4-2.
マンションのエントランスから外へ出ると、かすかに雨のにおいがした。深夜から明け方にかけて一雨降るとラジオの天気予報が伝えていたことを思い出した。
「樹くんのこと考えてます?」
車に乗り込むなり、本堂が運転席から尋ねてきた。ちらりと本堂の顔を見ると、本堂は満面の笑みで言った。
「大丈夫ですよ。主任が樹くんのことを見捨てない限り、樹くんは主任のもとを離れたりしません」
「なんであんたにわかるのよ」
「そりゃあわかりますよ。子どもにとって、母親は特別な存在ですからね。主任のことを誰よりも大切に思っているからこそ、樹くんは毎日一人で主任の帰りを待ち続けているんです。多忙な主任が少しでも楽できるように、家事も一生懸命やってね」
えらいですよ、と本堂は柔らかい笑みを浮かべて樹を褒めた。本堂の言うとおりならいいのだが、不安は常につきまとって離れない。
車がゆっくりと発進する。開け放った窓から吹き込んでくる湿った夜風に背中を押されるように、成美は静かに口を開いた。
「怒られたの、昼間。あの子がどこの高校に行きたいか、私、知らなくて」
樹からミーハーな電話がかかってきた時のことだ。結局あの電話で樹が言いたかったことはなんだったのだろう。わかったことは、樹に恋人がいて、その恋人が三栗谷悠斗のファンであるということだけだ。
「C高校ですよ、樹くんの第一志望校」
本堂がさらりと答えた。さすがの成美も目の色を変えずにはいられなかった。
「なんであんたが知ってるの」
「ほら、去年僕が主任の代わりに樹くんの保護者面談に行かされた時ですよ。僕がC高の出身だって話をしたら、樹くんも『じゃあ俺もC高に行こうかな』って。というか僕、この話ちゃんと報告しましたよね?」
思い出した。樹が中学二年生の時の冬だ。被疑者の取調べが長引いてどうしても手が離せず、急遽本堂を中学へ送り込むことになった時があった。確かに本堂は樹の学校生活の様子や高校受験の話を成美に細かく報告してくれていたけれど、どうせ特に問題ないのだろうと適当に聞き流していた。頭の中は事件のことでいっぱいだった。
それにしても、C高校と言えば都立高校の最高峰じゃないか。どこかぼんやりしているくせにちゃっかり国立大を出ている本堂がかよっていたのはわからないでもないが、樹がC高生になった未来はどうにもうまく想像できない。利口な子だということは理解しているはずなのに。
「あの子、そんなに頭よかったんだ」
「なにを今さら。主任のお子さんなんですから当然でしょう」
「私、学校の成績はそこまでよくなかったけど」
「へぇ、意外。でも、話していれば人の賢さってわかるものですよ。主任も樹くんも利発な人です。勘がいいっていうか」
国立大出身者からの賛辞などむしろ嫌味にしか聞こえないが、自分はともかく、樹を褒めてもらえることは母親として鼻が高い。母親らしいことはなにもできていないし、樹が勝手に賢く育っているだけなのだけれど。
午後八時を回っている。この時間、樹はなにをして過ごしているのだろう。小学生の頃はゲームばかりやっていたように見えたけれど、なぜか通知表の評価は悪くなかった。常に考えて行動していることの証左だ。ゲームを楽しみたいという気持ちにどこかでケリをつけ、勉強に勤しむ時間をきちんと作っているに違いない。
「ねぇ、本堂」
「いいですよ、帰っちゃって」
成美がなにも言わないうちに、本堂は先を読んで笑った。
「家まで送ります。あとはこっちでやっておきますからご安心を」
樹に会いたいという気持ちが顔に出たらしい。まだまだ半人前だと思っていた本堂も、いつの間にか勘を磨き、刑事らしくなってきた。若者の成長は早い。
「ごめん」
「僕、ずっと気になってるラーメン屋さんがあるんですけど」
「わかった、今度連れてく」
「やった」
相変わらずちゃっかりしている。本堂らしいと言えばらしい。
「そうだ。どうせなら樹くんと三人で行きましょうよ。男はだいたいラーメン好きですから」
「生意気なこと言わないで」
すいません、と本堂は言ったが、横顔は嬉しそうだった。一回り以上歳の離れた後輩に弄ばれるのはおもしろくないけれど、本堂の人柄か、どうにも憎めない。




