通りを歩く。夕方の風が髪を揺らす。
「リーゼロッテ」とハロルドが言う。
「何ですか」
「怖かったか。昨夜」
「怖かったです。深夜三時に窓際に人がいたら誰でも怖いです」
「でも聞いた」
「聞きました」
「なぜだ」
立ち止まる。夕日が建物の隙間から差し込んで、路地を橙色に染めている。
「怖いのは変わらないんです。たぶん一生変わらない。お化け屋敷で気絶した女が、急に度胸がつくわけない」
「だが」
「でも——放っておけないんです」
ハロルドが黙る。
「リナさんの声を聞かなかったら、トーマスさんは一生あの手紙を読まなかった。止まったまま、ずっと」
風が吹く。夕焼けの匂い——屋台の焼き栗と、どこかの暖炉の煙が混じった、秋の夕方の匂い。
「怖いのは変わらない。でも、放っておけない。それだけです」
ハロルドが笑う。「お前らしい理由だな」
「格好悪いですか」
「格好悪い。だがいい」
アルヴィンが後ろから追いついてきた。
「今の話——聞こえていた」
「盗み聞きですか」
「声が大きいんだ、お前は」
祓魔師の顔が夕日に照らされている。銀髪がオレンジに染まって、いつもの堅い表情が少し柔らかく見える。
「俺も——聞く側に回れるだろうか」
「祓魔師が?」
「祓魔師だって、聞くことくらいできるはずだ。……たぶん」
「たぶん、ですか」
「うるさいな」
ピッピが焼き栗を四つ買ってきた。一つはハロルドの分だと言って、空中に差し出している。ハロルドは食べられないのだが、ピッピはそれを知らない。
「ピッピ、ハロルドさんは——」
「あら、食べないんですか? 遠慮しないでくださいね」
ハロルドが「もらえるなら食いたいんだがなぁ」と苦笑する。
焼き栗は熱くて、甘くて、手のひらがじんわり温かい。
怖いのは変わらない。きっとこれからも変わらない。
でも——温かいものを持って歩ける。それだけで、少しだけ怖くない。




