2-3.
「はい」
『あ、母さん? ごめん、今忙しい?』
樹の声は穏やかだった。というより、どこか嬉々として聞こえさえする。
さすが現代の若者。噂はあっという間に流布し、息子の耳にも届いているようだ。
「いいえ。なにかあったの?」
『なぁ、今朝母さんが呼ばれた殺人事件って、Billionの蝉川玲央が死んだ事件?』
やっぱり。成美は前髪を無造作にかき上げ、ため息をつきそうになるのをこらえた。
「急用じゃないなら切るよ。忙しいの」
『待った待った! てか、忙しくないって言ったよな、今』
「くだらない話をしている暇はないってこと。じゃあね」
『ちょっと待てって。たまには息子の話も聞けよ。いつも俺が聞いてやってんだから』
そう言われると返す言葉がない。どこで鍛えたのか、樹の聞き上手ぶりは天下一品で、ビールを引っかけていると特に、落ちついた物腰のバーのマスターに相手をしてもらっているような気分であれやこれやと話してしまう。こっちは樹のことをろくに知らないくせに、樹はたぶん、成美のことを誰よりもよく知っている。熱心に働く刑事であり、家庭を顧みることが極端に少ないダメな母親。彼の認識が覆ることはきっとない。成美が刑事でいる限り。
だからたまには、母親らしいことをしてやらなくてはならない。じゃなければ、いつか樹は成美が母であることを忘れてしまう。
「なに」
『なぁ、もうBillionのメンバーとは話した?』
「えぇ、ついさっき。それがどうしたの」
『いや実はさ、カノジョが三栗谷悠斗のファンらしいんだよ。俺も今日知ったんだけど』
「カノジョ? 誰の」
『俺の』
「俺の?」
待て。聞いてない。樹のやつ、いつの間にカノジョなんて――。
「あんた、カノジョなんていたの」
『いたよ』
「いつから」
『中二の秋から。つーか、俺の話はいいんだって。そんでさ』
「よくない。そういうことはちゃんと報告しなさいよ」
『なんだよそれ。普段俺のことなんて全然興味ないくせに、浮いた話になると急にしゃしゃり出てくんのかよ』
「興味ないって、そんなこと」
『ないだろ、実際。今の俺の成績、知ってる? どこの高校が第一志望か、知らないだろ。知らないよな。話したことないし、訊かれたこともない。ていうか、俺が今年高校受験だってことすら知らないんじゃないの』
「いい加減にしなさい!」
声を張り上げてから、猛烈に後悔した。上から押さえつけたってなんの意味もない。樹はなにも悪くない。悪いのは、母親らしいことをなに一つしてやれない自分だ。
「ごめん、いっちゃん」
『いや、俺もごめん。言い過ぎた』
樹の対応は大人だった。いつもそうだ。成美のほうがガキっぽい。自分のことばかりを考えて、自分の都合に樹を巻き込んでいく。
大人はズルい。金と地位と力で子どもをねじ伏せ、振り回す。電話の向こう側にいる樹が今、どれほど冷めた目をしていることか。わかっているから、恐ろしくて想像できない。
「それで、三栗谷悠斗がなんだって?」
『ううん、なんでもない。仕事がんばって』
一方的に電話を切られた。成美は目を閉じ、胸の痛みに耐える。
久しぶりにうまくいかないと感じた。やっぱり、という言葉が頭につく。やっぱり、うまくいかない。
樹を産んでから、刑事を続けていく自分に対して一つだけルールを課している。どれだけ忙しくても、夜は必ず家に帰ること。夜通しの張り込みになることがわかっていても、一度帰宅して樹の顔を見てから出直す。一昔前なら理解されなかったかもしれないが、時代の追い風を受け、刑事部に籍を置いていてもこのルールだけは守らせてもらえている。
もちろん、これだけじゃ足りないことなど百も承知だ。実際、先ほど樹に指摘されたことはすべて図星だった。あの子がどこの高校へ進みたいのか、成績は希望に追いついているのか、なにも知らない。早い家庭では子どもが中学生になった頃から高校受験に向けて動き出しているという。他の家庭と比べる必要はないにせよ、受験生の息子を持つ親で、息子の成績を知らないのはきっと成美くらいだろう。
事件のせいにしてはいけない。この仕事を選び、やめられないでいるのは自分だ。
さっさと犯人を見つけ出し、きちんと腰を据えて樹と高校受験の話をする。ズレた目標設定だとわかってはいるけれど、こうやって決めておかないと、自分が母親であることをすぐに忘れてしまう。情けない。
罪悪感とともにスマートフォンをバッグにしまい、成美は閑散としたライブ会場の通路を歩き出した。
刑事としても、母親としても、やるべきことは山ほどある。




