第13話「泣き虫令嬢」
異名というのは、本人の知らないところで育つものだ。
市場で買い物をしていたら、果物屋のおじさんに声をかけられた。
「あんた、もしかして噂の——泣き虫令嬢かい?」
林檎を持つ手が止まる。
「泣き虫令嬢」
「ああ、最近この辺じゃ有名だよ。断罪されたファントム伯爵のお嬢様が、街で人助けをしてるって。ただ毎回泣いてるもんだから、泣き虫令嬢だ」
有名になっていた。泣いてるところが。
「泣いてません」
「花屋のアンナちゃんが言ってたぜ。『あの方、私より泣いてました』って」
「それは——花粉が」
「東通りの孤児院でも泣いてたんだろ? 院長が『匿名の寄付を届けてくれた女の子が、なぜか大泣きしてた』って」
「あれは秋の花粉で」
「秋に花粉はないだろ」
おじさんが豪快に笑う。林檎を一つおまけしてくれた。泣き虫への同情なのか、応援なのか分からない。
ハロルドが隣で肩を揺らしている。笑いを堪えているのだ。百年生きて——いや百年死んで、まだ人の不幸で笑えるとは大した幽霊である。
「ハロルドさん」
「何だ」
「笑わないでください」
「笑ってない。口角が上がってるだけだ」
「それを笑ってるって言うんです」
市場を歩いていると、視線を感じる。前は「断罪された令嬢」として好奇の目で見られていた。今は——なんだろう。温かいような、面白がっているような。
「あの子だよ、泣き虫令嬢」
「えっ、あの人が? 普通に歩いてるけど」
「泣いてない時は普通の令嬢なんだよ」
「泣いてない時は、って」
ひそひそ話が聞こえる。聞こえなくていい情報が全部聞こえる。
ピッピが荷物を抱えて隣を歩く。「お嬢様、泣き虫令嬢って呼ばれてるんですね」
「知ってたの?」
「はい。三日前から知ってました」
「三日も前から!? なんで教えてくれなかったの!」
「お嬢様が泣き虫なのは事実ですし」
「ピッピ、あなた時々すごく辛辣よね」
「事実を申し上げているだけです」
事実だから反論できない。私は確かに泣く。幽霊の話を聞くたびに泣く。母と娘の再会で泣き、泥棒の最後の笑顔で泣き、兵士の手紙やパン屋のおばさんのレシピでも泣いた。
前世でも泣き虫だった。映画のエンドロールで泣く。CMで泣く。電車で読んでた漫画で泣く。「泣きすぎだよ」と友達に笑われていた。
でも——泣き虫を売りにしたいわけじゃない。
伯爵令嬢の矜持として言わせてもらえば、人前で泣くのは本意ではないのだ。涙が勝手に出るだけで、止め方を知らないだけで。
「お嬢様、あちらのパン屋さんでクリームパンが出てますよ」
「ピッピ、話を逸らさないで」
「逸らしてません。クリームパンの情報を共有しただけです」
「……買うけど」
クリームパンを齧りながら歩く。甘いクリームが舌に広がって、少しだけ気が紛れる。泣き虫令嬢はクリームパンで機嫌が直る。安い。
帰り道、ベンチに座っていたら、小さな女の子が近づいてきた。五歳くらい。花を一輪持っている。
「おねえちゃん、泣き虫令嬢?」
「……そう呼ばれてるみたいね」
「おかあさんが言ってた。泣き虫令嬢は、死んだおじいちゃんのお願いを聞いてくれるんだって」
ぎくりとする。
「おじいちゃんが、おかあさんに言いたいことがあるんだって。おねえちゃん、聞いてくれる?」
女の子の後ろに——老人の幽霊が立っていた。皺だらけの顔で、優しそうで、でも寂しそうに笑っている。
冷たい空気が足元から這い上がってくる。
怖い。何度経験しても慣れない。幽霊の冷気は骨の芯まで届く。
でも。
「……うん。聞くわ」
私は女の子の隣に座って、見えない老人の話を聞いた。
内容はささやかなものだった。「棚の上の缶に、孫の誕生日用のお金を入れてある。見つけてやってくれ」。
女の子のお母さんに伝えたら、最初は怪しまれて、でも棚を確認したら本当に缶があって。お母さんが泣いて、女の子が泣いて、私も泣いた。
ハロルドが言った。「また泣いてる」
「また泣いてます」
「泣き虫令嬢の名に恥じないな」
「恥じたいです。できれば」
夕暮れの帰り道。ハロルドと並んで歩く。彼は夕日に照らされても影ができない。
「なぁ、リーゼロッテ」
「何ですか」
「泣けるのは強さだ」
ハロルドの声にいつものふざけた調子がない。
「俺は騎士だった。騎士は泣かない。泣いてはいけない。戦場で仲間が死んでも、歯を食いしばって前を向いた。それが正しいと思っていた」
百年前の騎士が、夕焼けの中で少しだけ透ける。
「でもな——泣かなかったから、言えなかったんだ。エリーゼに。好きだと。失うのが怖いと」
「ハロルドさん」
「泣けるお前は、強いよ。他人の痛みで泣けるのは——才能だ」
そんなこと言われたら余計に泣くじゃないか。
目の奥が熱くなる。鼻がつんとする。夕焼けが滲んで、オレンジ色の世界がぐにゃりと歪む。
「泣き虫令嬢で——いいんじゃないか」
ハロルドの手が、私の頭の上に伸びる。触れない。すり抜ける。でも、冷たい空気が髪を撫でたような気がする。
「……よくないです」
「なぜ」
「だって、泣いてたら前が見えないから」
「俺が見てやる。お前が泣いてる間、前はこっちで見ておく」
百年前の騎士にしては、ずいぶん気の利いたことを言う。
「ずるいですよ、ハロルドさん」
「何がだ」
「そういうこと言うの。泣くじゃないですか」
「泣けばいい」
泣いた。ベンチの上で、クリームパンの袋を膝に抱えて、夕焼けの中で泣いた。
ピッピが遠くから走ってきた。「お嬢様ー! 栗饅頭も売ってましたー!」
最悪のタイミングで最高の鈍感力。
「……買って」
「はい! 二つですか?」
「三つ」
「三つ!」
泣き虫令嬢は、甘いもので涙を止める。効率がいいのか悪いのか、自分でも分からない。
でも——泣き虫と呼ばれるなら、泣いた分だけ誰かの声を聞けている証拠だ。
たぶん。
市場の片隅で、また新しい幽霊が私を見つけて手を振っている。
怖い。やっぱり怖い。でも——手を振り返した。




