第11話「母の謝罪」
花屋の前を通りかかったとき、薔薇の甘い匂いに混じって、湿った土の気配がした。
雨上がりの王都は、石造りの建物がどこか柔らかく見える。水たまりに映る空を踏まないように歩いていたら、ハロルドが急に立ち止まった。
「リーゼロッテ。あの女性、見えるか」
見えている。花屋の軒先に、中年の女性が立っていた。エプロン姿で、両手を前に組んでいて、俯いている。
足元に影がない。
「……幽霊ですね」
「ああ」
「知ってました。知ってましたけど確認したかったんです。影がない人は全員幽霊であってほしくないという希望がありまして」
「残念ながら」
「ですよね」
花屋の女主人——生きている方の——が店の奥に引っ込むと、幽霊の女性がこちらを向いた。
目が合う。
幽霊の目は、いつも少しだけぼんやりしている。でもこの人の目は、もう一段暗い。泣き腫らしたように赤いのだ。幽霊なのに。死んでいるのに。泣いた跡があるというのは、どういうことなのだろう。
「あの——」
私が声をかける前に、女性の方から歩いてきた。
「見えるのね。お願い、お願いよ。娘に——アンナに伝えてほしいの」
声が震えている。
ハロルドが私の隣で腕を組む。「話を聞いてやれ。俺が横にいる」
「ハロルドさん、横にいても怖いものは怖いんですが」
「安心しろ、この方は穏やかだ。噛みつかない」
「幽霊って噛みつくんですか?」
「冗談だ」
「冗談じゃない情報を混ぜないでください!」
女性——名前はマルタというらしい——は三年前に病で亡くなっていた。
花屋の前にいたのは偶然ではない。ここがかつて自分の店だったからだ。娘のアンナが今は一人で切り盛りしている。
「あの子に、謝りたいの」
マルタの声は途切れがちで、何度も言い直す。生前、アンナが花屋を継ぎたいと言ったとき、反対してしまったのだという。
「もっといい仕事があるでしょうって。花屋なんて儲からないって。ひどいことを言ったわ。あの子が一番好きなものを、否定してしまった」
反対を押し切ってアンナは花屋を継いだ。それでもマルタは最後まで認めない。病床でも「あの店を畳みなさい」と言い続けて、それが最期の会話になった。
「本当は——嬉しかったのよ。あの子が私と同じものを好きになってくれて。でも苦労するのが分かっていたから」
マルタの手が、花屋の看板に触れようとして——すり抜ける。
指先が、何も掴めない。
「伝えてくれない? 花屋を続けていいのよって。お母さんは本当は嬉しかったのよって」
冷たい風が首筋を撫でた。幽霊の感情が溢れると、周囲の温度が下がる。もう慣れたけれど、慣れたくはなかった。
「……分かりました」
私はマルタに頷いて、花屋の扉を開けた。
アンナは二十代前半の、そばかすのある女の子だった。エプロンの裾が泥で汚れていて、爪の間にも土が挟まっている。花屋の仕事をちゃんとしている手だ。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「あの、突然すみません。少しお話を——」
「お花のご相談でしたら何でも」
「お花ではなくて。お母様のことで」
アンナの手が止まった。
水差しを持ったまま、ゆっくりとこちらを向く。笑顔が消えている。
「……母は三年前に亡くなりましたけど」
「存じています。その——信じていただけないかもしれませんが」
私はいつもこの瞬間が一番つらい。幽霊が見えるなんて話を、生きている人にどう伝えればいいのか。正解はまだ見つかっていない。
「お母様が、伝えたいことがあると」
アンナの表情が固くなる。
「何かの詐欺ですか」
「違います」
「母の名前を使って近づいてくる人、前にもいました。お引き取りください」
「マルタさん、ですよね。生前はこのお店をご自分で——」
「調べれば分かることでしょう」
正論である。
私は幽霊詐欺師だと思われている。マルタが私の隣で「お願い、お願いよ」と繰り返す声が、耳の奥で反響する。
ハロルドが小声で言う。「生前しか知らないことを伝えろ」
マルタに聞いた。
「アンナが五歳のとき——店の裏庭に種を撒いたことがあるそうですね。マルタさんの大事なダリアの花壇に、ひまわりの種を」
アンナの目が大きくなる。
「マルタさん、怒ったふりをして——でも夜中にこっそり水をやっていた、と」
「——やめて」
アンナの声が裏返った。
「やめてください。なんで、なんでそれを」
水差しが手から滑り落ちて、陶器が割れる。水が床に広がっていく。
マルタが泣いている。アンナには見えない。見えないけれど——アンナも泣いていた。
「お母様は、花屋を続けていいとおっしゃっています」
言葉が喉に引っかかる。他人の涙を見ると、つられてしまうのは前世からの体質だ。
「本当は嬉しかったと。あなたが同じものを好きになってくれて」
アンナがしゃがみ込む。割れた水差しの破片に構わず、膝を抱えて泣く。
「嘘つき。お母さんは最後まで——最後まで認めてくれなかったのに」
「認められなかったんです。苦労を知っていたから。でも——」
マルタが、娘の肩に手を伸ばす。触れられない。すり抜ける。それでも伸ばす。
その手に冷たい光が宿っているのが見えた。
「——でも、あなたの手を見て。お母様と同じ手だって、喜んでいましたよ」
アンナが自分の手を見る。土と水で汚れた、花屋の手。
「お母さんと……同じ?」
「はい。同じです」
マルタが笑った。泣きながら笑った。幽霊が笑うと、空気が少しだけ温かくなることを、私はこの日初めて知った。
アンナが顔を上げる。涙で睫毛がくっついている。
「ありがとう、ございます。あなた——泣いてますよ」
「泣いてません」
泣いていた。ぼろぼろに泣いていた。
ハロルドが隣で呆れたように笑う。「お前は毎回泣くなぁ」
「泣いてません」
「鼻水出てるぞ」
「ハロルドさんのせいです」
「俺のせいではないだろう」
マルタの姿が薄くなっていく。未練が解けるとき、幽霊は光に溶ける。
最後にマルタが口を動かした。声はもう聞こえない。でも、読めた。
「ありがとう」
花屋の店先に、薔薇の香りが戻ってくる。冷気が消えて、春の空気がじんわりと肌を包む。
アンナが立ち上がって、割れた水差しを拾い始めた。
「あの——お花、一つ差し上げます。お礼に」
「いえ、そんな」
「もらってください。母が好きだったダリアを」
赤いダリアを一輪、受け取った。
帰り道、ハロルドが空を見上げて言った。
「俺も——伝えたい相手がいるんだがな」
「エリーゼさん、ですか」
「ああ。……まぁ、百年も経ってるから。子孫がいればいいんだが」
赤いダリアの花弁が、風に揺れている。
ハロルドの未練。百年前の恋人。いつか必ず——。
「見つけましょう。エリーゼさんの子孫を」
「……泣きながら言われると説得力がないぞ」
「だから泣いてないって言ってるじゃないですか!」
鼻声なのは、花粉のせいだ。絶対に。




