4-3.
家に帰ると、樹に驚いた顔をされた。
「早いじゃん」
「うん」
リビングにいた樹は、ダイニングテーブルに数学のテキストとノートを広げ、学校でもらったらしいプリントの山をその脇に積み上げていた。それらをテーブルの隅へ乱雑に寄せ、「ちょっと待ってて。すぐメシあっためるから」と言ってキッチンへと急いだ。
「学校の宿題?」
鍋を火にかけ、冷蔵庫から取り出した皿を電子レンジに突っ込んでスイッチを入れる樹に尋ねると、「そう」と素っ気ない声が返ってきた。
「たくさんあるのね」
「まぁね。受験生には容赦ないって感じかな」
鍋の中身は味噌汁で、皿にはエビフライが載っていた。サラダは別のフードコンテナに盛りつけられているものをそのまま出され、白いごはんをよそった茶碗にはごま塩を振りかけてくれた。成美が子どもの頃から白米が苦手なことを樹も知っているから、必ずふりかけで味をつけて出してくれるのだ。冷えた缶ビールを添えることも忘れない。
「エビが安くてさぁ」
いただきます、と手を合わせてから食べ始めた成美の向かい側に座ると、樹は主婦みたいなことを口にした。実際に相野家で主婦業を担っているのは九割方樹である。
「調理は面倒だけど、たまーに食べたくなるんだよな、魚介類って」
「わかる。おいしいもんね、エビも魚も。……うん、おいしい。このエビフライ最高」
「そりゃどうも」
お世辞ではなく、本当においしいエビフライだった。下味をしっかりつけているようで、ソースなしでもまったく問題ない。成美の料理の腕を抜き去ったのはもう何年も前の話だが、また少し上手くなっている。室内はいつ帰っても清潔で、洗濯物が床に転がっていることもない。家政婦としての仕事が来ても、樹なら代金以上の仕事をするだろう。
成美は口の中を空にし、箸を置いた。
「ねぇ、いっちゃん」
「ん?」
「今の暮らしで、いっちゃんは幸せ?」
子どもを侮ってはいけない。平良倫瑠は十五歳という若さで沖縄から単身上京し、三栗谷悠斗も現役高校生ながら都内で一人暮らしをしている。樹だって、その気になれば成美との暮らしを放棄することができるだろう。あるいはすでにそんな未来を思い描いていてもおかしくはない。
「うーん、どうだろうなぁ」
樹は拍子抜けするほど軽い調子で答えた。
「友達の話を聞いてると、親にガミガミ言われてウザいとか、兄弟喧嘩がどうとか、けっこう大変そうなんだよな。けどうちは基本的に俺一人だろ。そういう意味では気楽だよなって思う。幸せかどうかって訊かれたら……そうだな。不幸ではない、って感じ」
「幸せではない?」
「わかんね。そこまで深く考えたことない」
成美は力なく笑った。なにを期待していたのだろう。こんな暮らしだけど幸せだよ、とでも言ってもらいたかったのか。いくらなんでも虫が良すぎる。遊び盛りの中学生に家事を押しつけておいて。
本堂に賢いと言われた。どこがだ。本当に賢い人は息子に無理をさせない選択肢を迷わず選べる。私はバカだ。賢いのはいっちゃんだけ――。
「それで?」
テキストとノートを自分の前にたぐり寄せながら、樹が成美の顔を覗き込む。
「今の質問は蝉川玲央が死んだ事件となにか関係があるわけ?」
さりげなさを装っているが、下心は見え見えだった。大人気ボーイズアイドルの死に母親が警察官としてかかわっていると知れば、捜査はどんな具合かと気になるのも無理はない。成美がよく酔っ払って仕事の愚痴をこぼしたり、捜査に行き詰まっていると漏らしたりするのも原因の一つだ。なにも言わないのにビールを出してきたのも、成美がうっかり蝉川殺しについてしゃべることを期待しているに違いない。
成美が黙っていると、樹はテーブルに身を乗り出すように腕を置いた。
「なぁ、なんで蝉川玲央は死んだの」
「捜査中」
「殺されたんだろ? 路上で刺されたって、夕方のニュースで言ってた」
「そうよ」
「通り魔の仕業?」
「さぁ、どうかしら」
「ふぅん、違うんだ」
わかったような口ぶりで樹は言う。イエスともノーとも言っていないのに、成美の表情や態度だけで答えがわかってしまうのは親子だからか、それとも単純に樹の勘が鋭いからか。
「じゃあ犯人は、相手が蝉川玲央だとわかっていて殺したってことか。なんで犯人は蝉川玲央を殺さなくちゃならなかったんだろ。やっぱり芸能人って、人前に出ないところじゃけっこう悪いことしてんのかな」
しゃべりながら樹はビールの缶のプルタブを引く。「はい」と封を切った缶を成美の前に差し出し、ニコリと一つ笑ってみせる。取調べで被疑者に迫る刑事のようだ。吐け、という無言の圧力。
ひったくるように缶を取り、豪快に喉を鳴らして呷る。女っ気のカケラもない。樹が顔をしかめることもない。
「わからないのよ」
これはひとりごとだと自分に言い聞かせ、成美は考えをまとめがてら口にしていった。
「丸一日かけて調べて、蝉川が殺されるような理由はどこからも見つからなかった。Billionのメンバーや所属事務所の関係者も、なぜ蝉川が殺されたのかわからないと口を揃えて言ってる。でも、そんなはずはないのよね。通り魔による無差別的な犯行だったならまだしも、今回の犯人は明らかに蝉川を狙って殺してる。だとするなら、どこかに必ず理由がなくちゃおかしい」
樹は二、三度うなずいて、考えごとをするように視線を斜め上へと投げた。
「理由がないっていうのが、一番の理由だったりして」
「理由がないことが理由?」
成美の眉間にしわが寄る。樹はこうして、時に突拍子もないことを思いつく。
「どういうこと?」
「たとえばさ、殺したいと思ってる人を殺しちゃうことが、犯人にとってデメリットだったとしたら? ほら、死ぬより生きることのほうが苦しいって話、よく聞くだろ。だからみんな自殺するんだ、とかさ。それと一緒で、犯人が本当に狙っているのは殺したいほど憎い相手なんだけど、生き地獄を味わわせてやったほうがそいつにとってつらいかもしれないって犯人が考えたとしたら、そいつのことは生かしておいて、そいつの周りにいる大切な人たちを殺してるっていう可能性もあるよな。身近な人を失えば、誰だってつらい思いをするだろうし」
なるほど、一理ある。
「じゃあ、犯人の真の狙いは別の人間?」
「知らないよ。そうかもしれないって話」
「待って。もしそうだとしたら……」
あのメッセージカードは、やはり次の殺人を予告しているのか。動機は平良倫瑠関連、次のターゲットは仁木魁星。
カードに書かれた歌詞の当初の歌割りについて知っていた人間はごく少数。つまり、カードを作ることができた人間も、その意味に気づける人間もわずかだった。
犯人は、Billionのメジャーデビューに携わった人物。そして、犯人の真のターゲットもまた、Billionにかかわる者。平良倫瑠絡みでメンバーが次々と殺されることで、精神的に追い詰められる立場にある誰か。
そう考えれば、犯人が女装をして蝉川玲央を訪ねた理由もわかる。カードを使うことで容疑者の範囲を絞り込むことにつながれば、顔を隠さないとすぐに自分の犯行だとバレてしまう。男か女かという話は別として、とにかく犯人は警察に顔を知られるわけにはいかなかった。だから変装をする必要に迫られた。あわよくば警察が自分とはまったく容姿の違う女性の影を追いかけてくれればいい。そんな風にも考えたかもしれない。
だが、違和感はある。いくら女装をして蝉川を訪ねても、インターホン越しに呼び出すには名乗る必要があるわけで、蝉川は来訪者の声だけで誰であるかを判断する必要があったはずだ。容姿はごまかせても、声だけは素の自分を出すしかない。インターホンには録画機能がついているのだから、録音された音声で誰だかわかってしまうのではないか。
そうじゃない。犯人はおそらく、警察に声を拾われることはないとわかっていたのだ。
カメラ付きインターホンには、録画も録音もできるタイプ、録画はできても録音はできないタイプ、静止画のみ録画できるタイプなどさまざまな種類がある。もし蝉川の自宅マンションで録画された映像に録音された音声が残されていれば、鑑識係が報告しているはずだ。
つまり、蝉川の自宅マンションのインターホンは録音機能の搭載されていないタイプ。犯人はそれを知っていたからこそ、直接彼の自宅を訪ねて呼び出すことに成功した。
渋谷南署の八杉が言っていたとおりだ。犯人はかなり入念に下調べをした上で犯行に臨んでいる。とするなら、おそらく次の犯行も――。
成美はスマートフォンを取り、本堂に電話をかけた。本堂はすぐに応答した。
『お疲れ様です。どうしたんですか、主任』
「仁木魁星の所在確認、頼める?」
『え?』
「今日は自宅待機を命じられているはず。ちゃんと家にいるか、すぐに確認して」
『わかりました』
「仁木に会えたら、一人で出歩かないこと、誰かが訪ねてきても家にあげないことを徹底させて。どこかへ行きたい時、買い物なんかはマネージャーの一人を選んですべて同じ人やってもらうようにって」
『主任、やっぱりあのカード、犯行予告なんですか』
「わからない。でも、用心するに越したことはないでしょ。接触する人間が特定される状況にしておけば、なにかあった時のためにもなる」
『そうですね。了解です。すぐに連絡を入れます』
お願い、と言って電話を切る。手遅れでした、なんてことがないよう祈るしかないが、練り上げた計画に沿って動いている犯人のことだ。警察があのカードを犯行予告だと考える可能性も考慮に入れているだろう。仁木へのガードが堅くなることがわかった上で事に及ぶつもりなら、たいした度胸と自信の持ち主ということになる。
動くだろうか、犯人は。近日中か、あるいは、今夜。
手もとで弄んでいたスマートフォンから顔を上げると、頬杖をついて成美を見つめている樹と目が合った。
「なによ」
「また誰か死ぬわけ、Billionは」
「わからない」
「すごいグループだな。人気商売だと、やっぱり恨みとか買うんだ」
他人事のように言って、樹は閉じられていた数学のテキストを開いた。聞きたいことが聞けて満足なのか、宿題の続きをやっつけにかかろうとする。
「樹は将来、なにになりたいの」
成美も箸に手を伸ばしながら尋ねた。高校受験の話をすると決めていたが、受験はゴールではない。どんな大人になりたいか、そのためにどんなことを学びたいのか、これまで樹とちゃんと話したことはなかった。
樹は「俺?」と顔も上げずに答えた。
「殺人事件と縁のない職業だったらなんでもいい」
苦笑するしかない回答だった。すっかり嫌われてしまっていることを再認識し、成美はエビフライに箸を伸ばした。




