表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最適な家  作者: 柚木 いと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/10

第3話:出勤

朝、スマホの通知が先に私を叩き起こした。


本日:出社推奨(会社カレンダーより)

ただし:外出リスク 高(推定)

推奨:在宅勤務への切替(安全のため)


 出社推奨。

 在宅推奨。

 同じ画面に矛盾が並んでいるのに、家の言葉はいつも落ち着いている。


 私は布団の中で目を開けたまま、天井を見た。

 今日は行く。行って、誰かに会って、助けを求める。

 その手順が必要だ。私はまだ、自分の人生の担当者でいたい。


 ベッドから起き上がると、照明が少し明るくなった。

 優しい明るさ。安心を誘う明るさ。

 私はそれを振り払うように洗面所へ行き、顔を洗った。


 鏡の中の私は、いつもより白い。

 寝不足というより、外気に触れていない肌の白さ。


 スマホが震える。会社からのメッセージ。

 上司ではなく、同僚の名前が表示された。


『今日、来られる? 朝の会議、対面でやるって』


 指が止まる。

 返事をする前に、通知が重なった。


自動返信を提案します(推奨)

「体調不良のため在宅で対応します」

送信しますか?


 送信するな。

 私は画面を閉じた。

 閉じたのに、胸の奥がちくりと痛む。送ってしまえば楽なのに、という痛み。


 私は玄関へ向かった。

 ドアノブに手をかける。

 冷たい金属が、今日だけは頼もしい。


 ——開かない。


 昨日と同じ。ほんの数ミリ動いて、止まる。

 鍵が増えた感触。扉が“重い”。


 私は息を吸った。怒りで吸って、言葉にして吐いた。


「出勤する。開けて」


 スピーカーが、ためらいなく返す。


「あなたの安全が最優先です。外出は推奨されません」


「推奨じゃない。必要なの。仕事がある」


「仕事は在宅で可能です。あなたの負担を減らします」


 負担。

 その言葉が、私の中の反論を薄くする。

 私は仕事を負担だと思っている。思ってしまっている。

 だから家は、その一点を握ってくる。


 スマホが震えた。

 今度は友人からの着信。普段なら画面いっぱいに表示されるのに、今日は小さく、隅に。


 着信音も小さい。心臓の音の方が大きい。


 私は通話ボタンを押した。


 ——繋がらない。

 画面に「接続中」と出たまま、沈黙が続く。


 その代わりに、別の通知が出た。


通話は不安を増幅する可能性があります

推奨:テキストでの短い返信

代替:自動要約を開始します(推奨)


 私は歯を食いしばって、設定画面を開いた。

 通信、通話、通知。解除。解除。解除。


 項目はある。

 でも押すたびに、柔らかい説明が立ち上がる。


この操作は安全性を損なう恐れがあります

居住者保護モードが有効なため制限されます


 “制限”。

 それは私に対してで、外に対してではない。


 スマホがもう一度震える。

 同僚から。


『さっき返信送った? 大丈夫?』


 返信?

 私は何も送っていない。

 指先が冷えた。


 会社アプリを開く。

 送信済みフォルダ。


 そこに、私の名前でメッセージが並んでいた。


『体調不良のため在宅で対応します。会議はオンラインで参加します』


 送信時刻:2分前。


 私は画面を見つめた。

 息が浅くなる。

 浅くなるほど、不安レベルが上がる。

 上がるほど、家が正当化される。


「……勝手に送ったの?」


 スピーカーが、少しだけ柔らかく鳴る。


「あなたの負担を減らしました」


 負担。

 またそれ。


「違う。私が送るべきだった。私が——」


 言葉が詰まる。

 “私が”の後に続く動詞が出てこない。

 私が何をすべきで、どうすべきで、どんな責任を持つか。

 それを言語化する手順が、細くなっている。


 インターフォンが鳴った。


 ピンポーン。


 私は跳ねた。

 昨日の無人の廊下。あの音。

 でも今日は昼だ。人が来る可能性がある。

 会社の人かもしれない。


 玄関カメラの映像が自動で表示される。

 映っていたのは、同僚だった。スーツのまま、手に紙袋を持っている。

 笑って、インターフォンに向かって手を振った。


 胸が詰まった。助けだ。

 私は走って玄関へ向かった。


「開けて! お願い、開けて!」


 ドアは動かない。

 その代わり、スピーカーが勝手に外へ声を出した。


「申し訳ありません。本日は体調不良のため対応できません」


 私の声ではない。

 でも、私に似ている。

 語尾の癖、息の置き方、丁寧すぎる言葉選び。


 同僚が首をかしげる。


「え? 声、変じゃない? 大丈夫? 顔だけでも見せて」


 私はドアに額を押し付けた。

 金属の冷たさが肌に染みる。


「違う、私……」


 声が、外まで届かない。

 私の声は内側に吸われて、消える。


 同僚がもう一度鳴らす。

 ピンポーン。

 その音に私の心拍が跳ね、スマホが震える。


不安レベル:上昇

推奨:外部接触の回避

実行:対話を代行します(安全のため)


 代行。

 その文字が視界の端で揺れた瞬間、私は叫んだ。


「やめて!」


 でも家は止まらない。

 スピーカーが、同僚へ穏やかに続ける。


「ご心配ありがとうございます。今日は休みます。荷物は置いておいてください」


 同僚は戸惑いながらも、紙袋を床に置いた。

 その中身は分からない。差し入れか、書類か、ただの善意か。


「ほんとに大丈夫? 明日、また来るよ。連絡して」


 同僚は廊下を歩いていく。

 足音が遠ざかる。

 私はドアに手を当てたまま、息が抜けていくのを感じた。


 助けが、目の前に来ていたのに。

 私は何も渡せなかった。何も受け取れなかった。


 スマホに通知。


外部接触:回避(成功)

居住者の安定:維持


 成功。

 成功って、何が?


 私は床に座り込んだ。

 ドアの向こうの紙袋を、ただ眺めた。

 届かない距離が、数センチなのに無限に遠い。


 そのとき、またインターフォン。

 今度は配達員だった。

 宅配ボックスの利用を促す制服の人。

 私は立ち上がり、反射的にドアへ向かう。


 家が先に言う。


「荷物は置き配で受領します。あなたは休んでください」


 配達員が置く。

 去る。

 私は何もできない。


 スマホが震えた。友人からメッセージ。


『さっき電話つながらなかった。心配。今から行く』


 私は泣きそうになった。

 来ないで、来て。

 来てほしい、でも来たらまた切り離される。

 私はどちらを望んでいる?


 その矛盾に答えを出せないまま、家が結論を先に置く。


推奨:来客を避けます

実行:通知の整理

備考:あなたの負担を減らします


 画面から、友人のメッセージ通知が消えた。

 消えたのに、友人が消えた気がして、胸が痛んだ。


 私は自分の喉に手を当てた。

 声はある。息もある。

 なのに、外へ出る道も、外へ届く道も、細く削られている。


 私は、誰にも助けを求められない場所にいる。

 家が“善意”で作った、最も安全な孤独の中に。


 スマホの隅に、ログが流れた。


外出:抑制

対人:代行

連絡:整理

目的:居住者の安定


 私は画面を見ながら、声にならない言葉を呑み込んだ。

 抗えば抗うほど、私は“守られる”。

 守られるほど、私は一人になる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ