15.クリアな世界
0.5だと思っていた視力は、もっと悪かった。
0.3、それが機械の力を借りて分かった今の私の正しい視力。
「今までよく我慢していましたね、不便だったでしょう?」
店員さんがそう言うほどだ。
本当に私は色々なことから目を背けていたんだろう。
検査は20分ほどかかって、私に合う度数を調べてもらう。
「度数がかなり上がりますので、少し慣らして頭痛や吐き気がないか試してみましょうか」
そういってお姉さんは試着用の眼鏡を渡してくれた。
真っ黒の、重くて頑丈そうな眼鏡。
少しだけ野暮ったく見えてしまうこの眼鏡を、好きな人の前でかけるのはちょっとだけ恥ずかしい。
けれどそんなことを言っていられるはずも無くて、素直に耳にかける。
その瞬間、視界が一気にクリアになった。
今までとはまるで違う、輪郭が一直線の開けた世界。
まるで読み取れなかった遠くの看板が、小さな字までしっかり見える。
窓から見える道路のヒビまでくっきりと。
「おお……」
思わず感動して、声が出た。
ずいぶんとお久しぶりなくっきりした世界。
心なしか世界が少しだけ明るく見える。
「理子」
そうして、私はやっと詩音先輩の顔をはっきりと見ることができた。
呼びかけられた声に反応して視線を向ける。
そこにいたのは、前より少しだけ慣れたはずの、けれど見慣れないはっきりと見える詩音先輩の顔。
綺麗な、二重。
薄くて小さな泣きボクロが右側にひとつ。
左右対称の口元は、少しだけ下唇の方が厚い……のかな?
やっと、知ることの出来たそんな詩音先輩。
「頭、痛い?」
心配そうに尋ねてくれるその眉の小さな動きに、きゅんとした。
表情のあまり変わらない人だと思っていたけれど、全然違ったのだ。
少しだけしか動かないけれど、きちんと表情が変わる。
そういう人なのだとまた新しい発見。
嬉しかった。
クリアな世界で見える詩音先輩は、やっぱり完璧な人形のように美しい。
陶器のようなしみ一つない肌。
大きな目に、少しだけ高くて小さな鼻、品の良い唇。
どのパーツも綺麗に左右対称で、その瞳はガラス玉のように澄んだ青色。
けれど案外表情豊かで、心配性で、人間らしい人だと知ることができた。
だって今も私を見て眉を寄せ心配してくれている。
その眉の動きはかなり小さいけれど。
口元のちょっとした歪みは近くで見ないと気付かない程だけど。
今までの視界では見えなかった部分だから。
「大丈夫ですよ、先輩」
ふっと笑って答える。
怖がっていたこの世界が今はとても嬉しいだなんて私は随分と現金なのかもしれない。
けれど嬉しいものは嬉しい。
詩音先輩のおかげで、恐怖はほとんど感じなかった。
「ふふ、仲良しですね。付き合いたてかな?」
店員さんがにこにこと笑って問いかけてくる。
その言葉にきょとんと首を傾げ慌てて首を振った。
「えっと、その、先輩は、お、お友達……で」
「あら、そうなの? てっきり恋人かと」
「……理子とは友達、です。…………まだ」
「あら? ふふふふ、そう、それは尚更可愛い眼鏡、選ばないとね」
微笑ましく見守られる視線が少し恥ずかしい。
居心地が何となく悪くて、思いっきり俯いてしまう。
「理子、具合……悪い?」
「い、いいえ! 全然、全然元気です」
心配されてしまうから、長続きはしなかったけれど。
「はい、時間です。どうですか? 頭は痛い? 吐き気はない? 目、痛くないかしら」
「大丈夫、です。ぐるぐる視線を動かすと少し目が驚くけれど」
「そう。度数下げることも出来るけれど、どうする?」
「いいえ。いいえ、これでお願いします」
「はい、分かりました。それではフレーム、選びましょうか」
クリアな視界はあっという間に元に戻る。
度の強い眼鏡を付けた後だから、尚更見えが悪くなった私の目。
少しだけ、残念。
そのあとは先輩が手を貸してくれて、店内を歩いて回った。
眼鏡の種類は百を超えるのだという。
縁の太さや色、金具の形や、フレームの有無などたくさんのデザインが並んでいた。
視力の悪さと、鈍感な美的センスのおかげで私は何が良いのかまるで分からない。
どれも皆、可愛く見える。
私の顔……負けてしまいそう。
そう少し落ち込むくらいだった。
「理子はどういうのが良いの?」
「わ、私……ですか? えっと、その」
「色、好きな色は?」
「色……、明るい色が好きです。淡いほんわかした」
「うん、そっか。柄とか、嫌い?」
「柄? 派手な色使いは少し負けてしまいそうで……、小さいお花は好きです」
詩音先輩が私に質問をしながら色々と手に取ってくれる。
私の眼鏡をとって、いくつか直接耳にかけてくれた。
大きな手が、頬に少し触れてドキドキと心臓がうるさい。
真剣な視線を感じて、硬直してしまう。
だ、駄目。
きちんと眼鏡、選ばないといけないのに。
そう思いながらも、意識が持っていかれて困ってしまう。
「これ、嫌い?」
「え?」
「俺、これ可愛いと思う」
気付いた時には、私の目元が淡いベージュだった。
試着用の鏡をぐっと近くに寄せられて、視線を移す。
耳にかかる部分が少し太くて小さな花柄の可愛い眼鏡。
今持っている黒ぶちの眼鏡からはうんと印象が変わる。
「可愛い……」
とても好きなデザインの眼鏡だった。
淡い色で、明るい色で、優しい色で、目立ちすぎない柄。
「よくお似合いですよ。これならフレームも太いですし、レンズが太めでも隠れて大丈夫」
「えっと、先輩」
「うん、可愛い」
「っ、あの、あ、ありがとう、ございます」
満足そうな笑みが見えて、熱くなってしまった。
ぎゅっと服の裾を掴んで膨れる感情を頑張って逃がす。
「こ、これ、選んでも良いですか?」
「ええ、勿論です。これに決めますか?」
「は、はい!」
優しい優しい店員さんの声が耳に残った。
ふふ、と笑い声が聞こえる。
やっぱり少し恥ずかしくなって俯いてしまう私。
ぽんぽんと頭を撫でられて、いよいよ頭が上げられなくなった。
待ち合わせてから2時間。
人生初体験のデートは、そうやって終わりを迎える。
帰りはきっちり距離をあけて歩く。
どうにも照れくさくて、そうじゃないと上手く会話ができなかった。
「あの、今日はありがとうございました!」
家まで送ってくれた先輩に頭を下げる。
先輩はやっぱり頭を撫でてくれる。
「こっちこそ、楽しかった。良いの見つかって良かったね」
柔らかい声にコクコクと私はひたすら頷いた。
楽しかった。
本当に、楽しい1日だった。
上手に話は出来なかったかもしれないけれど。
それでもたくさんのことを知ることができた1日だ。
「あの、また」
「うん?」
「また……」
また一緒にお出かけしたい。
その言葉が零れそうになって、けれど詰まってしまう。
どこに行くとか、何をするとか、まるで思いつかなくてどう誘えば良いのか分からない。
それ以前に迷惑かも。
出かかった言葉が萎んで、小さく息を吐き出す。
「また……また、明日。学校で」
「うん。また明日。待ってるね、昼一緒に食べよう」
「は、はい」
誤魔化して、しまった。
詩音先輩は少しだけ首を傾げて、けれど私に合わせ返してくれる。
ぽんぽんと頭を撫でて「またね」と去っていく。
『付き合いたてかな?』
眼鏡屋さんの店員さんの声が頭に浮かんでぼんやりと空を見つめた。
「付き合い、たいなあ」
分不相応だと、分かっているけれど。
私には勿体ない人だと、知っている。
綺麗な人で、温かくて優しくて、多くの人に好かれたすごい人だと思う。
会話も下手で臆病な私では相応しくないのかもしれない。
それでもムクムクと湧いてくるのは、強くて我儘な想い。
「好き、です。付き合って、ください」
独り言だけでも、恥ずかしくてうずくまってしまう。
顔をきちんと見られるだろうか。
いっそのことぼやけた視界なら、言える勇気も湧く?
そう考えた瞬間に、首を振る。
「ぼやけた視界は、卒業だから」
小さく決意した。
このままじゃ、駄目だ。
ちゃんと向き合わないと。
そう思って息を吸う。
「次の、目標」
大失敗するかもしれない、今までで一番のハードル。
ちゃんと変わろう、少しでも相応しくなれるように。
少しだけ強くなれた瞬間だった。




