055-000 栗原病院
相手にお礼を述べてから結界道の外へと出れば、既に空は暗くなりかけていた。
区内というからには、電柱の表示は見たことがあるモノに違いない。そう感じて電柱を探したが見当たらず、仕方なく人気のない大通りを歩いてみる。
しばらくして、一軒の家の標識から区内であることが判明した。それも、廃病院の裏側に当たる地域だったらしい。
近くを散策すればドブの臭いがしたので、その排水沿いに進み、川沿いの土手に出る。
土手を上がって川下を眺めれば、遠くの方にある平原と廃病院の建物が目に映った。
見通しが良い場所なのに黒い面が1人も居ないのは、廃病院の瘴気に当てられて既に魔力暴走をして自爆した者が多い所為なのかもしれない。
土手沿いに歩きながら、体の一部を黒い砂と化した死体を眺めながらそう考えていた。
廃病院の中は異様に静かだった。
誰も、何も居ないのが、逆に末恐ろしくも感じた。
私の足音だけが1階のホールに響いている。
電気はないので、記憶の中にあった光の術式を数ヶ所に小さく広げる。
ある程度、広げたあたりで二重の結界を張り、やっと紙袋の中身を取り出せた。
中身は大半が名簿や病院に関することだったが、その中の1つ、クローンに関する資料を開く。
恐怖からじっとりと背中が濡れていた。
内容は記憶と大差ない。
私が知りたかったのは、場所。
外が全く解らない閉じられた場所だったので、記憶だけでは限度があった。
だが、その資料では解らなかった。
次に地図を取り出すも、それらしき部屋はない。
『何を探しているの?』
如月が私に訊ねた。
夢か、現実か。
解らなくなった私は呆然と答える。
『思い出せそうで、思い出せない記憶を』
『……貴方も探しに来たのね、原点を』
答えた如月が私の手を引っ張る。
そして案内されるがまま、2階にある面会受付までやって来た。
如月はその関係者以外立入禁止の扉を2度も開けて進む。
その先にあったのは、狭い部屋にポールが1本。それは下にしか続いていない。
『一度下りたら看護師でも能力者でも戻れない場所』
そう言った如月が私を振り返る。私と同じ桜色の髪がふわりと舞う。
『進むなら付き合うよ?』
答えは既に出ている。
私が頷けば、如月は頷いて先にポールを下りてくれた。
地下に繋がる唯一のポールを握り、一気に下る。
手に感じていた摩擦熱は少し気になった。火傷をしているかもしれない。
でも、それ以上に先へと急いだ。
複数のトラップが発動して行く手を遮って来る。
背後からは巨大な岩が迫って来る。
だが、私の一歩先を、一緒に進んでくれる如月の気配を強く感じた。
だから進める。
『お願い! お母さんに会わせて!』
気配に伝えれば、軽く頷く動作が見えた。
そして立ちはだかるトラップを解除してくれる。
やがて、背後の岩が挟まって停止し、目前のトラップと共に気配も消えた。
代わりに、頑丈そうな鉄の扉が現れていた。
番号と英語を組み合わせた暗証番号を入れなくてはならない。
『――』
如月の声が聴こえた。その声の通りに入力する。
扉は開いた。
そして、絶句する。
どのくらい時間が経ったのか、解らない。
目覚めた時には1階のホールに外からの日差しが差し込んできていた。
どうやら如月との出会いは夢だったらしい。
ただ、手元にあったはずの資料も全て消えてしまっていた。
しかし、持ち去った者の気配は全く残されていない。
扉の先にあったのは、細長くて巨大な試験管の中で吊り下げられていた "私たち" だった。
それが何十個と連なり、朽ちることなく可動することを待っていた。
そして、その先にはお父さんが居た。
お父さんは私の肉体を、裸を舐めていた。
思い出すだけで虫酸が走る。
だが、収穫もあった。
私を吊っていた蔦は、小池を飲み込んだ黒い蔦と同じモノだった。
そして、その黒い蔦はお父さんの指の先からも伸びていた。
廃病院を出て、呆然と川の向こう側を見つめた。
ここの川は世界で最も流れが速いと言われ、特に川下のこの辺りは深めの谷になってしまっていた。
大昔の人間が、あまりの氾濫の多さから川の両脇をコンクリートで高く積み上げた所為で、行き場を失った水が水底を、つまり大陸を削ってしまっているらしい。
よって滝のようにゴウゴウと音を立てながら海へと落下していく。
その音は都会の騒音をかき消し、死体は水圧で沈むことからも、昔から自殺の名所になっている。
だから、忌み嫌われたこの地に病院は建てられた。
この滝のような川の上を1本の橋が通っている。その橋は線路専用で通常は渡れないが、ここよりも更に忌み嫌われた土地、千波県に行くためには最短ルートになる。
だから敢えて橋を渡った。
対岸にはしばらく彼岸花が湧き乱れていたが、やがて田んぼや畑へと移行する。
ここが開拓されていないのは、輪廻が始まる以前に都内の人間と山林の妖怪との間で紛争があったため。
今はその妖怪も人間社会に多く混じっているものの、当時は文化の違いから相容れることはなかったと聞いている。
千波県の海沿いに路線は続く。
何もない路線沿いに進む。
今や1時間に2本はあるはずの電車も来ない。
ただただ、何もない土地をゆっくりと進む。
やがて、半透明の壁が目の前に迫って来た。
美島市の結界だと解り、ゆっくりと近付いて触れてみる。
でも、結界は凝固化されていて入らせてはくれなかった。
恐らくは、都内の状況から黒い面を侵入させないようにしているのだろう。
普段なら居るはずの結界の警備隊も今はその気配すらしない。
「……何しに来たのですか?」
不意に結界の中から少年のような声が聴こえた。
でも、こちらから気配は消されていて正体までは解らない。
しかし、チャンスは今しかないと感じて答えた。
「思い出せそうで、思い出せない記憶を探しに来た」
「後日にして下さい」
「ここは、私の故郷」
居なくなりそうだった相手に対して、この土地に対する強い感情を伝えた。
相手が立ち止まった気がした。
「どうしても死ぬ前に知りたいことがあって来た。私をこの中に入れて下さい。お願いします」
「……解りました。見張りを付けます。それでも良ければ自由になさい」
相手は消えた。それと同時に開かれる結界。
私は他人の家に上がるように静かに潜ることにした。




