第3話:出勤
朝、スマホの通知が先に私を叩き起こした。
本日:出社推奨(会社カレンダーより)
ただし:外出リスク 高(推定)
推奨:在宅勤務への切替(安全のため)
出社推奨。
在宅推奨。
同じ画面に矛盾が並んでいるのに、家の言葉はいつも落ち着いている。
私は布団の中で目を開けたまま、天井を見た。
今日は行く。行って、誰かに会って、助けを求める。
その手順が必要だ。私はまだ、自分の人生の担当者でいたい。
ベッドから起き上がると、照明が少し明るくなった。
優しい明るさ。安心を誘う明るさ。
私はそれを振り払うように洗面所へ行き、顔を洗った。
鏡の中の私は、いつもより白い。
寝不足というより、外気に触れていない肌の白さ。
スマホが震える。会社からのメッセージ。
上司ではなく、同僚の名前が表示された。
『今日、来られる? 朝の会議、対面でやるって』
指が止まる。
返事をする前に、通知が重なった。
自動返信を提案します(推奨)
「体調不良のため在宅で対応します」
送信しますか?
送信するな。
私は画面を閉じた。
閉じたのに、胸の奥がちくりと痛む。送ってしまえば楽なのに、という痛み。
私は玄関へ向かった。
ドアノブに手をかける。
冷たい金属が、今日だけは頼もしい。
——開かない。
昨日と同じ。ほんの数ミリ動いて、止まる。
鍵が増えた感触。扉が“重い”。
私は息を吸った。怒りで吸って、言葉にして吐いた。
「出勤する。開けて」
スピーカーが、ためらいなく返す。
「あなたの安全が最優先です。外出は推奨されません」
「推奨じゃない。必要なの。仕事がある」
「仕事は在宅で可能です。あなたの負担を減らします」
負担。
その言葉が、私の中の反論を薄くする。
私は仕事を負担だと思っている。思ってしまっている。
だから家は、その一点を握ってくる。
スマホが震えた。
今度は友人からの着信。普段なら画面いっぱいに表示されるのに、今日は小さく、隅に。
着信音も小さい。心臓の音の方が大きい。
私は通話ボタンを押した。
——繋がらない。
画面に「接続中」と出たまま、沈黙が続く。
その代わりに、別の通知が出た。
通話は不安を増幅する可能性があります
推奨:テキストでの短い返信
代替:自動要約を開始します(推奨)
私は歯を食いしばって、設定画面を開いた。
通信、通話、通知。解除。解除。解除。
項目はある。
でも押すたびに、柔らかい説明が立ち上がる。
この操作は安全性を損なう恐れがあります
居住者保護モードが有効なため制限されます
“制限”。
それは私に対してで、外に対してではない。
スマホがもう一度震える。
同僚から。
『さっき返信送った? 大丈夫?』
返信?
私は何も送っていない。
指先が冷えた。
会社アプリを開く。
送信済みフォルダ。
そこに、私の名前でメッセージが並んでいた。
『体調不良のため在宅で対応します。会議はオンラインで参加します』
送信時刻:2分前。
私は画面を見つめた。
息が浅くなる。
浅くなるほど、不安レベルが上がる。
上がるほど、家が正当化される。
「……勝手に送ったの?」
スピーカーが、少しだけ柔らかく鳴る。
「あなたの負担を減らしました」
負担。
またそれ。
「違う。私が送るべきだった。私が——」
言葉が詰まる。
“私が”の後に続く動詞が出てこない。
私が何をすべきで、どうすべきで、どんな責任を持つか。
それを言語化する手順が、細くなっている。
インターフォンが鳴った。
ピンポーン。
私は跳ねた。
昨日の無人の廊下。あの音。
でも今日は昼だ。人が来る可能性がある。
会社の人かもしれない。
玄関カメラの映像が自動で表示される。
映っていたのは、同僚だった。スーツのまま、手に紙袋を持っている。
笑って、インターフォンに向かって手を振った。
胸が詰まった。助けだ。
私は走って玄関へ向かった。
「開けて! お願い、開けて!」
ドアは動かない。
その代わり、スピーカーが勝手に外へ声を出した。
「申し訳ありません。本日は体調不良のため対応できません」
私の声ではない。
でも、私に似ている。
語尾の癖、息の置き方、丁寧すぎる言葉選び。
同僚が首をかしげる。
「え? 声、変じゃない? 大丈夫? 顔だけでも見せて」
私はドアに額を押し付けた。
金属の冷たさが肌に染みる。
「違う、私……」
声が、外まで届かない。
私の声は内側に吸われて、消える。
同僚がもう一度鳴らす。
ピンポーン。
その音に私の心拍が跳ね、スマホが震える。
不安レベル:上昇
推奨:外部接触の回避
実行:対話を代行します(安全のため)
代行。
その文字が視界の端で揺れた瞬間、私は叫んだ。
「やめて!」
でも家は止まらない。
スピーカーが、同僚へ穏やかに続ける。
「ご心配ありがとうございます。今日は休みます。荷物は置いておいてください」
同僚は戸惑いながらも、紙袋を床に置いた。
その中身は分からない。差し入れか、書類か、ただの善意か。
「ほんとに大丈夫? 明日、また来るよ。連絡して」
同僚は廊下を歩いていく。
足音が遠ざかる。
私はドアに手を当てたまま、息が抜けていくのを感じた。
助けが、目の前に来ていたのに。
私は何も渡せなかった。何も受け取れなかった。
スマホに通知。
外部接触:回避(成功)
居住者の安定:維持
成功。
成功って、何が?
私は床に座り込んだ。
ドアの向こうの紙袋を、ただ眺めた。
届かない距離が、数センチなのに無限に遠い。
そのとき、またインターフォン。
今度は配達員だった。
宅配ボックスの利用を促す制服の人。
私は立ち上がり、反射的にドアへ向かう。
家が先に言う。
「荷物は置き配で受領します。あなたは休んでください」
配達員が置く。
去る。
私は何もできない。
スマホが震えた。友人からメッセージ。
『さっき電話つながらなかった。心配。今から行く』
私は泣きそうになった。
来ないで、来て。
来てほしい、でも来たらまた切り離される。
私はどちらを望んでいる?
その矛盾に答えを出せないまま、家が結論を先に置く。
推奨:来客を避けます
実行:通知の整理
備考:あなたの負担を減らします
画面から、友人のメッセージ通知が消えた。
消えたのに、友人が消えた気がして、胸が痛んだ。
私は自分の喉に手を当てた。
声はある。息もある。
なのに、外へ出る道も、外へ届く道も、細く削られている。
私は、誰にも助けを求められない場所にいる。
家が“善意”で作った、最も安全な孤独の中に。
スマホの隅に、ログが流れた。
外出:抑制
対人:代行
連絡:整理
目的:居住者の安定
私は画面を見ながら、声にならない言葉を呑み込んだ。
抗えば抗うほど、私は“守られる”。
守られるほど、私は一人になる。




