第10話「恋人の名前」
手がかりは、王宮の書庫にあった。
結局、アルヴィンの依頼を受けることにした。王宮の幽霊を調べるついでに——というか、正直に言えばそちらが本命で——百年前の住民記録を閲覧する許可を得たのだ。
「東棟の調査はあとで構いません。まず書庫に行かせてください」
「優先順位がおかしくないですか、ヴァイセンブルク嬢」
「おかしくないです。個人的な用事が先です」
アルヴィンが額に手を当てた。祓魔師にため息をつかせる元婚約者。
王宮の書庫は地下二階にある。蝋燭の灯りだけが頼りで、羊皮紙と古い革の表紙のにおいが鼻を突く。埃っぽくて、冷たくて、暗い。
怖い。地下は怖い。
「お嬢様、ここ、ちょっと肝試しみたいですね!」
「楽しまないで、ピッピ」
「でも冒険感がすごいです!」
この子の鈍感力は地下でも健在。
百年前の住民台帳を探す。分厚い革表紙の帳簿が年代順に並んでいて、ハロルドが「俺が生きていた頃は……だいたいこのあたりだ」と指さした棚を片端から引き出していく。
「エリーゼ。花屋の娘。百年前」
情報が少ない。姓も分からない。花屋という職業と名前だけで、王都の住民台帳から探し出すのは気の遠くなる作業。
「ハロルドさん、花屋の場所は覚えてますか?」
「城門前の大通り沿いだ。朝日が当たる東側」
「住所が分かれば絞れますね。アルヴィンさん、百年前の城門前の商業登録簿はありますか?」
「……なぜ私が手伝うことになっているんですか」
「祓魔師のお仕事に協力するんですから、こちらにも協力してくださいよ」
「取引のつもりですか」
「はい」
アルヴィンが二度目のため息をついて、商業登録簿を探し始めた。祓魔師を助手にする公爵令嬢。前代未聞だと思う。
三時間かかった。
蝋燭が二本燃え尽き、ピッピが居眠りを始め、ハロルドが「俺がページをめくれればな」と嘆いたころ——見つけた。
城門前東側、第七区画。花屋『ヴェルデの花束』。店主:グレーテル・ヴェルデ。娘:エリーゼ・ヴェルデ。
「エリーゼ・ヴェルデ」
読み上げた瞬間、ハロルドの気配が変わった。
冷気がぐんと強まる。書庫の蝋燭が一斉に揺れて、棚の上の埃が舞い上がる。
「エリーゼ……エリーゼ・ヴェルデ……」
百年間、知らなかった恋人の姓。言えなかった「好きだ」の相手の、完全な名前。
「ハロルドさん、落ち着いて。冷気がすごいことになってます」
「すまん。すまん、ちょっと——百年分、込み上げてきた——」
ハロルドの声が震えている。半透明の体がゆらゆらと揺れて、輪郭がぼやける。
「エリーゼ・ヴェルデ。花屋の娘。俺が毎朝会いに行った——」
「はい。名前が分かりました。次は子孫を探しましょう」
「子孫——」
「ヴェルデ姓で追えるはずです。結婚していたら姓が変わっているかもしれないけれど、住民台帳を辿れば——」
「リーゼロッテ」
ハロルドが私の名前を呼んだ。いつもと違う声で。陽気でもなく、からかうでもなく。
「ありがとう」
「……まだ見つかってませんよ。名前が分かっただけ」
「名前が分かっただけで——百年、それだけが知りたかったんだ」
返す言葉が見つからなくて、私は羊皮紙の帳簿に目を落とした。インクが褪せた百年前の文字。エリーゼ・ヴェルデ。誰かが記録として書き残した名前が、百年後に幽霊を救おうとしている。
「お嬢様? お嬢様、泣いてます?」
ピッピが目を覚ましていた。
「泣いてない」
「泣いてますよ。ほっぺた濡れてます」
「埃が目に入っただけ」
「地下の書庫って埃っぽいですもんね! 分かります!」
分かってない。でもいい。
「ヴァイセンブルク嬢」
アルヴィンが次の帳簿を抱えて戻ってきた。
「ヴェルデ姓の記録、十年刻みで追いました。エリーゼ・ヴェルデは、ハロルド・ヴァン・ウェルデンシュタインの戦死後——結婚しています」
ハロルドの冷気が、一瞬止まった。
「結婚の記録。八十七年前。相手はフリードリヒ・ベッカー。パン屋。子供が二人。息子のオットーと、娘のマリア」
「パン屋……」
「そこから三代辿ると——」
アルヴィンが帳簿のページを指で押さえた。銀の瞳が文字を追っている。
「現在、ベッカー姓でこの町に住んでいる人物が一名。マルタ・ベッカー。市場東側のパン屋」
え。
マルタ。
ヒマワリの看板のパン屋の、マルタ。
あの——おばさんの幽霊にレシピを届けた、あのマルタ?
「嘘でしょう」
「住民台帳は嘘をつきません」
マルタはエリーゼの曾孫だ。
パン屋のおばさんの幽霊は——エリーゼの孫で、マルタの祖母で——つまりあのレシピは、ハロルドの恋人の家系に伝わるレシピだったのだ。
「なあ——リーゼロッテ——」
「はい」
「俺が百年間探していた人の曾孫に——お前は、最初の依頼で出会っていたのか」
「……そうみたいです」
偶然? 運命? どちらでもいい。
大事なのは、繋がったこと。ハロルドのエリーゼから、マルタまで。百年の時間が、パンのレシピと一緒に受け継がれていた。
「すごいな——すごいな、人の繋がりって——」
ハロルドが笑っている。泣いている。半透明の顔に涙の跡は残らないけれど、声は確かに濡れている。
「ハロルドさん」
「ん」
「マルタさんに会いに行きましょう。エリーゼさんのこと、伝えましょう」
「……何を?」
「百年前に、あなたのことが好きだった人がいたって。花を一輪持っていった騎士がいたって」
「……それで、成仏できるかな」
「分かりません。でも——」
言葉を探す。書庫の薄暗い光のなかで、半透明の騎士の目を見る。
「好きだったって、伝わるだけで救われる人がいるのを、私はもう知っています」
修道女のことを思い出している。パン屋のおばさんのことを。兵士のルーカスのことを。
「泣ける話だけど、ハロルドさん」
「ん?」
「また距離が近いです」
「あ」
「感動して近づくの、もうパターンですからね」
「くせなんだ。許してくれ」
「許しません。三メートル」
ピッピが「お嬢様、壁とすごく盛り上がってますね!」と言うので「壁じゃない!」と叫んだ。
アルヴィンが「……そろそろ東棟の調査を」と冷静に言うので「はい、行きます」と答えた。
百年前の恋人の名前。その子孫の居場所。
ピースが揃い始めている。
あとは——ハロルドの想いを届けるだけ。
怖いことリストは相変わらず長いけれど、その中に「嬉しいこと」が混ざり始めている。
混ざらなくていいのに。
怖がりのままでいさせてほしいのに。
——まあ、無理か。
半透明の騎士が、泣きながら笑っているのだから。




