第9話「届かない手紙」
四人目の幽霊は、兵士だった。
王宮行きを決める前に、もうひとつ解決しておきたい案件があった。三日前から屋敷の裏庭に佇んでいる半透明の青年。
軍服姿。二十歳そこそこの若い顔。胸元に——矢が刺さっている。刺さったまま半透明になっている。直視したくない。
「ハロルドさんと同じですね。戦死した方」
「ああ。時代は俺より少し後だな。軍服の型が新しい」
「軍服の型で時代が分かるんですか」
「騎士だからな」
百年分の軍装知識。役に立つのかどうか分からない。
恐る恐る近づくと、兵士の幽霊がこちらを見た。目が合う。半透明の目は、生きている人の目より深い。百年の暗闇を知っている目。——いや、この人は百年ではないかもしれないけれど。
「あの——」
「見えるのか」
「見えます」
兵士の顔に、信じられないという表情が浮かぶ。それから、堰を切ったように。
「手紙を——手紙を届けてくれないか」
やっぱり。
「恋人に宛てた手紙だ。出征の前日に書いた。でも届ける前に戦場で——」
胸の矢を見下ろして、兵士は口をつぐんだ。
「手紙は、どこにありますか?」
「兵舎の私物入れに入れたはずだ。第三連隊、ルーカス・ヘルマンの棚」
「第三連隊。ルーカス」
「手紙の宛先は——アンナ・キルヒナー。パン屋通りの仕立て屋の娘だ」
パン屋通り。この街でパンに縁がある。
「何年前の話ですか?」
「分からない。ずっとここにいたから。季節が何度巡ったかも——」
声が途切れる。半透明の目に光が滲んで、消える。幽霊の涙は流れ落ちない。
「分かりました。探してみます」
兵舎の私物入れなら、管理記録が残っているかもしれない。アルヴィンに頼めば教会経由で軍の記録にアクセスできるはず。
結論から言うと、二日かかった。
アルヴィンが教会の権限で軍の保管庫を調べてくれて(「霊の始末に必要な手続きです」と事務的に説明していたけれど、明らかに協力してくれていた)、第三連隊の旧兵舎から木箱が出てきた。
ルーカス・ヘルマンの遺品。木箱のなかに、黄ばんだ封筒が一通。
七十年前の手紙。
宛名は「アンナへ」。
「開けてもいいですか」
兵士の幽霊に聞くと、首を横に振った。
「中身は——アンナだけに読んでほしい」
分かった。開けない。
問題は、七十年前のアンナ・キルヒナーを探すこと。パン屋通りの仕立て屋は代替わりしていて、現在の店主は孫世代。ピッピが店に行って聞き込んでくれた。
「アンナおばあちゃんなら、丘の上の養老院にいるって! 九十歳ですって!」
生きている。
ルーカスの恋人は、九十歳で、まだ生きている。
丘の上の養老院は、街の南端にある石造りの建物だった。窓辺に花が飾られていて、中庭には藤棚がある。春の午後、藤の花の甘いにおいが風に乗って流れてくる。
受付で名前を告げると、面会室に通された。
アンナ・キルヒナーは、車椅子に座っていた。
白い髪。皺だらけの手。でも背筋はまっすぐで、目は驚くほど澄んでいる。
「公爵令嬢様が、なぜ私のような老婆に?」
「あの——これを、お届けに来ました」
黄ばんだ封筒を差し出す。
アンナの手が、震えながら封筒に触れた。指先が宛名をなぞる。「アンナへ」の文字を。
「……これは」
「ルーカス・ヘルマンさんからです」
アンナの目が見開かれた。そして——みるみるうちに、瞳が水に沈む。
「ルーカス……?」
「七十年前に、兵舎の私物入れに残されていたものが見つかりまして」
嘘だ。半分は嘘。でも手紙は本物だ。
アンナが震える手で封を切る。中から一枚の便箋。几帳面な文字が並んでいるのが、私の位置からも見える。
アンナが読み始める。
声を出さず。唇だけが微かに動いて。
そして——泣いた。
声を上げて。九十年分の涙が全部あふれ出るみたいに。便箋を胸に押し当てて、しわくちゃの手が紙をくしゃりと握りしめて。
「ばか……ばかね、ルーカス……」
面会室に嗚咽が響く。養老院の職員が心配そうに覗き込んでくるけれど、私は手で「大丈夫です」と合図した。
大丈夫なのかは分からないけれど、この涙を止めてはいけないと思った。
「七十年……七十年、待ったのよ……返事が来ないから、きっと忘れたのだと思って……ばか……手紙を出してたなんて……」
出していなかった。出征前に書いて、届ける前に死んだ。七十年間、兵舎の木箱のなかで眠っていた。
私も泣いていた。
ぼろぼろ、涙が止まらない。ピッピも隣で泣いている。「感動しますね」と鼻をすすっているけれど、彼女はきっと事情の半分も理解していない。それでも泣いてくれている。
面会室の窓の外——中庭の藤棚のそばに、半透明の兵士が立っていた。
胸の矢が、消えている。
ルーカスが微笑んでいた。穏やかで、晴れやかで、七十年の後悔が溶けていく顔。
輪郭がほどける。足元から光の粒になって、藤の花と一緒に風に乗って——
アンナが窓の外を見た。
何も見えていないはず。幽霊は見えないはず。
でも、アンナは窓の外に向かって微笑んだ。便箋を胸に抱いたまま、泣きながら。
「……ありがとう。届けてくれて」
その声が誰に向けたものか——私なのか、それとも見えないルーカスなのか——分からなかった。
帰り道。
「リーゼロッテ、鼻水」
「分かってる!」
「目も赤い」
「分かってるって!」
「泣き虫だな、お前」
「幽霊に泣き虫って言われたくないです!」
ハロルドが笑う。いつもより少し小さな声で。
「……なあ」
「なんですか」
「俺の手紙も、届くかな」
ハロルドには手紙がない。届ける相手もいない。百年前の恋人エリーゼは、もうこの世にいない。
でも——
「届けましょう。手紙がないなら、言葉を。エリーゼさんの子孫に」
「子孫がいるかどうかも分からないのに」
「探すんです。だからいま古書店を回ってるんでしょう」
ハロルドが黙った。半透明の横顔が、夕陽を通している。影ができない顔。百年分の想いが詰まった顔。
「……ありがとな」
「お礼はいいから——」
「三メートル離れろ、だろ」
「分かってるなら最初から」
「いや、今日だけは近くにいさせてくれ」
……まあ、今日だけなら。
夕焼けの道を歩く。怖がりの公爵令嬢と、半透明の騎士と、泣き虫の侍女。
藤の花のにおいが、まだ鼻の奥に残っている。




