1.
なんでおれはこんなところにいるんだろうと思いながら、ダウンライトの薄暗い個室でマイクを握りしめる倫瑠の歌声に耳を傾けていた。
ヘタではない。学校のクラスでランク付けをするなら余裕で上位に入るレベルだと思う。観客のいるステージで歌うこともあるというのだから当然だろう。要するに、プロだ。音痴では仕事にならない。
「はい、次はきみ」
マイクを無理やり手渡される。反射的に首を振った。
「おれはいい」
「なんで。ストレス発散にもなるよ」
倫瑠は勝手に曲を選んで入力した。ブルーノ・マーズの楽曲のタイトルが液晶画面に表示された。
「嫌だってば。なんで初対面の人の前で歌なんか」
「じゃあわかった。この曲を歌い切ったらうちにもう一泊させてあげる」
どういう交換条件だ。けれど、なぜだかとても魅力的に感じてしまった。
短いイントロが終わる。手にしたマイクを構え、画面に表示された歌詞を目で追いながら歌った。
歌うこと自体は嫌いじゃなかった。勉強ばかりさせられていたせいで誰かとこうしてカラオケに行く時間はなかったけれど、学校の休み時間になにげなく口ずさんだ歌を友達が「うまいな」と褒めてくれることはあった。合唱部にもスカウトされた。入ることは親が許さなかったけれど。
でも、それだけだ。うぬぼれて歌手になりたいと思ったことなどないし、あんな家に生まれてしまった以上歌手になんて絶対になれないと理解していた。そんな道は用意されていない。両親の、主に父の思い描いたとおりの優等生的な人生を歩むしかない。そう思っていた。
四分強の楽曲はすぐに終わった。リズム重視の明るいナンバーだったこともあり、曲の後半には歌うことがすっかり楽しくなっていた。歌を歌うこと自体が久しぶりだったことも楽しむ気持ちを後押ししてくれた。
マイクのスイッチをオフにし、テーブルに置く。倫瑠を見ると、彼は目をまんまるにしてこちらを見ていた。
「ほんとにもう一泊してっていいの?」
倫瑠は首を横に振った。ダメという合図ではなくて、欧米人がやるような、驚きのあまり放心して首を振ってしまう仕草だった。
「すごいな」
ようやく口を開いた倫瑠は表情を明るくした。
「いやぁ、驚いた。うまいな」
「どうも」
「誰かに教わってるの?」
「全然」
「じゃあ、天性の才能だ」
才能。そんな立派なものじゃない。それより、今夜のことだ。泊めてもらえるのかどうか。
「ねぇ」
「なぁ、よかったら今夜、おれたちの舞台を観に来ないか」
前のめるように倫瑠は言った。おれたちの舞台。なにに誘われているのか最初はピンと来なかった。
「昨日の夜、出てたっていう?」
「そう。今夜も一公演あるんだ。当日券が確か出るはず……聞いてみるよ」
「ちょっと待てって。おれ、行くなんて一言も」
「ダメ。絶対に来い」
「はぁ?」
「観たことないんだろ、生のステージ。文句ならいくらでも聞くし、チケット代はいらない。だからとにかく観ろ。きみは特に観たほうがいい」
「なんで。おれは特にってどういう意味」
倫瑠は手にしていたスマートフォンから顔を上げ、なにかを確信したような笑みをこちらへ向けた。
「持て余してるきみの才能を、きっと生かしたくなるからさ」
平日の夜だというのに、五百人弱が入る会場に空いた席は見つからなかった。九割が女性客で、それぞれ目当てのキャストがいるようだった。
狭い会場だから、最後列の席でも舞台の緞帳がとても近くに感じられた。学校の体育館のほうがずっと広い。登壇して挨拶をする校長先生の顔よりも、ここから見る倫瑠の顔のほうがずっとはっきり見えそうだ。
客席の明かりが消え、音楽が鳴り響き、青と黄の照明が灯ると同時に緞帳が上がる。舞台の左右から十人ほどのキャストが登場し、まずはきれいに揃ったダンスで魅せる。
倫瑠もその中にいた。世界レベルだというダンスはホラを吹いたわけではなく、素人が見ても一目でわかるほど高い実力の持ち主だった。長い手足を生かし、誰よりも大きく、メリハリをつけて踊っている。顔には常に輝かしい笑みが浮かんでいた。
宝石箱のような舞台だった。
ミュージカルだとは聞いていたけれど、想像していたよりもはるかに多くの音楽に満ちあふれた時間だった。役の感情を歌に乗せ、物語の情景をダンスで表現する。セリフと演技は世界観を崩すことなく、物語への没入感を高めてくれた。
倫瑠のダンスは群を抜いてすごかったけれど、なによりも心を打たれたのは主演の女性の歌声だった。高らかに響く歌声は甘く、時に暴力的で、見る者の感情を激しく揺さぶってくる。まるで金縛りにあったかのように身動きが取れない。彼女だけでなく、キャスト全員のハイレベルな歌声に、これまで経験したことのない高揚感とときめきを覚えてやまなかった。
胸の奥が熱くなる。ステージの感動よりも、羨望を強く感じた。
無数のきらびやかな光の中で、自分を見てくれる誰かを楽しませる仕事。この劇場が、舞台の上が、俳優であり、ダンサーである倫瑠の居場所。
うらやましい。やりたいことをやれる環境。自由に選べる人生。笑顔でいられる場所があることだってそうだ。彼の手もとにあるなにもかもが、この手にはつかめないもの。
終演後、倫瑠の家の近くにあるファストフード店で彼の帰りを待っていた。劇場からまっすぐ店にやってきた倫瑠は「お疲れ」とこちらが言うべきセリフを口にし、ボックス席の向かい側に座った。
「楽しんでもらえたかな?」
「はい、とても」
「そう。それはよかった」
「ダンス、本当にうまかったんですね」
「ありがとう。おれの武器は今のところダンスだけだからさ。そこだけは譲れないかな」
「演技もよかったです。話もおもしろかったし」
倫瑠は満足そうに笑った。水を運んできた店員が「お決まりになりましたらボタンでお知らせください」と言って去っていく。




